震災から5年、~生まれ変わる街・女川町~|旅人:井門宗之

2016-03-04

 

東日本大震災の発生から間もなく5年の月日が経とうとしている。

言葉にすれば簡単だが、時間にすれば「5年」は相当な年月。

現にこの5年で様々な事が変わっていったように思う。

 

 

5年前のあの時、僕は東京の半蔵門にいて地震に遭った。

ちょうどYAJIKITAの会議中で、JFNの3階にある会議室にいた。

スタッフに配る資料を出力しに2階の事務所に降りた、その時。

2011年3月11日14時46分。

 

 

制作部員のデスクにうず高く積み上げられたCDは雪崩を起こし、

事務所にいた人間は揺れが治まるまで机の下に隠れたりしていた。

僕はいつまでも続く様な揺れを感じながら、スタジオが気になって仕方無かった。

この日は金曜日で、ちょうど「Friday Goes On」が生放送中だったからだ。

揺れが収まるのと同時に担当プロデューサーと会社を飛び出すと、外は騒然としていた。

高層ビルを建設中のクレーンは大きく左右に揺れ、

オフィスビルから出て来た沢山の人達は、不安げに寄り添いながらその光景を眺めている。

どこが震源で、どんな状況なのか、全く分からなかったけど、

とにかく尋常じゃ無い事が起こった事だけはハッキリと分かった。

 

 

僕らがTFMに到着した時は既にエレベーターは止まっていて、

7階にあるスタジオまでは階段を駆け上がった。

確か4階くらいで息が切れて、

あぁ・・運動しておけば良かったなぁ、なんて緊張感の無い事を考えたのを覚えている。

繰り返しになるが、この時はどこで地震が発生して、どれ程の規模なのか想像もつかなかった。

どうにか7階に着くとフロアは今までに見た事が無いほど慌ただしかった。

次々と入って来る地震情報、各局の回線は乱れ連絡が取れない局もあった。

そこに畳みかける様に起こる余震。

僕はそのまま生放送のスタジオに入り、

時間までニュースを読み続けたが、途中で妙な違和感を覚えた。

 

――入ってくる速報が似た様なものばかりだ。

 

通常であれば少しずつ被害状況や現場の情報も入ってくるのだが、

あの震災の規模と、地震発生から1時間近く経ってから起こった津波により、

一層現場は混乱していった。

自分が喋っている内容が被災地のリスナーさんに届いているかも分からなかった。

ただあの時、とにかく高台に避難してくださいと言い続けた事だけは覚えている。

 

 

生放送が終わり、徐々に明らかになっていく被害状況。

その場にいたスタッフ全員がそれを見て茫然と立ち尽くした。

見た事が無い程の巨大な津波、燃えさかるコンビナート…。

既に都内は交通機関が乱れており、誰一人として家には帰れない状況だった。

ちょうどあの時は妻が妊娠4カ月になるかならないかの頃で、その事も自分を不安にさせた。

翌朝、ようやく家に帰り、妻や妻の妹と無事を確認し合いながら、

やっと一息ついたのも束の間、被災地の映像が自分を打ちのめした。

 

 

その時に生まれた気持ちが、小さな種だったのかもしれない。

 

――被災地の為に、自分に出来る事はないだろうか?

 

様々な葛藤があり、前身のYAJIKITAで東北を訪れたのは2カ月後の5月。

まだまだ震災の爪痕は大きく残っていた。

その最初の取材から、5年が経とうとしている。

 

 

これまで沢山の町を歩いてきたが、その中でも多いのは女川町だ。

YAJIKITA時代から数えると女川を訪れるのは今回で4回目。

不思議な縁に誘われるようにして、この町との結びつきが出来、友人が出来た。

「お帰りなさい」と迎えてくれる人がいて、「ただいま!」と言える場所が出来た。

5年の年月の中で、この町の変化も見て来た。

その変化の一つに「鉄道」の存在がある。

 

 

僕らは今回初めて電車に乗って女川へと向かった。

JR石巻線 午前9:33 石巻発ー女川行。

終点が『浦宿』ではなく『女川』。この文字を見るのも、初めてのことだった。

昨年の3月21日、JR石巻線がようやく全線開通した。4年をかけて、少しずつ。

その最後の区間が浦宿から女川の2.3kmだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

井門「なんだか感慨深いね…。去年来た時はまだ電車が開通してなくて。

いつも石巻からは車でしか行けなかったんだもんなぁ。」

 

佐々木「そうですね。あっ、ほらこっちの席からの方が海がよく見えますよ。」

 

 

車窓から眺める外の景色。風はとても強く吹いているが、その風向きは追い風だ。

 

そして電車はいよいよ浦宿から女川へ。

最後のトンネルを抜けると、あの独特の形をした『女川駅』が見えてくる。

 

 

 

 


新しい女川駅


工事中の女川駅

 

 

 

 

ゆっくりと電車がホームへと入り、女川駅に到着。

石巻駅から女川駅まで時間にすると30分だが、ここまでに4年の月日がかかっているのだ。

まだ瓦礫が積み上げられた頃の女川を見てきた身として、

目の前に広がる風景に思わず涙が流れた。

改札の無い駅舎はまるでゲートの様で、そこをくぐると女川の町がパーンと広がる。

目の前の信号の先には左右に店舗を構えるシーパルピア女川があり、

視線を先へと移していくと駅から続く1本道の先には、女川の海が見えるのだ。

 

「海と共に生きる」

 

この町の姿から、女川の人達の心の声が聞こえてくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

この新しい駅舎には温泉施設が併設されている。

その名も「女川温泉 ゆぽっぽ」。

震災前は駅の近くにあった施設が、駅舎の再開と共に駅の中へ。

今では地域の方のみならず、観光で訪れた方の憩いの場になっている。

女川に到着した我々はまずこのゆぽっぽへと向かった。

 

 

お話しを伺ったのは支配人の吉田雅さん。

取材した日は日曜日の午前中だったのだけど、既に地域の方々で溢れている。

 

 

 

 

 

 

 

 

吉田「ここが出来るまでは地域の方の交流の場所が無かったんです。

それが再開して、今ではおばあちゃんが漬物を持って集まってくれるんです(笑)」

 

 

観光客にとっては「海の見える終着駅」であり、

地元の方にとっては「海の見える始発駅」。

そしてその気持ちを高揚させてくれるのが、世界的な建築家である坂茂さんデザインの駅舎だ。

 

 

吉田「実はこの建物から女川の海に上がる初日の出が見える設計なんです。

でも綺麗に見えるかどうか、その時になってみないと分からないじゃないですか?(笑)

今年の1月1日、時間は6時半頃ですかね…。町民や関係者が100人位集まって、

みんなで初日の出を待っていました。」

 

 

震災から5回目の初日の出。

海と共に生きると決めた町。

その町を、海から上がる光が徐々に一本道となり照らしていく。

 

 

 

 


(撮影:高橋正樹)

 

 

 

 

吉田「少しずつ明るくなってきて、海の上に綺麗に初日の出が上がったんです…。

その時は歓声が上がりましたよ!町長もホッとしていました(笑)」

 

 

女川町は町長と町民との距離が「とても近い町」という印象を持っている。

そんな町長を筆頭に女川の人々はどんな公共の建物より先に、ここを完成させる事を選んだ。

 

 

吉田「役場(の建物)も警察(の建物)も無い中で、公共の建物の第一号がここです。

駅を中心にして、鉄道がまさに血管の役目なんでしょうね。

ここが復興のシンボルなんです。」

 

 

駅が完成してから平日では100人前後、

土日になると300~400人の方が訪れるという湯ぽっぽ。

温泉施設があり、休憩所があり、女川の物産を売るスペースもあるが、レストランは無い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

吉田「そうですね、町を歩いて美味しい物を食べて欲しいんです。

ここを起点にして女川の町を楽しんで欲しい。」

 

 

吉田「女川は復興のトップランナーの様に言われますが、

ここは壊滅的な被害を受けた町です。

その町が頑張ってる、元気でやっている姿を見て、

あぁ、自分も頑張らなきゃな…って思ってもらえると嬉しいです。

そして元々町内に住んでいた方も戻ってきて欲しいです。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あの震災後、女川は人口が減る日本一の町になった。

しかしあれから5年、現在は若い人が増えて活気づいてきているそうだ。

一度この町に来ると、そのエネルギーに魅せられるのかもしれない。

そしてそのきっかけはこの「湯ぽっぽ」での地元の方との裸と裸の付き合いからなのかもしれない。

 

そうそう、忘れちゃいけないのは外の足湯。

駅舎を出てすぐの所で女川の町を眺めながら足湯に浸かれば、きっと元気に町歩きが出来ますよ!

 

 

 

 

 

 

 

 

ここまではオープン前に何となく見て来た風景。

昨年2月に女川に来た時は駅舎自体は完成間近で「いよいよ感」を感じる事が出来た。

ここからは全く知らない風景。

駅前に広がる商業施設「シーパルピア女川」である。

 

 

 

 

 

 

 

 

駅前の道を進むと信号があり(これも何だか感動した)、

その先にモダンなトーンで統一された商業施設が広がる。ここがシーパルピア女川。

中にはきぼうのかね商店街から入ってきたスペインタイルのお店があって、

ついつい懐かしくお店の方と話し込んでしまったが、

その他にもクラフトビールのお店、ダイビングショップ、花屋さん、カフェバーなどなど、

綺麗でお洒落なお店が建ち並ぶ。

このシーパルピア女川を運営する女川みらい創造株式会社、

専務取締役の近江弘一さんにもお話しを伺った。

 

 

近江「商業施設を作って賑わいを作ると言っても、

観光客が通り過ぎるだけでは無くて、活動が出来る場所にしたいんです。」

 

 

近江さんはそんな風に話し、ここでこの先行われるであろうイベントの話をしてくださった。

 

 

近江「空間を使ったイベントをやる予定です。

実は色んな仕掛がありまして(笑)例えばベンチの下にはコンセントがあったりね。

これで音楽イベントなんかも考えているんですよ。」

 

 

現在ここには27業者が入っているそうだが、

これから新たな業者も入りまた様々に楽しめる場が増えていくだろう。

およそ170mの長さのプロムナードは女川を彩る道。

やっとスタートラインに立った女川の、そのスタートラインは華やかに彩られているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

そして女川の町には、震災から町と共に歩み続けて来た場所がある。

それが2016年3月いっぱいで閉局する「女川さいがいFM」だ。

何度かお邪魔し、図々しくも番組の収録にまで参加させてもらった。

ウチのディレクターでもある佐々木君はこちらの機材関連に深く関わっていたり、

イベントのお手伝いをしたり。僕らにとってもここは想い出深い場所。

現在は女川町立女川小学校の駐車場にトレーラーハウスを置き、その中で放送を行っているのだが、

なんと今回は生放送にゲスト出演してきちゃいました(笑)

しかもパーソナリティーは女川の女子中高生達。

えぇ、まるで教育実習でやって来た先生のような気分でしたよ(笑)

お邪魔したのは「おながわ☆なうサンデー 高校生スペシャル」。

中学生の石森未夢さん、高校を卒業したばかりの後藤えりさん、阿部紗季さん、そして僕。

一人だけ38歳のおっさんが混ざりましたけど…本放送、大丈夫でしたかね??

 

 

 

 

 

 

 

 

なんかね、若い力に圧倒された(笑)

本番が終わった後に、今度はKIKI-TABIのインタビューだったんですけど、

彼女達の真っすぐな言葉が胸にグイグイきて。純粋な言葉の強さを改めて感じた。

後藤さんと阿部さんの夢を聞いてみたんです。

 

 

阿部「私は福島の大学に行くんだけど、高校では建築の勉強をしてきたので、

大学では地域復興の勉強をしたいです!」

 

後藤「昔から髪をいじるのが好きで美容師に憧れていたので、

その道に進んで、女川にいつか美容室を建てたいです!」

 

 

10代の二人の夢は違えど、根っこは一緒だ。

 

――女川の為に、出来る事をしたい。

 

見るからに仲が良さそうな二人は、笑いながら元気に話す。

女川に来た人達が女川のパワーを貰って、

しばらくしたら“女川不足”になってまた来て欲しい、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

うん、やっぱりこの町は凄いや。

乗り越えてきたものが違うから、ちゃんと若い世代にも強い芯がある。

きっとそれを見せてきた大人達がいるからだろう。

あの震災からずっと“女川の為に!”と必死になって動いてきた大人達が。

そして間違いなくその大人の中の一人が、この人、高橋正樹さんだ。

 

 

高橋「井門さん、お帰りなさい!」

 

 

いつお会いしてもそう言ってくださる高橋さん。

この町の町作りに、中心メンバーとして尽力してきた方である。

高橋さんはこれまでの女川の歩みについて、様々話してくれた。

その中で印象的だった言葉がいくつもある。

 

 

 

――今までは嫌だったけど、5年目になって、自分達で初めて「区切り」をつけられた。

町作りってのは、死に場所を作る事でもありますからね。

 

 

――元々女川の人は郷土愛が強い。

復興へ向けて、民意の集約が必要無かった。

 

 

――壁をいくつも乗り越えてきた。

乗り越えても乗り越えても、また鼻の先に壁がある感じ。

 

 

――復興を進めるに当たり、一人称が「俺が」とか「私が」とかじゃないんですよ。

一人称はずっと「この町は」でした。

 

 

――震災以降、多くの人に手を差し伸べて貰いました。

だから「良い町を作ること」で恩返しがしたいんです。

「あぁ、良い町になったね!」って言ってもらいたいですもん。

 

 

――復興に大切なのは周りの人を幸せにする事!

 

 

――井門さんね、震災の事なんて俺達忘れたいんですよ。

勿論、震災で得た経験は大切。だけど悲しい事なんて、早く忘れたいんです。

震災は忘れても良い、経験は忘れないで欲しい。

 

 

高橋さんの語る言葉の一つ一つが胸に響く。

本当はインタビューなんだから時間をある程度気にしなくちゃいけないのに、

僕は途中から普通に高橋さんと話していた。

震災から今までの心の動き、今の気持ち、そして女川への愛。

でもね、高橋さん。ごめん、一番覚えてる言葉はこれでした。

 

 

――井門さん、女川はね、夜が良いんですよ(笑)

 

 

シーパルピア女川の中にオープンした数々の飲食店。

DJバーもあればクラフトビールの店、マグロがめっちゃくちゃに安い居酒屋に、

仙台牛1頭買いの焼肉屋さん。週末は予約をしないと入れないそうだ。

 

 

高橋「石巻の人達が電車に乗って飲みにきますから(笑)

終電がもう少しだけ遅かったら良いんだけどなぁ…。」

 

 

そして女川の夜には地元の色んな職業の方が集まる。

 

 

高橋「立ち飲みでぎゅうぎゅうになりながら飲んでると、

町作りの偉い人や町長が来たりしてね(笑)そこで色んな事が決まっていったりするんです。

俺らはだから“部室”なんて言ったりしているんだけど。

女川に来た人には俺達と酒飲んで欲しいですね!」

 

 

女川の町作りの裏テーマは「酒と魚と音楽」だ。

きっと今夜も女川の町は良い音が鳴っているんだと思う。

それを聞きに、高橋さん、また来ますからね!今度は女川の夜に、部室で飲みましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

女川町地域医療センター、輝望の丘。

女川を訪れる時に必ずここに来ていた。

そして新しく町作りが進む女川町を見て来た。

今回ここに立って女川の町を眺めながら、ディレクターの佐々木君がこんな事を言った。

 

 

佐々木「町から重機の音がしなくなりましたね…。」

 

 

高台では宅地造成がまだまだ進行中だ。現在もショベルカーなどがフル稼働している。

しかし目の前に広がるシーパルピアや道路からは重機の音が少なくなった。

女川は確かに、新しい局面に入っているのだろう。

ただ僕が何より感動したのは、町に集まる車の多さだ。

去年訪れた時はまだまだ更地だったシーパルピアの駐車場が、

買い物に訪れてきた車でいっぱいになっているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

きっとまた明日、ここからの風景は変わっているのだろう。

その風景は明後日に、更に明々後日には変わっているのだろう。

僕はこれからもこの町の景色を見て行こうと思う。

お帰りなさいと言ってくれる人達に会いに、また女川に帰ってきます。