歴史と文化が息づく街!目黒!|旅人:井門宗之
2016-08-25
こんにちは!初めましての旅人、井門宗之です。
どんな現場でも初めてのスタッフの皆さんと仕事をさせて頂く時というのは緊張します。
でもね、そんな不安はこの番組のスタッフの皆さんに会って2分で吹き飛びました。
「あっ、今日も油断してたら雨降るな。」
ごめーん!!
ごめんよ、変な嘘ついて!!
だって前回の旅人が、ほら、仮面ライダーの人じゃん?
松田悟志さんじゃん?ダーマツじゃん、ダーマツ!(←色々失礼)
イケメンでさ、小さい子からも絶大な支持を得てるわけじゃん?
翌週の旅人のこのなんとも言えないプレッシャーっての?
同行の河合さんなんて「私も山が良かったなぁ~!」なんて言い出すしさ。
*目黒ロケと筑波山ロケは珍しくロケ日が同じでした。
そんなこんなで松田さんの旅日記をちょっとパロってみないと始まらなかったの!
ごめんね、ごめんねー!(←反省の色なし)
そして河合さんが一緒でも最後まで快晴でした!
河合さん、ごめんね、ごめんねー!!(←だから)
ってな訳でございまして、今回の旅は『目黒』が舞台でございます。
目黒と言えば前身のYAJIKITA時代の『山手線命名100周年』以来、
昔の旅日記を読んでみたらもう6年前っていうじゃないすか。
*説明しよう!「山手線命名100周年」とは、山手線と名付けられて100周年の年、
“折角だからこのタイミングで山手線沿線をグルっと一駅ずつ歩いて回ろう!”
と企画されたは良いが、終わってみれば足掛け3年位かかってしまい、
山手線命名100周年が関係なくなってしまった伝説の企画なのである!
6年ってそんなに昔な感じはしないんですけど、写真を見たらね…。もう…。
髪の毛もツンツンしてるし、スカーフ巻いてるし、文章もなんとなく若いし(長いし)、
カメラマンは慶吾だし(今や慶吾は会社の社長)…。
時の流れってのは色々な物を変えていくんだなぁ、と感慨深い今回の旅でもあるのです。
そんな今回は「歴史と文化が息づく街!」が旅のテーマ。
目黒がそもそも区になったのは1932年(昭和7年)と言いますから歴史は古く。
更に遡ると縄文時代の貝塚や遺跡が出てくる。
この地に人が暮らし始めたのは1万年前、いやもっと昔からになるのかもしれません。
縄文マニアの井門としては、目黒の辺りはご存知目黒川なんかも流れていますので、
「ふむふむ、川が近いと言う事は人が住むには適した場所だったのね…。」となる。
じゃあ今回はそこまで遡って歴史散歩!!という訳ではございません。
まずは目黒が区に制定された翌年、昭和8年に建てられた洋館から、でございます。
目黒駅を首都高に向かって歩いて行くと徐々に緑が濃くなっていきます。
緑の正体は自然教育園という20haというとんでもない広さの植物園なのですが、
その先にあるのが東京都庭園美術館。
本当に素敵な場所で、東京でも大好きなスポットの一つなんですが、
なんてったって「庭園」というくらいで庭が良いんですけど、
「はて、美術館なのに、庭園?」って思いませんか?
そうなんです、ここは元々個人の邸宅だった建物。
昭和8年に朝香宮邸(昭和天皇の伯父さんにあたります)として建てられた建物なんです。
外観は当時の洋館としてはシンプルでモダンな雰囲気を漂わせておりますが、
館内も素敵なんだよなぁ…。広報の浜崎加織さんにご案内頂きました!
井門「しばらく新館の工事をされていたと思うんですが、
工事が終わったのはいつ頃だったんですか?」
浜崎「はい、2014年に工事が終わりまして、リニューアルオープンしました。」
井門「新館が出来上がったのが2014年で、ちょっと小耳に挟んだんですけど、
昭和8年に建てられた本館の方は東日本大震災やこれまでの大きな地震でも、
びくともしなかったって…。何が起きても揺るがないって都市伝説を聞いたのですが…。」
浜崎「都市伝説じゃありません!(笑)
大きな地震でも本館の建物は全くびくともしませんでした。
当時は1923年に発生した関東大震災後という事もあり、
こちらの邸宅を建てる時は大きな地震が起きても大丈夫なよう、
地中深くに鉄筋を埋めるなど頑丈な造りにしたと言われています。」
クリーム色のモダンな外観からは想像もつかないタフな建物。
しかし一歩中に入ると宮家ならではのセンスの良さが随所に散りばめられているのです。
まずは正面玄関のガラスのレリーフ。
立体的なそれはかのルネ・ラリックの手によるものです。
床のモザイク柄と併せて日常から豊かな非日常へと客を誘うには十分過ぎる装飾。
(因みにこのモザイク、一つ一つが天然石で作られてます)
中に入ってもそれは続きます。
1階の内装デザインはフランスのアンリ・ラパンが手掛けているのですが、
見事なアール・デコの様式に思わず見惚れてしまいます。
浜崎「アール・デコ様式というのは直線と立体、
幾何学模様の装飾を合わせた建築様式のことなんですが、
例えば中に入ってすぐの大広間のシャンデリアを見てください。
それぞれの格子の中に40個の電球が配置されて整然と並んでますが、
この“同じ形をいくつも”というのもアール・デコの特徴の一つなんです。」
井門「普通の洋館であれば大きなシャンデリアをドーンと置きますけど、
こちらは違いますもんね!」
井門「えっと、この大広間の横の部屋にある…これは…なんですか?大きなコップみたいな。」
浜崎「これは香水塔と言ってかつてはここに水が湛えられていたんです。
建築当時は噴水器とも呼ばれていたようですが、当時このオブジェには香水が垂らされ、
来客者はまずその良い香りに包まれた、と言われています。」
高さは2m程だろうか、そんなアロマキャンドルありますか!?(笑)
もちろん現在はその役目は果たしていませんが、その存在感たるや!
そして続く大客室と大食堂。
ルネ・ラリックのデザインしたシャンデリア、
マックス・アングランのエッチングガラス、ここにも随所にアール・デコの美しさが!
もうどこを見ても美しい。
1階は来客をもてなす為の部屋がほとんどですが、
2階はプライベートな部屋が配置されています。
浜崎「1階と2階の違いはそのデザインです。
1階は殆どをアンリ・ラパンのデザインで設計されていますが、
2階のプライベートルームは宮内庁(当時は宮内省)のデザインになっているんです。」
そう思いながら見てみると、確かに扉の大きさや部屋の大きさのバランスが良い。
他の同時代の洋館だと何から何まで大仰な(それもまた良いんだけど)感じを受けるが、
ここはほのかに「人の生活」を感じる事が出来るのです。
特に内装にこだわりを見せたのが妃殿下だったようで…。
浜崎「妃殿下の居室の内装には相当なこだわりがあったようです。
当時としては珍しい作り付けの棚がいくつかあったり…。
そもそもこの建物にアール・デコ様式が取り入れられたのも、
宮様と妃殿下がフランスで生活されていた経験からきているんです。」
井門「だからこそ随所にこだわられたんでしょうね。」
浜崎「えぇ、しかし妃殿下は邸宅の竣工からわずか1年後に亡くなってしまうんです。
考え方によっては、これだけこだわって完成した邸宅をちゃんと見られた…、
それだけでも幸せだったのかも…と思います。」
井門「早くに亡くなられた事はとても悲しいですけど…そうですねぇ…。」
そして忘れちゃいけないのが「書斎」であります。
実は朝香宮邸は終戦後の一時期、吉田茂が外相公邸として使用していました。
この書斎は吉田茂も執務室として使っていた部屋なのです!
浜崎「この書斎の窓から入口が見渡せるんですが、
誰がやって来たかすぐに分かるので、吉田茂はここがお気に入りの部屋だったそうです(笑)」
いくつかの時代の節目を経て、2014年リニューアルオープンした庭園美術館。
やはりその「庭園」にも魅力は詰まっているのだが、まだ全面改修は終了していない。
ただ庭園の部分開放は行われているので、是非新緑の季節、盛夏、そして紅葉と、
四季折々の美しさを体感して頂きたい!そう言えばこの邸宅の最初の主である朝香宮は、
別名を「ゴルフの宮様」と呼ばれる程のゴルフ好きだったとか。
ゴルフの宮様もこの庭園でスイングの練習に励んでいたに違いない!
そういや何で今回庭園にちょっとでも入らなかったんだ…??あれ??
うわー!!忘れてたー!!!(笑)
ぜひ皆さんはお忘れなきように(いや、忘れない、忘れない)
ご案内頂いた浜崎さん、有り難うございました!
浜崎さんのお話しでも出てきましたが、
朝香宮の次にこの邸宅を公邸として使っていたのが、かの吉田茂でありました。
そして庭園美術館を目黒駅の方へと歩いていると、
その吉田茂の“ある物”にまつわるお店が…。
“吉田茂”で“ある物”で“眼鏡店”って言ったら…もう、ね(笑)
そうです、こちらのお店はかつて吉田茂の眼鏡を作っていたお店。
4代目の伏見浩一さんにお話しを伺いました。
お店の創業自体は大正14年、当時は目黒駅の線路沿いにお店があったとか。
その後、まさに朝香宮邸が完成した昭和8年に目黒通り沿いに店を移転。
恐らくはその移転がひとつ大きなきっかけになったのではないでしょうか。
伏見「吉田茂本人がお店に来たって事では無かったんでしょうけど、
恐らくは秘書の人がやって来て“吉田茂の眼鏡を作ってくれ”と、こうね。
当時は都電が目の前を走っていたりして…あっ、そうだ!
これ、当時の写真なんですけど…。」
昭和初期のお店の看板が何ともお洒落ではありませんか!
この看板だったら、何か特別な物を作ってくれるんじゃなかろうか、という気にさせます。
でもこの写真から想像するに、当時の目黒通り沿いも栄えていたんでしょうね。
隣の定食屋さんの看板のメニューも気になります(笑)
伏見「吉田茂の眼鏡は初代のおじいさんが作った物です。
レンズはガラス製ですから、落とせば当然割れます。
ガラスで出来たレンズ以外はバネも全て18金で作りました。
24金よりも弾力性があって、かけ易いのが18金なんです。」
井門「下世話な話になっちゃいますが、今の金額でお幾らぐらい…?」
伏見「ん~~、そうですねぇ…正確な事はなんとも言えませんが、
恐らくは20万円程度だったんじゃないかなぁと思います。」
このフシミ眼鏡店では、その吉田茂が掛けていた眼鏡のレプリカが展示してあります。
こちらのレンズはプラスチック製ですが、サイズは当時のまま。
フィンチ眼鏡なので鼻に掛けるデザインですが…えっ?これ、掛けてみて良いって??
ではちょっと自分の眼鏡を外して…と。
こう見えても眼鏡は結構似合うと言われているのでね、
茂モデルのこの眼鏡でも、割とイケちゃうんじゃないかなぁ…こう、鼻に引っ掛けて、
あれ、おかしいな、こう、鼻に引っ掛けて…って、
全然引っ掛からないっ!!
もうね、鼻に引っ掛からないのですよ、そもそも。
これがフィットしたって事は吉田茂の鼻は相当高かったんだろうなぁ。
鼻が大きい人ってのは、顔相的にもリーダーシップを発揮する人が多いですから。
戦後の混乱期にあった日本を引っ張った吉田茂。
彼の目の先には常に“世界の中の日本”があった事でしょう。
そしてその大切な目を守る役割を担っていたのが、フシミ眼鏡店。
このお店が無ければ、吉田茂は無かったかもしれない!?
眼鏡から日本の今昔に想いを馳せる時間、伏見さん有り難うございました!
歴史、歴史、と二つ歴史が続いたので、ちょいとここらで「文化」の方、行きましょか。
目黒駅を超えて、とんかつの名店「とんき」とかホリプロの方へ。
路地を少しだけ入った所に、何やら見慣れない単語が飛び込んできます。
プサルタリー。
えぇ、どうやら何かの楽器らしい。
そしてこちらがその教室でもあるらしい。
…プサルタリー…。全く耳馴染みのない言葉であります。
しかしここで待ち構えていたのは、なんとも幻想的で素敵な音色!!
目黒の駅近くに教室を構える加藤ギター&プサルタリー。
プサルタリー普及協会会長の加藤誠さん。
身体全体から音楽家の雰囲気を漂わせておりますが、日本のプサルタリーの第一人者です。
木箱に24本の弦を張り、それを弓で弾くというスタイルなのですが…。
加藤「えぇ、プサルタリーは聖書にも登場する楽器なのです。」
井門「そんなに古くからあるんですか!?」
ベースとなる形はあるのだが、加藤さんは様々な材料を使って、
試行錯誤しながらオリジナルの音色を作り上げる。
敢えてボディの裏側を開いてみたり、弓の形も変えてみたり。
元々はギターをメインにやられていた加藤さん。
プサルタリーに出会ったのが20年以上前で、奥様が演奏し、
加藤さんがギターで伴奏するという所からのスタートだった。
加藤「ちょっと怪我をしてしまって、自分のギターの伴奏に合う楽器がなかなか無かった。
ある時、民族楽器のお店で出会ったのがプサルタリーだったんです。」
今ではヨーロッパでも演奏者の数が少なくなってしまった楽器ではありますが、
日本では1000人程の愛好家がいるようです。
今回は加藤さんのお弟子さん、種崎莉子さんも演奏を聴かせてくださいました!
井門「種崎さんは演奏歴どれくらいなんですか?」
種崎「もう10年くらいになります。
やった事がない楽器をやってみたくて、プサルタリーを始めました。
なんと言っても音色が癒されますよね!そして畳一畳あれば弾ける手軽さが良いです!」
形も、そして何と言っても音色が素敵なプサルタリー。
加藤さんも「コンサートに来ると、お客さんが“寝れる”って言うんです(笑)」と仰る。
とにかく優しい、眠れるくらい優しいのがプサルタリーの音色の特徴なのだ。
きっとこれからも、目黒から癒しの音色を届けてくださるでしょう。
プサルタリー…その文化はヨーロッパから目黒へ、そして目黒から全国へ!なのであります。
そして旅の最後は「目黒のさんま」である。
落語の話として有名な「目黒のさんま」。これをきっかけに町おこしが出来ないか…。
約20年前にそう考え、それを全国的に有名なお祭りにした人達がいた。
その中のお一人が、目黒駅前商店街振興組合青年部理事長、中崎政和さん。
中崎「そもそも目黒の町も目黒通りが拡張して商店街らしい風景が無くなったんです。
昔ながらの商店街の活気が無くなってしまってね。なんとかしなくちゃ、と。
それで当時の青年部…とはいっても40を過ぎた人間ばっかりでしたけど、
集まりまして、目黒と言えば目黒のサンマだろう、ってね。」
井門「それでサンマを使ったイベントをやろうと?」
中崎「最初は商店街が買ってたんですよ(笑)
築地に行って知り合いから1000匹。3回目までは商店街で買っていました。
そしたらその3回目に新聞の取材が入ってね、
“どこの秋刀魚を使ってるんですか?”って言うから、
サンマが入ってた発砲スチロールを見たら『岩手県宮古』って書いてある。
“えぇ、宮古産です。”なんて言ったら後日掲載されたんですね。
そしたら宮古の市長から電話が掛ってきて(笑)有り難うございますって。」
井門「凄いことですよね!市長から直々にって!」
中崎「市長が仰る訳ですよ“来年からはウチからサンマを提供します!”って。
で、その翌年に宮古からサンマが3000匹届いたんです。」
その3000匹が5000匹となり、今では7000匹が宮古から贈られる。
そしてこの祭りは東日本大震災の時も途切れずに続いたのです。
中崎「震災の年は流石に無理だろうと思っていたんですけど、
我々が震災の年の5月に宮古に行った時に市長に言われたんです。
“今年も変わらずにやりましょう!これをやる事で復興のきっかけにして貰いたい!”って。
ですからあの年も変わらずに目黒のさんま祭りは行われたんです。」
始めは地域活性化で始めたお祭りが、地方自治体とこんなにも強固な絆を作った。
しかもその絆は宮古市だけではなく、他の地域にも広がっている。
中崎「実はさんまが提供されるより早く、
徳島県神山町からはすだちを10000個提供して頂きましたし、
サンマを焼く炭は和歌山県みやべ町から備長炭を…ってな具合に、
我々は他の地域から頂いた物ばかりでこのお祭りをやっているんです(笑)」
旬の秋刀魚をとにかく美味しく、賑やかに食べるお祭り。
シンプルながら、そのシンプルさが人を呼び込む。
今では3万人もの人がこのお祭りに集まるというのだ!!
中崎「早い人は前日から並んでますからね…。
サンマが届くのが朝の6時頃なんですけど、その時間帯には30~40人並んでるかなぁ。」
今年は第21回目となる目黒のさんま祭り。
さんまが繋いだお祭りは、20年以上続いても、その熱気はまだまだ熱いままなのだ。
6年振りにぶらりした目黒。
この町自体にはたまに遊びに来ていたのだけど、
そこに根付く文化や歴史に耳を傾けてみると、また町の色合いが変わってくる。
色合い…と言えば、ここは五色不動の一つ目黒不動がある街。
ここを起点に、目白、目赤、目黄、目青へも足を伸ばしてみますか!?
*ここからだと場所がバラバラだけどな!
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