本当は悪人じゃない?~光秀、久秀、村重の素顔~|旅人:井手窪剛

2019-09-27

100年以上にわたって、戦(いくさ)の絶えない状態がつづいた戦国時代。

 

この時代は「下剋上(げこくじょう)」といって、身分の低い者(下)が、身分の高い者(上)に「打ち剋(か)って」、家来が主君を超える現象が、日本中でおこっていました。
上の者が、下の者をおさえることができないわけですから、各地の勢力がお互いに争い合って、収拾がつかない状態になっていたわけです。

 

やがて、時代の風雲児として、あまりに有名な織田信長(おだ・のぶなが)があらわれます。
信長もやはり、もとは現在の愛知県西部にあたる尾張国(おわりのくに)の、一勢力にすぎませんでした。その状態から勢力を拡大し、京へのぼって、下剋上をして、日本全国を統一一歩手前まで迫ったのです。

 

しかし、この信長も、天下統一目前で、部下の明智光秀(あけち・みつひで)に謀叛をおこされて、京都の本能寺にいたところを光秀の軍勢に攻められ、亡くなることとなりました。

 

これがいわゆる、「本能寺の変」です。

 

光秀はこの事件により、日本史上もっとも有名な謀叛者の一人として、名を残すことになりましたが、実はこの「本能寺の変」の前にも、信長に謀叛をおこした人物は、複数名いたのです。

 

そうした叛逆者のなかで、光秀に次いでよく知られているのが、荒木村重(あらき・むらしげ)と、松永久秀(まつなが・ひさひで)です。

 

光秀、村重、久秀の三人は、上の者に逆らったことで、いわば〝悪人〟のイメージがついてしまっています。信長があまりに有名であるだけに、それに比例して(あるいは、反比例といったほうがいいいかも)、彼らの悪評も広まってしまったともいえるでしょう。

けれども、彼ら三人の実像をつぶさに追っていくと、実は「悪人」とも言えなかった。時代と社会の情勢、当時の状況のなかで、懸命に選択をした結果、やむを得ず謀叛をこおこしたのではないか、と私は思っています。

 

そこで、彼らが活動した歴史上の舞台を実際にたずね、その人生を肌で感じ、改めてその事績を検証すべく、旅をしてきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

まずは、兵庫県伊丹市の、JR宝塚線・伊丹駅そばにある有岡城(ありおかじょう)址。別名、伊丹城とも呼ばれています。

 

JRの線路の東側には、河原の広い猪名川(いながわ)が流れており、対岸には大阪国際空港(伊丹空港)があるため、上空には飛行機が飛び交っています。

 

西側は阪急伊丹線の伊丹駅があり、伊丹市の中心街です。
城址は公園になっています、駅前ながら樹木の多い、広々とした空間が開けています。

 

時代は、いまから440年あまり前の天正6年(1578)。

 

当時、近畿地方に進出してきた織田信長に仕え、摂津国(せっつのくに)(現在の大阪府北部と兵庫県南東部)をまかされていた荒木村重は、突然、本拠地としていたこの有岡城に立てこもり、信長に叛旗を翻しました。

 

それ以来、1年にわたって籠城戦をつづけ、村重を説得にいった黒田官兵衛(くろだ・かんべえ)を、籠城の期間中、城内の土牢(つちろう)にずっと幽閉するという暴挙に出ています。

 

 

 

 

 

 

 

 

このあたりのエピソードは、大河ドラマ『軍師官兵衛』でご覧になった方もいらっしゃるでしょう。

 

さらには1年近くたったとき、村重は、わずかな兵を連れて有岡城を脱出。家臣とその一族のみならず、自らの家族や領民をも、置き去りにしてしまったのです。
主(あるじ)を失った有岡城は、1ヵ月あまりのちに落城。荒木一族と重臣の36人、家臣の家族122人が殺される、むごい結果となってしまいました。

 

村重自身はといえば、家来が籠る尼崎城(あまがさきじょう)、花隈城(はなくまじょう)に移動して、しばらくのあいだ抵抗をつづけたものの、やはり信長に勝ち目がないとなると、中国地方の毛利氏を頼って逃げ延びていきました。
その後も村重は、信長が天正10年(1582)、「本能寺の変」でたおれるまで、信長に服従することはなかったのです。
しかも、彼はその後、天下人となった豊臣秀吉に仕えています。

 

彼の場合は、主君に逆らったことよりも、家族や家臣を、結果的に見捨てながら、自分一人は生きのびたことで、「悪人」の烙印を押させたといえます。

 

しかし、考えてみてください。

 

有岡城には、城下を取り囲む広大な濠(ほり)があり、籠城には武士だけでなく、一般の領民も参加していました。
1年もの籠城戦を、家臣や領民が裏切ることなく耐えつづけたことを考えれば、村重が信頼に足る、あるいは慕われていたことを示すものではないでしょうか。
官兵衛にしても、敵方なのであれば殺してしまってもおかしくはないのを、土牢というひどい環境においたとはいえ、殺してはいません。
それに、村重は有岡城を脱出したあと、信長に降参したわけではありません。別の城で、徹底して信長に抵抗しつづけているのです。
彼は、生きて抵抗をつづけた。死んでしまっては、何にもならない。そこにこそ、戦国に生きた人たちの、強さがあるように思えました。

 

私が有岡城を訪れたときは、青空が晴れ渡り、台風15号の影響をわずかに受けて、汗を乾かすほど風の強い日でしたが、のどかな街のなかにあって、それだけに有岡城に落城の悲哀と、業の深さを感じてしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

つづいては、奈良市内にある多聞城(たもんじょう)。別名、多聞山城(たもんやまじょう)とも呼ばれ、二人目の主人公・松永久秀(まつなが・ひさひで)――通称・松永弾正(だんじょう)の築いた城です。

 

小高い山のうえにあって、木々のあいだから南東方向に東大寺の大仏殿をのぞめ、奈良の歴史そのものを感じられるロケーションです。

 

 

 

 

 

 

 

 

ここの城主だった久秀も、信長に仕えながら、やがて叛いた人物でした。しかも、三度も。
最終的には天正5年(1577)、久秀は現在の奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)にある、信貴山城(しぎさんじょう)で三度目の謀叛を起し、城とともに爆死します。

 

しかし信長に逆らいながら、二度まで許された人間は、彼以外にいません。それだけでも大したものですが、彼が「悪人」と呼ばれる理由は、別にありました。

 

その悪事は信長自身が紹介してくれているのですが、
「主家・三好家の乗っ取り」
「将軍・足利義輝の弑逆(しいぎゃく)」
「奈良東大寺大仏殿の焼討ち」
の三つです。

 

 

 

 

 

 

 

 

信長は、「ふつうの人なら、大悪事を一つおかすことさえ難しいのに、久秀は三つもやってのけた」と評しています。
事実ならば、言い訳のできない悪行ですが、実は、そのいずれも久秀にはアリバイがあり、彼自身が意図したものではなかった、と私は考えています。

 

多聞城には、仏教の守護神の一人である多聞天の仏像がかざられて伝えられ、それが名前の由来となっています。
この城は、寺院と城の機能をあわせ持っていた、といわれており、彼の信仰心の強さが感じられます。
現在、城址のある山頂には奈良市立の中学校が立っていますが、学校の入り口前には地蔵がたくさん並び、訪れた日は、蝉しぐれが聞こえていました。
彼は信貴山城に、信長の安土城に先がけて、日本初ともいわれる本格的な4層の天主(てんしゅ)(天守=天守閣)を築いたとされ、先進的な人物であったことがうかがえます。

 

 

 

 

 

 

 

 

最後は、三人のうちもっとも有名な明智光秀(あけち・みつひで)です。
彼が、主君の織田信長を死にいたらしめた天正10年(1582)6月2日の「本能寺の変」は、ほとんどの日本人が知っている歴史的大事件ですが、謀叛の理由に諸説があり、それぞれ「黒幕」が誰か、推測をしているため、日本史上、もっとも謎に満ちた事件の一つとなっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

私自身は、光秀が単独で犯行におよんだと思っていますが、皆さんはいかがでしょうか。
というよりも、部下をこき使いつづけたスパルタの信長ですから、誰に謀叛を起されても、おかしくはなかったでしょう。もちろん、信長を倒したところで、その部下であったなら、あとの展望はよほどしっかり描いていないといけなかったでしょうから、光秀も不本意ながら、謀叛におよんだのではないでしょうか。

 

何より彼は前半生が不明で、信長に引き立てられたからこそ、出世することができました。信長の家臣のなかでも、いちばんの出世頭だったのです。その感謝を、光秀自身が「本能寺の変」の1年前に、家臣へ説いた文書を残しています。
信長のスパルタぶりに疲れはて、「窮鼠猫を嚙む」そのもの、だったのではないかと思います。

 

信長の最期の地となった本能寺は、変の当時、京都の四条西洞院(しじょうにしのとういん)にありましたが、「本能寺の変」で焼失。現在は、寺町御池(てらまちおいけ)に移転されており、寺町通に面して山門があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

かつての本能寺址には、京都らしい町家のならぶ油小路通(あぶらこうじどおり)に面して、市立高校のキャンパスと、介護施設のすぐそばに碑が建てられており、小川通ぞいにも案内碑があります。

 

旅の帰路、夕方のJR京都駅で、台風15号のために早まった最終の新幹線に、なんとか飛び乗らせていただいた私は、そのアクシデントにドキドキしながら、悪人とされた明智光秀・荒木村重・松永久秀のことを思っていました。

 

彼らの選択と限界は、自分の身に置き換えてみると、これほど学ぶことの多いものはない。なぜ、謀叛を起したのか。その背景を知れば、現代に生きる私たちにも多いに参考となる。
そんなことを考えさせられた旅でした。

 

皆さんもぜひ、その人物の人生の背後にあるものを思いながら、その足跡をたどる旅をしてみては、いかがでしょうか。