『海の京都!』天橋立・舞鶴編!|旅人:井門宗之

2016-09-15

 

おぉぉぉっっっっ!!

凄い!凄い!!いやぁ、綺麗に見えるなぁ!!」

 

絶景ですねぇ!

 

「カメラで撮影すると結局逆さまには写らないですね~、でも凄い!」

 

 

わっしょ~~いっ!!(©安田美香)

素晴らしい景色を見たら叫びたくもなるっ!でお馴染の井門Pでございます。

当たり前の日常の中にこそ、絶景は詰まっておる!(もはや謎)

もうね、歓声から書き始めちゃう位なんだから(笑)何故ならそれぐらい素晴らしかった、うん。

流石ですな、いやはや、流石は日本三景ですなっ!

日本三景の一つ「天橋立」…物凄く綺麗でしたなっ!

あっ、皆さま日本三景、ちゃんと言えますか??

*因みに天橋立の画像を奥さんに送ったところ、

「あと二つ…どこ?」と返されたのは今回の旅人、井門Pでございます。(うわぁ…)

宮城県の松島、安芸の宮島、そしてここ天橋立が日本三景。

ロープウェーに乗り傘松公園から眺める天橋立がとにかく素晴らしかったのれす!

どのくらい素晴らしかったかと言うと、「です」が「れす」になるくらい素晴らしかった。

うーん、なかなか言葉では伝わりづらいので、画像をどうぞ!!





 

 

 



ねっ!?ねっっ!?素晴らしい眺めでしょ??

えっ??画像でもなかなか伝わりづらい??んもうっ!その為にあるのが「ど・う・が」!

動画でチェックしてから、もう一回この旅日記に戻ってきてくださいね!!

 


 

 

………………………………………。

 

 

 


はい、お帰り!!どうです、どうです!?

動画で見るとまた雰囲気がイキフンで、フンガフンガしちゃう?

えっ?まだ伝わらない??んもうっ!しょうがないなぁ…。

じゃあ、自分の目で確かめてきて!(丸投げた)

 

 

麓の府中駅からロープウェーでおよそ4分、

見晴らし台からいわゆる「股のぞき」で眺める天橋立。





 

 

 

 

股の間から天橋立を逆さまに除くと、青空に吸い込まれていく様な錯覚に陥ります。

そこに伸びていく神様の道、天橋立。神代の時代から存在する神々しさは、絶景の一言!

いやぁ…アレですよ、天気が良くてよかったですよ…(笑)

*説明しよう!今回の作家さんは雨雲がペットの河合さん

 

 

という訳で天橋立からスタートした今回の旅!

海の京都!天橋立・舞鶴編、京都府の日本海側を巡りました!

絶景で目を潤して、まず向かったのは元伊勢 丹後一宮 籠神社





 

 



ご案内頂いたのは権禰宜岡本和真さんです。





 

 



傘松公園のすぐ近くに位置する籠神社。

由緒正しき…とは籠神社の為にあるのではと思ってしまう程に歴史ある神社なのです。

 

 

岡本「創建は日本書紀が編纂される1年前、719と伝えられています。

しかし奥宮の真名井神社は3000年以上の歴史があると伝えられています。」

 

 

に・に・日本書紀ですって!!

しかも奥宮真名井神社に至っては3000年前…。

えっと現在が西暦2016年ですから…おぉ、いわゆる神代の時代ってやつですなぁ…。

そう言われてみれば境内に入った瞬間に何やら背筋がビッとする空気が…。

それもそのはず、元伊勢の名の通りこちらは「お伊勢さまのふるさと」と呼ばれているのです。

岡本「唯一神明造りといって、拝殿の造りなどは伊勢神宮と同じなんです。」

 

 

因みに籠神社の「籠」の由来は御主神が籠に乗って天上からやって来た事に由来するとか。

更にかつては「籠」の一文字で「こ」神社と呼ばれていた時代もあったそう。

なんてったって日本三景の一つ、天橋立が真名井神社の参道だって言うんですから!

 

 

岡本「はい、真名井神社の参道が天橋立です。神様の通り道ですね。」

 

 

神様の通り道…。

神社の参道はどこもそう言われますが、天橋立ほどこの言葉が相応しい場所があるでしょうか。

やはり神社全体に流れる空気感、凛としています。

 

 

岡本「こちらには五色の座玉という貴重なものがございます。

この五色の座玉は当社と伊勢神宮御正殿にしかございません。

更に伊勢神宮御正殿は一般の方は入る事が出来ませんので、

一般の方が五色の座玉を見る事が出来るのは、この籠神社だけとなります。」

 

 

岡本さんの御案内で拝殿の中に促されるKIKI-TABI一行。

不慣れな緊張感にカメラマンの橋本君は吐きそうになっている。

全員一度お祓いをして頂き、いよいよ拝殿の奥へ…。

すると!!高欄の上に…輝く座玉が!!





 

 



五色は青、黄、赤、白、黒の五色。

それが左右等列に高欄の上に配され、何とも高貴な美しさを放っているのです。

現在の拝殿は昭和6年に建て替えられた物との事ですが、

この座玉はそれこそ創建当時からこの様に配されていたそうで…。

やはり籠神社が伊勢神宮と深い繋がりにある事の象徴だそうです。





 

 



岡本さんに御案内頂いた後は、奥宮の真名井神社へもお参りに。

籠神社の境内から車で少し山を登った所に位置する真名井神社。

豊受大神、伊射奈岐大神、罔象女命、神代五代神、

天照大神、伊射奈美大神、彦火火出見命を御祭神に祀る真名井神社は、

そこに立って手を合わせるだけで何とも言えない空気に包まれます。

 

 

永尾D「ほら、井門くん!スズメバチがいるよっ!ほら、目の前!!」

 

井門P「えっ!?どこどこどこどこどこどこどこどこ!!!??うわ~~!!」

 

永尾D「ほら、井門くん、黒い服着てるから、ほら!!目の前!!」

 

井門P「うわっ、うわっ!!!」

 

 

創建されたのがおよそ3000年前の真名井神社。

そこに立っているだけで、凛とした空気に背筋がビッとします(おい)。





 

 



3000年の歴史に想いを馳せつつ、一行は続いて天橋立の目と鼻の先へ。

京都丹後鉄道「天橋立駅」から歩いて3分程でしょうか。

神社の次はお寺でございます!智恩寺文殊堂の山門へ。





 

 

 

 

 

 

 

こちらには食べるとたちまち知恵が付く!と言われる知恵の餅があるとの事。

そう聞いて山門前にやって来ると…おやおや?確かに『知恵の餅』の看板はあれど、

そのどれもが『総本店』とか『元祖』とか書かれていて…あれあれ??

早速その中の1軒、勘七茶屋にお邪魔しました。

お話しは勘七茶屋の幾世健史さんにお伺いします。





 

 



井門P「えっと…知恵の餅の看板が4軒並んでいたんですけど…、

まさか…何か御近所トラブル的な何かが…??(ガクガク…

 

幾世「ははは(笑) そんな事はありませんよ!

もちろんお互いのお店が切磋琢磨し合ってますけどね。」

 

 

聞けば1690年、智恩寺の山門前に智恩寺の許可を得て、

勘七茶屋も含め4軒のお店が営業を開始。食べると知恵が授かる知恵の餅を売り出したそうな。

夢の中に現れた文殊菩薩が、この知恵の餅の作り方を教えてくれた、と…。

以来300年以上、ここを訪れた観光客の舌を楽しませてくれる名物となっているのです!

我々もその知恵の餅を早速頂いたのですが…。





 

 



1皿に3個入っていて260円。

柔らかなお餅の上に上品な餡がたっぷりと乗っている。

智恩寺山門前にあり、また天橋立のすぐ近く。

ここを訪れた観光客の疲れを癒すにはちょうど良い甘さと量なのだ。

ここで食いしん坊のKIKI-TABI一行、

メニューに載っている「重太郎餅(260円)」も気になってしまい注文。

 

 

幾世「こちらは餡子ではなく、たっぷりのきな粉がかかっています。」

 

井門P「あぁ…このきな粉の香ばしさ、そして甘じょっぱさが堪らない!!」





 

 



聞けば幾世さんを含めた若い仲間で、天橋立でイベント等も次々と仕掛けているそうな。

今年の夏は2日間だけ、天橋立の砂浜をBARにして石釜を持ってきてピザを焼いたらしい。

 

 

幾世「この天橋立は夏は海水浴を楽しめるんです。

日本三景の中で海水浴が出来るのはここだけですからね!

しかも夏の夜はこの砂浜をライトアップもしているんです。」

 

 

幾世さんのお話しを伺った後、皆で天橋立の方へ散策に出たのだけど、

取材日がまだ9月上旬だった為か、海水浴を楽しむ若者の姿もあった。

若い観光客の取り込みを行いながらも、それでも歴史ある風景を守っていこうという気概。

今では外国人観光客も多く訪れる天橋立と智恩寺。

歴史散策をする前に、まずは歴史の味を頂いて、知恵を授かってみてはいかがでしょう?





 

 



さて、海の京都と題して旅をしている今回ですが、

京都の日本海側と言えば必ず訪れておきたい場所があります。

それが舞鶴にある舞鶴引揚記念館





 

 



昨年こちらの収蔵品がユネスコの世界記憶遺産に登録され、

以来世界中から数多くの方がここを訪れ、「引き揚げ」という言葉を胸に刻むようになりました。

引き揚げとは、終戦後に外国から日本に帰還する事を意味します。

1945年8月15日の終戦の日。

当時はまだ世界中に660万人の日本人がいました。

その中でもシベリアに抑留されていた日本人の数は60万人とも言われています。

この引揚記念館には抑留されていた日本兵の日記や手紙、抑留がどういったものだったのか、

そして舞鶴の港が引き揚げにどの様な役割を果たしたのか…。

戦争の記憶を風化させない為に、引き揚げの記憶を風化させない為に、

数多くの展示品が飾られているのです。

今回館内を御案内頂いたのは館長山下美晴さん





 

 



山下「引き揚げは終戦後から始まりましたが、

その期間は昭和20年~昭和33年まで、13年にも渡って行われました。

当初は日本各地に引き揚げ船を受け入れる港があったのですが、

昭和33年の最後まで引き揚げ船を受け入れたのが舞鶴だったんです。」





 

 

 



シベリアだけではなく、世界各地からやって来る引き揚げ船。

兵士の他に女子供や小さな赤ん坊まで乗る船は、

多い時で1度に2千人を乗せてくる事もあったとか…。

シベリアからの最後の引き揚げ船は昭和31年の興安丸が最後で、乗員は1025人。

昭和33年、最後の引き揚げ船となる白山丸には472名が乗船していたという。

そして無事に日本の地を踏んだ彼らが語ったのが、

シベリアでの人道を無視した厳しい抑留の実態だったのだ。

 

 

山下「極寒のシベリアで強制労働をさせられ、

満足に食事も与えられないままに約1割の日本人がシベリアで亡くなりました。」

 

 

当時の様子を記した物が館内にいくつか展示してあるのだが、

その中でも貴重な物が瀬野修さんが書かれた『白樺日誌』である。

抑留中に体験した事や日本を思い出して詠んだ短歌などが、

白樺の木の皮に書かれているのだ。

 

 

山下「当然紙は無かったですから、

空き缶をペンの形にして削って、煤を水で溶いて墨にして白樺の皮に書いたんです。」





 

 

 



山下「実は瀬野さんは舞鶴出身の方で、昭和22年に日本に帰ってきました。

私も晩年お話しをした事があったんですけど、

とても明るくウィットに富んでいて、ユーモアのある方だったんです。」

 

 

最も過酷な状況に置かれた時の人間の心理とは一体どんなものだろう。

そしてそんな状況でも前向きである事が、どれだけ心を健やかに保ってくれるだろう。

必ず祖国に帰れると信じてひたすら前を見続けた瀬野さんの日誌には、

当時の厳しさだけではない、辛い日々の中の小さな灯りの様な言葉を見る事が出来る。

歌も沢山詠まれているのだが、遠い祖国の母を想って懐かしむ歌が胸を打つ。

 

 

――― 玉子酒 風によろしと母上は 手づから我に造りくれしが ―――

 

 

記念館に展示されている数々の品は、

奇跡的に所持品検査を掻い潜って来た品である。

抑留中に亡くなった仲間の名前を記した人名簿や、仲間の住所録、セメント袋で作ったメモ帳…。

先に日本に戻った方が、残された仲間の状況をその家族に報告する為に書かれた物だ。

これら全ては「終戦後の出来事」なのだ。何故という想いが頭をよぎってならない。





 

 

 



そして、遠い異国の地にいる夫や息子を待つ、家族の展示へ…。

舞鶴と言えば歌謡曲「岸壁の母」が有名だが、

そのモデルとなった端野いせさんにまつわる品々も、こちらに展示されています。

戦争が終わっても帰らぬ息子の無事を信じ、手紙を出し続けた。

 

 

――― 大森へ一路帰って下さい 時間かわかると大森駅に一日中でも居りますから

無事で帰ってくれとそればかりです ―――(注:原文まま)

 

 

端野いせさんだけではない。沢山の写真が展示される中で、

幼い二人の子供の手を引いて、桟橋から海を眺める母親の背中が胸を打つ。





 

 



山下「当館は体験者の言葉や史実を伝えながら、

若い方に平和が当たり前じゃない事を知っていただく一つの場所なんです。」

 

 

館内を御案内頂いた後に、舞鶴湾を見下ろす公園へ。

ここから見下ろす風景からは、

当時過酷な労働からやっと祖国の地を踏んだ日本人の姿を想像する事は難しい。

それほどまでに、今は平和な景色が広がっている。





 

 



山下「ここからの景色は70年前と殆ど変ってないんです。

集落の場所も、学校の場所も、山々の風景も。

ですから引き揚げ経験者の方はここへ来て涙を流す方も少なくありません。」

 

 

日本人として忘れてはいけない記憶。

この長閑な景色を、当たり前の日常の幸せを、どれだけ多くの日本人が夢見たか。

そして夢半ばで亡くなってしまったか…。

多くの方に訪れて頂きたい場所、舞鶴引揚記念館でした。

山下さん、貴重なお話しを有り難うございました。





 

 



太平洋戦争時も勿論そうなのだが、そこから遡って明治時代。

舞鶴は日露戦争の頃から軍港としての役割を果たしていました。

その名残は町のあちこちに「レンガ造りの建物」として残っているのです。

この旅の最後は舞鶴市立赤れんが博物館

稗田靖彦館長に御案内頂きました。





 

 



稗田「こちらの建物は明治36年に海軍の魚雷倉庫として建てられました。

当時の模型なども展示されてますが、まさに魚雷の為の格納庫だったんです。」





 

 



そもそも舞鶴は海軍の鎮守府が置かれた場所。

そしてその鎮守府の初代長官が、かの東郷平八郎なのです。





 

 

 



鎮守府が置かれてから、現在の海上自衛隊の基地の時代まで軍港としての役割が強かった舞鶴。

その名残として兵器庫、砲台、造船所、橋、トンネルなどなど、

赤レンガで作られた様々な建造物が今も残されているのです。

博物館の館内は舞鶴の赤レンガ建造物のあれこれから、日本各地のれんが建造物、

はたまた世界各地のレンガ建造物までを展示する、れんが尽くしの建物です。

そして稗田館長はさしづめレンガ博士といった感じでしょうか(笑)

レンガに関する事ならば、打てば響くその知識の豊富さ!!

何を聞いてもパッと返ってくるのが凄い。

館内には私の地元、北海道庁の模型も展示してあり、思わず大興奮の井門P。

なんてったって「赤レンガ=北海道庁」は道産子の常識でありますから、

他所のどんな赤レンガの建物にも負けない自負がございます!

 

 

稗田「ははは(笑)皆さん、地元のレンガ建造物が日本一と思ってますから。

だいたいここにいらっしゃったお客様はそう仰いますよ。」

 

井門P「じゃあ、この豆知識はどうですか?

道庁の池の形は北海道の形をしているんですよ!!(ドヤァ)」

 

稗田「(無言)」

 

井門P「なんで!?なんで道庁の豆知識を無視するんですか!?(笑)」

*ちなみにこの豆知識はどうやら間違った知識です。失礼いたしました。

 

 

舞鶴の歴史と切っても切り離せないレンガの歴史。

それどころか世界中のレンガの歴史に触れる事が出来る赤れんが博物館。

すぐ近くの「赤れんがパーク」と併せて、是非楽しんでみてください!





 

 



天橋立も舞鶴の港も、歴史の中で沢山の人の目に触れてきたからこその美しさがありました。

実際に触れてみて、初めて感じる事の出来る美しさ。

そこに立つと心が揺さぶられる場所が日本にはいくつもあります。

そして今回旅をした舞鶴も、自分にとっては間違いなくそんな場所の一つになりました。

「次回はお子さんを連れて来てくださいね!」

引揚記念館の山下館長にかけて頂いた言葉が心に残ります。

もう少しだけ大きくなったら、今度は子供を連れて。

いまの平和はどうやって手に入れられたのか、

この美しい景色はどうしてあり続ける事が出来るのか。

いつか息子とそんな話をしに、舞鶴に戻ってきます!貴重な経験、本当に有り難うございました!