開港150周年 はじまりは神戸だった|旅人:井門宗之

2017-09-28

 

~いつものオープニング収録風景~

井門「今回は、この神戸を取材しながら…。ダメだ、もう1回やろう!」

 

ゴル「ははは(笑)じゃ、もう1回いきましょう。」

 

井門「(準備しつつ)私がいま立っているのは神戸市の元町駅の前なんですが、

え~、実は今年は神戸港開港150年ということで…、

え~…ダメだ、ちょっとまた後でやろう!」

 

ゴル「(笑)」

 

 

 

神戸の美しい景色に気を取られなかなかオープニングがまとまらず(嘘)

おじさん4人の安定の神戸の旅がスタートした訳ですが、

え?美しき港町神戸でおじさんが旅人なのは違和感?

なにぃ!?俺達をそんじょそこらのおじさんだと思うなよ!

厳選されたおじさんだぞ!前厄でプロデューサーでもあるんだぞ(関係ない)

という訳で今回の旅は神戸でございます。相変わらず強引に。


実は今年が神戸港開港150年の節目。

そんな神戸を探っていくと、いまの我々が当たり前に接している様々なものが、

実は神戸発祥だったということに辿りつきまして。

今回はそんな神戸発祥の色々なものを探っていこうじゃないの、というロケでございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

親分「そもそも神戸は港の近くに外国人居留地を作って、

そこで暮らせない外国人の為に雑居地を作ったんだよ。

南京町の辺りはまさに雑居地だった場所だよね。」

 

 

さすが神戸にも詳しい親分。かつて神戸もアレしちゃったらしい…。

そんな作家の親分の先導でまず向かった先はアーケード商店街の中。

なんとも風情のあるお茶屋さん…の隣であります。


掲げられた看板には『日本最古の加琲店 放香堂』とある。

はっきりしっかり謳っているなぁ(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

早速マネージャーの武田昭雄さんにお話しを伺いました。イケメンです。

 

 

武田「日本には他にも港町がありましたから、

ひょっとしたら珈琲の最古のお店と言える場所はあるのかもしれませんが、

放香堂は明治初期の明治11年讀賣新聞に広告が出ているんです。

そこには“焦製飲料コフィー、弊店にて御飲料用或は粉にて御求共に御自由”とあります。

これが文献に残っているもので最古のコーヒーの記載なんですね。

なのでこちらを以って日本最古と言わせて頂いています。」

 

 

おぉ…もうそれは間違いないじゃないですか!

しかも聞けば明治15年に描かれた木版画の中に放香堂が描かれていて、

その看板にも『印度産 加琲 放香堂』の文字が。

 

 

武田「こちらの複製を店内の壁にも展示してありますが、

当時の様子を見ると上がり框で数人のお客さんが何かを飲んでいますよね?

洋服を着た人も描かれていて、恐らくこれは外国人です。

となると、珈琲も飲まれていたのかもしれません。」

 

 

 

 

 

 

 

 

そもそも放香堂はお茶の老舗中の老舗。

そのお茶屋さんが神戸港開港に合わせて外国から来た珈琲豆を扱う様になったんだとか。

当時の看板に『印度産』と書かれているのは、

日本と交易のあった英国がインドで『東インド会社』を経営していたから。

 

 

武田「実は当時の珈琲をどの様に飲んでいたのか、はっきり残っていないんです。

間違いないのは当時の看板に書かれていた印度産の豆を使っていたということ。

ですから放香堂の珈琲は今でも印度産の豆を使っているんです。

淹れ方もどうしていたんでしょうねぇ(笑)

間違いなく豆を挽いてペーパーを使って濾していた訳は無いので…、

しかも豆も当時の広告には焦製ってありますよね。

多分相当豆を深煎りして焦がして飲んでいたと思うんです。」

 

井門「美味しくなかったでしょうね(笑)」

 

武田「えぇ、当時の珈琲はかなり苦かったと思います(笑)」

 

 

勿論、今の放香堂の珈琲は薫り高い素晴らしい味わいです。

恐らく当時は臼や薬研を使って豆を挽いていたのでは…?という想像のもと、

石臼で豆を挽き、フレンチプレスで抽出するというやり方。

こうして完成したのが『明治復刻ブレンド』。

 

武田「石臼で挽くと豆の断面が複雑になるので、コクが違うんです。」

 

 

 

 

 

 

 

 

明治復刻ブレンドは豊かな味わいで、

でもどこかあっさりもしていて。

当時の日本人や外国人がこの場所で珈琲を飲んでいたのか…なんて想いを馳せると、

なんだか凄く味わいも深くなる(気がする)。

因みにインタビューの終わりに武田さんがもう一つ、

放香堂が“日本最古の加琲店”を謳えるエビデンスを紹介してくれました。

 

 

武田「三省堂のカタカナ語辞典というのがあるんですけど、

そのコーヒーの説明文のところに“放香堂”の名前が書いてあるんです。

社長が数年前に周りから教えて貰って分かったんですけど、

実は30~40年くらい前から載っていたそうで(笑)」

 

井門P「そういうのって、許可を取られたりしないんですか!?」

 

武田「社長も同じことを言ってました(笑)」

 

 

 

 

 

 

 

 

現在は中学の歴史教科書にも載っている放香堂。

コーヒーの香りに歴史がしっかりブレンドされた味わいは、

なんとも言えない豊かな美味しさでした!武田さん、有り難うございました!

 

 

 

お店を出た後は一路南京町へ。

アーケードを出るとすぐそこは西安門です。

 

 

 

 

 

 

 

 

横浜とも長崎ともなんとなく違う、神戸の中華街。

真っすぐ歩くと南京町広場に出るのですが、そこでとんでもない行列店を発見!

 

 

親分「ここの豚まんがさ、いっつも凄い行列なんだ。

あまりにも凄い行列だから俺も食べた事ないんだけど、食べてみる?」

 

一同「食べる~っ!!」

 

 

という訳で広場の真ん中の小屋をぐるりと囲む様に、

まさに龍がとぐろを巻く様に行列を作るその人気店とは…老祥記!

 

 

 

 

 

 

 

 

創業大正4年、元祖豚饅頭の名店でございます。

老祥記の行列を捌く為だけに警備のおじさんもいらっしゃるほど。

そんなに行列していたら期待せざるをえないじゃないですか!?

という訳で頂きました!元祖豚饅頭、1個90円(3個から買えます)

テニスボール大の豚饅頭は皮の表面に餡の肉汁が沁み出し、

なんとも美味しそうな香りを漂わせております・・・。


その味わいは、、、、旨いっ!!

皮に優しい甘味を感じながらも、

中の餡がその皮の甘さと絶妙に合わさって、口当たりが軽やか。

これなら1個どころか5個も6個もイケちゃいそう。

見れば他のお客さんは10個単位で買っていく方も多いようで、

南京町に来た時はこの豚饅頭は食べねば帰れません。これ書いてるとまた食べたくなる。

 

南京町は他にも美味しそうな食べ物がいっぱい。

どこのお店も威勢よく、点心やスイーツなどを屋台で売っています。

まだまだ食べたい思いをグッとこらえて、続いての発祥は?

 

 

親分「完全オーダーメイドの家具屋さん。

日本の洋家具発祥のお店と言われているんだよ。」

 

 

それが永田良介商店

6代目店主見習の永田泰資さんにお話しを伺いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

永田「お店は明治5年創業です。

元々は初代が道具商をやってまして、お店は外国人居留地の隣にあったんですね。

外国人の家具の修理などを引き受けている内に、洋家具の必要性を感じ、

船大工を雇い入れて見よう見真似で洋家具を作り始めたのがスタートです。」

 

 

それからおよそ150年。

お店の歴史は今の6代目に受け継がれているのです。

 

 

永田「完全にオーダーメイドで今も家具を作っていますが、

お客さんの中にはウチで作った家具を100年使い続ける方もいらっしゃいます。

たまにあるんですけど、修理に出していただくと、

“確かにウチで作った物だけど、これは一体どうやって作ったんだろう?”って(笑)

それこそ100年くらい経っていると3代目とかの手による物ですが、

今とは技術も材質も異なる物ですから。

中には火鉢を入れる家具なんて物もあったりします。

でもそうやって代々、お客さんも大切に使って頂いているんですよね。」

 

 

我々がインタビューに使わせて頂いたテーブルとイスもオーダー家具。

確かに普通の椅子よりも低めに作られていて、なんとも座り心地が良いのです。

 

 

井門P「ウチの椅子はもう少し高くて、足が遊んじゃう事もあるんですよね。」

 

永田「足が遊ぶとお尻を座面の前に出しますよね。

すると安定した姿勢が取れなくなってしまうんです。」

 

 

基本的に家具とは長い時間座ったり使ったりするもの。生活の一部であるわけだ。

そんな生活の一部が少しの時間使っていて身体が点かれる様ではどうしようもない。

こちらの永田良介商店ではオーダーメイドの椅子を作る際、

しっかりと身体を測定する椅子が用意されていて、

まずはそれに座り自分に合ったサイズを測るのであります。

 

 

 

 

 

 

 

 

永田「肘当ての下に薄い板が何枚か重ねられているんですが、

ここに手を乗せて貰って板を外したり重ねたりして高さを調整していくんです。」

 

 

ソファーのクッション部分も中にスプリングが入っていて、

一般的な低価格のソファーに比べると格段に長持ちするのだ。

 

 

永田「勿論、使っていくとヘタるんですけど、

それでも30年に1回交換とかになりますね。」

 

 

長い目で見れば安かろう悪かろうの商品よりもコストパフォーマンスは良いのだ。

しかもオーダーで作った家具には年月という物語が生まれてくる。

 

 

永田「おじいちゃん、この椅子によくこうして座っていたね…とか、

この鏡台はおばあちゃんが若い頃から使っていた物なのよ…とか、

家具を見てそれを使っていた人を思い出して欲しいですね。」

 

 

永田さんのお話しに感動すら覚える一行。

特に道具や靴などにこだわりを持つ親分の目が輝いている!!

 

 

永田「折角ですから、この辺にある椅子とかどんどん座ってみてください。

小林さんの身体なら、このサイズがジャストじゃないでしょうかね。」

 

親分「えっ!良いんですか!?(嬉しそう)

では失礼して…。」

 

永田「このオットマンの上に靴のまま足を乗っけてください。

で、ゆったりと腰を沈めてみてください。」

 

親分「分かりました。(足を乗せて、腰を沈めていく)

あぁ…なるほど…あぁ………これは…良いわ。」

 

永田「こうして身体を預けると椅子に座りながら気持ち良く眠れるんですよ(笑)」

 

親分「確かに。俺さ、映画とか見て、

なんで外国人は椅子に座りながら寝れるんだよ!って思ってたの。

でも今日分かった。こういう椅子なら、寝れるね(笑)」

 

 

あまりにも親分が気持ちよさそうなので、

井門Pも奥にあった椅子に同じ様に座らせて頂きました!


うん………寝れるね(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

オーダーメイドの椅子はその人の身体に合わせて作るもので、大体30万~40万円。

でもどこどこのブランドの~とか、外国産の~とかの椅子で身体に合わない物を使うより、

こうやって100年先まで使える椅子を作った方がよっぽど良い様に思えてしまう。

 

 

永田「そもそも家具はそうやって作っていたんです。

身体を家具に合わせるんじゃなく、家具を身体に合わせていく。

そうして大切に使った家具が子や孫の代まで続いていくんです。」

 

 

まさに家具が紡ぐ物語。

なんともロマン溢れるお話しではありませんか!

永田さん、なんだか沢山椅子にも座らせて頂き有り難うございました!

子供が独立したら永田さんのところで椅子を作って欲しいです!

 

 

 

 

 

 

 

 

続いての発祥はオリーブであります。

神戸の街を北野町の方へとえっちらおっちら登っていきます。

インスタ映えしそうなスイーツを扱うカフェやら結婚式の式場やらが並び、

お洒落オーラをビンビンに出している坂を、

おじさん4人がえっちらおっちらする。周りは若いカポー達や若き女子達。

坂を登って突き当たりまで来て後ろを振り返ると、

かなり上まで登ってきたことと、親分がかなり遅れていることが分かる(笑)


そんな北野町にあるのが神戸北野美術館。

 

 

 

 

 

 

 

 

ここでオリーブに関する資料の展示なども行っているのだが、

そもそもオリーブって小豆島発祥じゃないの??

お話しはインターナショナル オリーブ アカデミー理事長、宇津誠二さん。

 

 

宇津「当時、鹿児島と三重、そして香川でオリーブの苗木を植えて、

どこが一番オリーブを育てるのに適しているか調べました。

結果香川県小豆島が最もオリーブ栽培に適しているという事で、

そこでオリーブの栽培がスタートします。」

 

井門P「そうですよね?確か国策で小豆島でのオリーブ栽培が始まったんですよね?」

 

宇津「確かにそうなんですが、実はそれよりも30年早く、

神戸でオリーブの栽培に成功しているんです。」

 

 

 

それが神戸阿利襪園

明治の初頭、日本が外貨を獲得する術は『生糸』と『お茶』しかありませんでした。

そこに何か大きな農作物を加え、

産業化出来ないだろうかと考えだされたのがオリーブだったのです。

そしてそのオリーブの栽培を担った試験場こそ神戸阿利襪園

まさに日本最初の国営オリーブ園だったと…。

 

 

 

 

 

 

 

 

宇津「当初オリーブの栽培にも成功し、良質なオリーブオイルも搾っていたんですが、

徐々に神戸の街も市街地が発展していき農地が減少すると、事業も存続出来なくなりました。」

 

 

そこで出てくるのが小豆島のお話しなのです。

小豆島でオリーブの栽培が始まる前に、

神戸でオリーブ栽培に夢を見た人達の物語があったんです。

 

 

井門P「そう言えばここに来るまで、道の至る所にオリーブが植えられていましたね。」

 

宇津「それはここがオリーブ発祥の地という事を意味する為ですが、

実は来年の2018年から生産用で神戸でもオリーブを栽培する動きがあるんですよ!」

 

 

1879年に神戸で生まれた日本初の国営オリーブ園。

そこからおよそ140年の時を経て、再び神戸産オリーブが誕生しようとしている。

 

かつてこの番組がYAJIKITAと呼ばれていた頃、

自分がPになって最初に旅をしたのが小豆島でした。

その時取材した記憶がいまでも鮮明に残っていて、

だからこそ『オリーブ=小豆島』が当たり前の様に自分の中に定着していたのです。

神戸産のオリーブ、ワインでも飲みながらその実を頂ける日が来ることを楽しみにしています!

 

 

 

 

 

 

 

 

神戸ロケ、最後の神戸発祥はJAZZです。

え~!?JAZZまで神戸発祥なの!?とお思いのそこのアナタ!

これは色々言い方もあるのですが、

日本で初めてプロのJAZZバンドが生まれたのが神戸。

今では神戸ジャズストリートという全国屈指のJAZZイベントも行われています。


お話しを伺ったのは、その実行委員長・川崎啓一さんです。

川崎さんはこのイベントに第1回から関わっている中心的存在。

 

 

川崎「そもそも1982年からはじまってるんですけど、

その前の年の1981年に“ポートピア81”って博覧会が行われたんです。

その中でインターナショナルジャズフェスタってのがあって、

8月に4日間ジャズのイベントをやったんだけど、

これをきっかけに翌年神戸ジャズストリートが始まったんです。」

 

 

今年で36回目を迎える神戸ジャズストリート。

会場は神戸の街に10か所ほど点在する。

 

 

 

 


©神戸ジャズストリート2016

 

 

 

 

川崎「もともとNYではJAZZのライブハウスが沢山ある“ストリート”があったんです。

かつてニューヨーカー達はそこでJAZZの演奏を聴きにいく事を、

“ストリートに行かないか!?”って言ってました。

その響きから神戸ジャズストリートという名前を付けたんです。」

 

 

街にJAZZの音が響くお祭り、外国の香りのする港町神戸にぴったりじゃないですか。

でもそもそも何故、神戸はJAZZ発祥と言われる様になったのでしょう?

 

 

川崎「大正12年に、日本で初めてプロのJAZZバンドにより

JAZZが演奏されたのが神戸です。それは間違いありません。

当時宝塚でヴァイオリン奏者だった井田一郎という人が、

ピアノやヴァイオリンなどの4人編成で、“ラフィングスターズ”というバンドを結成し

ダンスパーティーなんかで演奏したんです。

最初はですから、どちらかというとダンスの為のバンドという感じでした。

ダンス音楽やディキシーランドジャズなんかを総称してJAZZと呼んでいたんです

 

 

大正の時代から幾つかの時代を経て、

今年も神戸の街にJAZZの音が響き渡る時期がやってきた。

2017年は前夜祭が10月6日(金)、

そして10月8日(土)と9日(日)に本番が行われる。

 

 

 

 

©神戸ジャズストリート2016

 

 

 

 

川崎「オープニングのパレードは凄いですよ!」

 

 

そう話す川崎さんの表情は何だかとても楽しそうだ。

神戸のみならず世界中からJAZZマン達が訪れるこのイベント。

いつか神戸の街の中で、その音を楽しさを体感してみたい!

 

 

 

 

 

 

 

 

オープニングを失敗し、ややヘコみながらのスタートではあったけど(笑)

神戸の街をぶらりと歩きながら、街の空気を感じながらの旅は本当に気持ちよくて。

 

東京以外の街を、車を使わずに歩いてロケをするのって凄く新鮮だった気がします。

情緒はそこに流れる物だから、肌で感じてみないとそれは上手に伝えられない。

まぁ、今回はそもそも上手に伝えられなかったんだけど(自虐か!)

 

でも確かに歩いてみたからこそ、

神戸が何故『異国情緒あふれる街』と言われるのかが分かった様な気がしました。

今も昔も、港からは新しい風が吹いてくる、神戸。

 

その風を感じに、そして次回は老祥記の豚饅頭を最低でも5個は食べに(笑)

また戻ってきたいなぁ。

 

今回お世話になった全ての皆さんへ、有り難うございました!