東北復興シリーズ~明日へ歩む人たち。宮城県気仙沼編|旅人:井門宗之

2017-03-03

眼下に見下ろす気仙沼湾は太陽の光を反射して輝いている。

港には多くの漁船が停泊し、その周りの道路は車の往来がひっきりなしだ。

風はまだ冷たいが、その匂いは真冬ではなく、春が近い事を予感させる。

 

東日本大震災から間もなく6年が経とうとしている。

今の気仙沼の風景からは想像もつかないくらい、あの震災は町を破壊した。

いや、気仙沼だけじゃない。あの震災は東北の多くの町の姿を、人の命を奪っていった。

あれから6年…。

 

今回のテーマは『明日へ歩む人たち』だ。

6年という月日はここで暮らす方々にとって、どんな時間だったのか。

その中でも前へ向かって進んでいる方々の声は、お話しは、どんなものなのか。

我々は宮城県気仙沼市を訪ねた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気仙沼には町を動かす原動力となる多くのキーマンがいる。

アンカーコーヒー代表の小野寺靖忠さんもその一人だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

なんせ気仙沼に関わる色んな人の口から、小野寺さんの名前は必ず挙がるほど。

因みに永尾Dからも「絶対井門くん、仲良くなれる人だから!」と言われ、

理由を聞けば女川の高政の正樹さんと義兄弟だという(笑)

それはもう間違いなく好きになってしまう人ではありませんか!

我々はアンカーコーヒーのマザーポート店で小野寺さんにお会いする事が出来ました。

 

 

 

 

 

 

 

 

アンカーコーヒーは震災前から気仙沼で人気のカフェ。

シアトルスタイルの店舗は本当にお洒落で、

間違いなく地元にあったら通いつめてしまいます。

お話しを伺ったこの日も店内は様々な年代のお客さんがランチや珈琲を楽しんでいました。

 

 

河合「美味しそうなメニューばかりですね!」

 

井門「本当ですねぇ~!気仙沼のメカジキを使ったメニューとか、

ランチメニューがまたお洒落ですね!」

 

 

 

 

 

 

 

 

我々がメニューを見ながらキャッキャしていると、

元ラガーマンらしく大きな身体の(褒め言葉です!)小野寺さんが登場。

震災後のお話しから今に至るまで、様々なお話しをお伺いしました。

 

 

井門「震災直後、小野寺さんはどうされていたんですか?」

 

小野寺「実はその日の午前10時の便でイタリアに向かっていて、

地震の時は気仙沼にいなかったんです。空港に着いてから物凄い数のメールで知りました。」

 

井門「当時お店はいかがだったんですか?」

 

小野寺「全壊、流出です。家も無くなりました。」

 

 

地震による津波と火災で町が破壊された気仙沼。

1000人以上の方があの震災で尊い命を失った。

震災直後から町から人が流出している感覚があった小野寺さんは、

「とにかく人が集まる場所を」と、

「人が集まる場所があれば人と人が繋がれる」と、

震災の年の12月には仮設の店舗をOPENさせ、今ではその店舗数は10を数える。

 

 

井門「昨年は楽天スタジアムにも出店したとお伺いしましたが?」

 

小野寺「ある時球団の関係者の方がお店にいらっしゃって。

スタジアムに出店しませんか?と…。

僕はラグビーはやっていたんですけど、野球は全然詳しくなくって(笑)

聞くと関係者の方の中にウチのマグカップを使っていた方がいらっしゃったみたいで。」

 

 

こうして小野寺さんデザインのそのロゴを目にした球団関係者の目に留まり、

地元のコーヒーショップは地元球団のスタジアムで営業を開始する事となった。

震災から6年が経とうとする中で、

こちらのお店にも美味しそうに珈琲を楽しむ方々の日常が戻ってきている。

僕らもこちらの珈琲を頂いたのですが、いや、本当に美味しいのです。

 

 

小野寺「オリジナルのブレンドがあるんですが、それぞれに想いがありまして。

フィッシャーマンズ・コーヒーは漁師の方が漁を終えて朝に飲むのにぴったりな様に、

ライトハウス・ブレンドは灯台守の方が夜に飲むのにぴったりな様にブレンドしています。

僕のおじいさんが漁師で、おじいさんが朝に飲んでいた珈琲の香りを覚えているんですよね。」

 

 

 

 

 

 

 

 

小野寺さんの言葉の真ん中にあるのは『人』だ。

気仙沼で暮らす『人』、それが何よりも大切なのだ。

 

 

小野寺「コーヒーショップはサードプレイスなんですよね、

家でも職場でもない第3の場所。だからこそ人が使い易い場所でありたいです。

何よりも人を想定して、珈琲を考えていますから。」

 

 

 

 

 

 

 

 

震災により人口が減少した気仙沼市、

そんな中でまず『人』を中心に考えて店を営む小野寺さんの言葉はこう続いていく。

 

 

小野寺「始まり易い町と始まり難い町があると思うんです。

スタートアップし易い町が勢いのある町。

これからは今の人達に向けての町作りをしていかなくちゃいけない。

人がいるから、町があるんです。」

 

 

笑顔でそんな風にこれからの町を語る小野寺さん。

お店でお話しをお伺いしたのは僅かな時間でしたが、

僕はすっかり小野寺さんが好きになってしまいました(笑)

*結局この日の夜に一緒に飲みました(笑)

 

『日本人の魂を持ってやっているという気概』から「マザーポート店」と名付けられたお店。

それはまさに「母港」の様に、この日も多くの方がそれぞれの時間を楽しんでいました。

変わりゆく景色の中で、確実にこの町に錨を下ろすアンカーコーヒー。

小野寺さん、また美味しいコーヒー飲みにお邪魔します。

そしてまた気仙沼で、美味い酒を飲みましょう。

あっ、因みにランチメニューも頂いたのですが、

クラムチャウダーがもうメチャ旨っ!

遠出してでも食べて欲しい、味わって欲しいものがアンカーコーヒーには沢山ありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気仙沼といえば漁業の町、それは皆さんご存知だと思いますが、

水揚げされる魚の中で日本一を誇るもの、何だと思います?

テレビで名前が挙がる事もありますよね「気仙沼のフカヒレを使った…」とか。

そう、気仙沼は「サメ」の水揚げ日本一を誇る町なんです!

そして気仙沼には「サメの全てが分かる」博物館、

その名も気仙沼シャークミュージアムがあるのです!

 

 

 

 

 

 

 

 

1階は気仙沼や東北の海の幸を買う事が出来る『海の市』があり、

2階がサメの全てが分かる(!?)というシャークミュージアムが。

KIKI-TABI一行はこちらで村上美智子さんにお話しを伺いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

村上「こちらのミュージアムは震災後、

2014年7月にリニューアルオープンを果たしました。

震災では1階が浸水、2階も膝下20cmまで浸水したんです。

この辺りの地盤も70cmほど沈下しました。

そうした安全面を全てクリアして、リニューアルオープンとなったんです。」

 

 

そもそも気仙沼でサメが産業として定着したのは1970年代からだという。

元々マグロがよく揚がる海でその仕掛にサメが掛かる。

このサメで何か出来ないかと始まったのがきっかけなのだそうだ。

 

 

村上「気仙沼で揚がるサメはアオザメ、ネズミザメ、ヨシキリザメです。

このサメがフカヒレになるんですが、サメ1匹からヒレは8枚とれるんですよ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かつてはその性質から食用には適さなかったサメの肉だが、

今は技術も発達しサメの肉を使った肉団子なども研究して作っていたりするそうだ。

ヒレ、肉、内臓、ほとんどの部位を利用出来ると言う事で、

壁には「サメは全部利用出来る、サメ・ゼロエミッション」という文字も。

 

 

村上「サメは漢字で書くと“魚”偏に“交わる”と書きますよね?

サメは魚の中でも珍しく交尾する魚なんですよ!」

 

永尾「へぇ~~!!そうなんですか!?」(食い付いた!サメだけに)

 

村上「サメは卵を産む種類と母体の体内で成長させる種類がいるんですよ!」

 

井門「へぇ~~!!

 

村上「サメは種類も多くて、未だに新種が発見され続けているんですよ!」

 

全員「へぇ~~!!

 

 

 

 

 

 

 

 

館内にはあのジョーズのモデルとなったホホジロザメの模型もある。

因みに歯型は本物だ。

これはオスをモデルにしているそうだが、これで5m。

しかしホホジロザメはメスの方が大きく、この1.5倍はあるそうな…ブルブルブルブル

グワッと口を開けた様はまさに海のハンター。

井門の胴体なら軽くひと呑みされてしまいそうだ…ブルブルブルブル

 

 

村上「いえ、これでまだ半分くらいしか開いてませんからね。

全開だとこの倍は口が開きます。」

 

井門「この倍!?横綱くらいならバクっといけちゃうんじゃないですか!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

館内は4つのゾーンに分かれている。

「絆」ゾーン、「震災の記憶」ゾーン、「海と生きる」ゾーン、シャークゾーンの4つだ。

入口を抜けるとまず目に入るのは「絆」ゾーン。

 

 

 

 

 

 

 

 

そこには大きなスクリーンに来館者のメッセージが表示されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

井門「震災当時の写真も展示されてますが、

ここに映された熱量のあるメッセージを読むと…思い出しますね。」

 

村上「震災の写真を展示する事で、辛い思いをする地元の方もいらっしゃると思います。

でも伝えていきたいから、震災の記憶の写真を展示しているんです。」

 

井門「間もなく6年ですね…。」

 

村上「6年、あっと言う間だったのか…長かったのか…。

自分の周りも変わりました。私は震災後にここに務める様になったんですが、

沢山の人との出会いがあって、声を掛けられると私自身も元気になるんです。

気仙沼、ちょっと遠いんですけどね(笑)お待ちしています。」

 

 

 

 

 

 

 

 

因みに僕もメッセージを残してきました。

震災の記憶は勿論なんですが、サメについてのあれこれ本当に面白いんです!

沢山の方に足を運んでいただきたいなぁ…。

 

やはり町には人がいないと元気になりません。

お会いした皆さんが口を揃えておっしゃるのは、人が減っているという事。

ただそんな中でも歯を食いしばって、踏ん張って、お店を再開させた方もいらっしゃるんです。

すがとよ酒店

 

 

 

 

 

 

 

 

再来年で創業100年を迎える老舗の酒屋さんです。

地元の方に愛されながら、御夫婦で手を取り合って営業を続けてきた「すがとよ酒店」。

しかし地震による津波によって自宅兼お店は全壊。

現店主の菅原文子さんは目の前で旦那様を亡くされました。

そんな中でも菅原さんは息子さん達と震災後1ヶ月半で元の場所にプレハブのお店を再開、

そして昨年の12月17日、ついに今の場所に店舗をオープンさせたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

菅原「息子が言うんです。

あの時お袋が助かってなかったら、多分、店はやってなかったって。

私も息子がいなかったら、店をやってなかったと思います。」

 

 

まだ新装オープンの匂いのするお店は、地元の日本酒や東北のお酒が綺麗に棚に並ぶ。

そのお酒には菅原さんの美しい毛筆がひと言添えてある。

中には菅原さんの想いが込められた負げねぇぞ 気仙沼のラベルも。

 

 

 

 

 

 

 

 

菅原「当時の想いですよね。負げねぇって。

でも震災から3年目くらいが一番辛かったかな…。

かさ上げされて、盛土だらけで。その盛土に雑草が生えて。

本当に町が出来るのかなって、変わらない景色の中でとにかく不安でした。」

 

 

菅原さんは震災による津波で御主人を亡くした。

悲しみは癒される事もなく、毎日を重ねていた菅原さんは、

「気持ちを綴る事で悲しみも癒される」とある人に言われ御主人への手紙を書く。

 

 

井門「それが恋文大賞を受賞した“あなたへ”という手紙だったんですね。」

 

菅原「恋文を書いてから10カ月後に、主人が見つかったんです。

時期的にもバラバラで見つかる事がほとんどだったんですけど、

主人は全身遺体で見つかりました。

勿論、生きて帰ってくるとは思いませんでしたけど、

でも、帰ってきてくれて良かったと…。

今のお店を見て、父も母も頑張ったなって言ってくれると思います。

うん、主人もきっと頑張った、って言ってくれるんじゃないでしょうか(笑)

いま思い出すのは、亡くなった人たちの笑顔なんです。」

 

 

 

 

 

 

 

 

亡くなった人たちの想いを大切にして、またお店をやろうと思っていたという菅原さん。

この6年を「重くて長かった」と仰っていたが、それでも…と続ける。

 

 

菅原「沢山の人に出会って、沢山のものを失ったけど、

沢山のものを頂きました。」

 

 

沢山の人たちに支えられて再びオープンとなった「すがとよ酒店」。

実は取材の前日に「試飲コーナー」が出来上がったばかり(笑)

いえ、酒バカ井門がこれに合わせたわけじゃないんですよ!たまたまなんだから!

という訳で、菅原さんも自慢の地元のお酒を頂きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

気仙沼には男山と両国という銘柄があり、

僕が頂いたのが「水鳥記」と「蒼天伝」というお酒。

どちらも本当に良いお酒で、すいすいと呑めてしまいます。

良い酒があるところには、旨い物あり。

まさに気仙沼はこの言葉がぴったりの土地なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

菅原「震災から6年、表に出ない小さな悩みは沢山あります。

震災の風化、訪ねてくださる方も少ないです。

でもどうあろうとここで生きていく、

何をどうしたらやっていけるのか、不安はあるけど、それを力にしていかないと。」

 

 

失った尊い命を背負って、力強く進んでいる菅原さん。

きっとその姿は天国の御主人も必ず見ているはずです。

また美味しいお酒、教えてください!(呑ませてください、笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

さきほど書いた『良い酒があるところには、旨い物あり。』という言葉。

この言葉をこれほど痛感したことはないくらい、衝撃的な食べ物に出会った。

場所は唐桑町であります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

牡蠣の養殖が盛んな唐桑には、その自慢の牡蠣を蒸し焼きで食べさせてくれる場所がある。

それが唐桑番屋でございます。

目の前は唐桑の海、その海には牡蠣を養殖する筏が無数に浮かんでいる。

「唐桑番屋」はその海を眺めつつ牡蠣をいただくお店。

こちらで牡蠣の養殖に携わる畠山政也さんにお話しを伺いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

井門「唐桑の牡蠣って普通の牡蠣とは違うんですか?

うちの食いしん坊Dの永尾さんがしきりに薦めるんですよ(笑)」

 

畠山「えぇ、少し変わった製法でやってまして。

8月末に牡蠣をお風呂に入れるんです(笑)

まぁ、お風呂って言っても70℃の熱湯に20秒浸けるんです。

それから海に戻す。すると付着物が死滅するんです。」

 

井門「牡蠣は死んじゃわないんですか?」

 

畠山「死にません。殻をがっちり閉じているので、牡蠣は死なないんです。

それどころか付着物が死滅する事で栄養が全部身の方にいくので大きくなります。

これを温湯処理っていうんですけど、

この辺では平成元年くらいからやってるんです。」

 

 

熱湯にくぐらせるメリットはまだある。

牡蠣は成長すると縦に大きくなるのだが、

この温湯処理のお陰で横に成長し形も良くなるのだとか。

更には火を入れても縮まない!!良い事尽くし!!

そのミラクルな牡蠣が唐桑の牡蠣なのであります。

 

 

井門「畠山さん、さっきから目の前で蒸し焼きにされているのが…」

 

畠山「はい、唐桑の牡蠣と唐桑の帆立です。ここは帆立も有名なんですよ!」

 

 

という訳で、、、良い感じに蒸し焼きにされたところで…オープン!!

 

 

 

 

 

 

 

 

もう言葉はいらないですね(笑)

永尾D、食べてるところ沢山使ったね。

なんだろう…この仕事を始めて15年、1、2を争う食レポが出来たと思います、えぇ。

レポートが終わった後はスタッフ全員で絶品の牡蠣や帆立を頂きました。

もうね、永尾Dの牡蠣愛が半端なくて。

職人なのか!?ってな速さで牡蠣の殻を剥いていく(笑)

横には殻を入れるバケツが置いてあるんですけど、光の速さでいっぱいになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

永尾「あれ?もう俺、自分のシマの牡蠣食べちゃったよ!」

 

 

食べ過ぎて、既にお腹が牡蠣の身の様にふっくらしている永尾D。

そんな我々の姿を微笑ましく見守る畠山さん。

 

 

畠山「ここは5月いっぱいまでやってるんですけど、

実は牡蠣が一番美味しくなるのは春先なんですよ!

牡蠣は夏に卵を産むんですけど、その直前に栄養を蓄えるので、

身も大きいし美味しくなるんです。内緒ですけど(笑)」

 

 

唐桑の海の男達の誇り、牡蠣。

間違いなく言える事は、この牡蠣を知ってしまうと、

もう後戻りは出来なくなる…って事でしょうか(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

震災から間もなく6年。

この番組でも何度となく変わりゆく風景を見続けてきました。

変わりゆく風景の中で、それでも必死になって、踏ん張って、

変わらず強く生きている人たち。そして、その歩みの力強さ。

 

震災から6年。

その歩みの強さが届く機会は、もしかしたら減ってしまったかもしれません。

でもあの震災から逞しく、強く、前に進んでいる人たちは数多くいらっしゃいます。

 

どうかもう一度、東北に気持ちを向けてみてください。

今回の放送が、改めて東北に心を寄せるきっかけになって頂けることを祈って。