それぞれの復興10 年~再生へ歩み続ける東北を行く 。 宮城 編|旅人:井門宗之

2021-03-13

小野寺「10年前の自分にかける言葉は10年経った今も見つかりません。
それでも…そうですね、声をかけるとしたら“そのままで頑張れ”でしょうかね。」

 

僕が気仙沼で一番会いたい人が小野寺靖忠さんです。
港町気仙沼において最高に美味しくて素敵なコーヒー店『アンカーコーヒー』を営まれ、
震災後は気仙沼の新しい街づくりに尽力された若手の実業家。
目配りと気配りの達人で、一緒にいる人を楽しませる最高の人物。
KIKI-TABIが特番として帰ってくる事が決まった時、永尾Dから言われました。
『井門君の会いたい人に会いに行こうね。
小野寺さんと正樹さんは外せないとして…。』とキメ打ちであります(笑)
しかも小野寺さんと正樹さん(髙政の代表)は義兄弟の契りを交わしているとか…。
いないとか…(いなかったらごめんなさい、でも交わしていそう。)
町を引っ張っていく方はどことなく似ていて、毎回お会いするのが楽しみなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

年月は決して節目にはならないけれど、あの震災から10年。
10年は町の姿を激変させ、人の気持ちも変えていきました。
僕らもこれまで沿岸の町の取材を通じその変化をお届けしてきましたが、
今回は宮城編。最大の復興事業である三陸沿岸道を徐々に南下していきます。
旅日記はぜひ前回の岩手編と併せてご覧いただければ幸いです。

 

そう、そして気仙沼です。
気仙沼は津波と火災で甚大な被害を受けた町である事は皆さんもご存知かと思います。
あれから10年が経ち、町は劇的な変貌を遂げました。
その変貌した町を眺めながら小野寺さんと、コーヒーと。

 

 

 

 

 

 

 

 

井門「ご無沙汰しております!」

 

小野寺「ようこそ、気仙沼へ!」

 

小野寺さんと最初にお会いしたのが、もう4年前になります。
そこからでも4年。今回インタビューした時はまだ気仙沼湾横断橋が開通前で、
ヤッチさんも橋を渡るのを楽しみにされていたもんなぁ。
そして気仙沼と言えば防潮堤の形です。内湾地区は防潮堤の上に人の営みがある。
これは本当に多くの方に実際に見て頂きたいです。
この形こそが気仙沼の覚悟でもあり、メッセージでもあるのです。

 

井門「以前お話しを伺ったときも“気仙沼は海と生きてきたから、
防潮堤が海と人の営みを分断するものであってはならない”と仰ってましたもんね。」

 

小野寺「そうですね、ここは港町で気仙沼の人たちは海と共に生活してきましたから。
防潮堤が出来る事でその人の営みに支障があってはならないんです。
だからこうして防潮堤の上に商業施設を作って海と町を繋げたんですよね。」

 

全てを奪っていった筈の海を「共に生きる」と話すヤッチさん。
そこにあるのは「港町で生まれた」気仙沼人としての想いなのかな。
そう、やっぱりヤッチさんの言葉の真ん中には『人』があって。
この時のインタビューはお店の閉店後に行われたのですが、
(それでもコロナ禍なので午後5時閉店)
若いスタッフと冗談を言い合いながらみんなで楽しそうにしているのも印象的でした。
そんな風景を眺めながら、
以前お伺いした時にヤッチさんが仰っていたこんな言葉を思い出したんです。

 

小野寺「始まり易い町と始まり難い町があると思うんです。
スタートアップし易い町が勢いのある町。
これからは今の人達に向けての町作りをしていかなくちゃいけない。
人がいるから、町があるんです。」

 

前回お邪魔した時に取材した『みしおね横丁』も、こちらの商業施設も、
気仙沼が『始まり易い町』だからこそ人が集まってくる。
でもそれでもまだまだ町づくりはその途上。ここからなんですよね。

 

小野寺「一日、一日の積み重ねですよね。
10年経ったから全てが終わったという事ではないですから。」

 

 

 

 

 

 

 

 

3月6日に気仙沼湾横断橋が開通、
3月11日には気仙沼市復興祈念公園が開園しました。
公園のある陣山の上に建てられたのは『祈りの帆(セイル)』。
海と共に生きてきた気仙沼の方々の祈りの場所が、
震災から10年で漸く完成したんです。

 

小野寺「港町を象徴する様な、海に向かって祈りを捧げている様な形ですよね。
気仙沼は船が出ていく“ならいの風”が吹きます。
そのならいの風を感じながら、海を見下ろして祈りの場所になれば良いなと。」

 

井門「震災から10年、どんな風に今は感じていますか?」

 

小野寺「本当に悲惨な状況から始まった気仙沼でしたけど、
あの時もそうですが世界中から助けてもらいながら、この10年やってきました。
今はそうですね…、震災前より良い町づくりが出来た気がしています。」

 

そうそう、インタビューの時にヤッチさんや前回ご登場頂いた河野さん、
なんなら後ほどご登場頂く正樹さんも仰っていたのですが、
『10年前は若手だったけど、気付いたら今はもう若手じゃない』というお話し。
その感覚もまた『あれからの10年』を象徴していると思うのです。
そしてあの時に中学生だったという世代が町づくりに尽力している場所がある。
続いて僕らが向かったのは南三陸町です。

 

 

 

 

 

 

 

 

南三陸町観光協会の阿部悠斗さんに、
『みなチャリ』という新たなアクティビティをご紹介頂いたのが昨年。

 

阿部「あの時は小雨…いえ雨が降っていましたもんね(笑)」

 

ミラクル「井門がブーブー文句ばっかり言ってすみません。」

 

阿部「いえ、あんなに寒い中でこちらこそすみませんでした!」

 

井門「文句なんて言ってないでしょう!」

 

永尾「だってガタガタ震えてたじゃない?」

 

井門「だからこそ“お茶っこ”の有難さが身に染みたんだよ!
でも阿部さん、コロナ禍で“お茶っこ”もやられていないんですよね?」

 

阿部「そうですね、やはり受け入れ先のお宅が御高齢な方が多いので…。」

 

南三陸の豊かな自然を感じながら自転車で巡るのが『みなチャリ』。
その楽しみの一つが途中で立ち寄る民宿や民家で頂く“お茶っこ”であります。
このお茶っこは本来“お茶うけでお菓子などを頂く”的な意味合いなのだが、
『みなチャリ』のお茶っこはひと味もふた味も違います。

 

井門「出てきたのがワカメのしゃぶしゃぶに新鮮なお刺身、焼き魚とか、
本当におなか一杯になるくらい出して頂きましたもんね。」

 

阿部「そうですね、あれが南三陸町の“お茶っこ”の魅力ですから(笑)」

 

しかしそれもコロナ禍でやむを得ず中止、市場の無料振る舞いも中止、
観光協会としても辛い一年を過ごされてきました。

 

井門「あれ?でも前回お伺いした時にはなかった動線が出来てませんか?」

 

阿部「はい、さんさん商店街から“中橋”という橋を渡りまして、
南三陸震災復興祈念公園・祈りの丘に直接行くことが出来る様になったんです。」

 

 

 

 

 

 

 

 

この中橋は震災前に実際に架けられていた橋の名前だとか。
南三陸町は町の形や川の引き込みをも震災後に大きく変えた町。
今は嵩上げを終えた町の中に、静かに震災遺構でもある防災対策庁舎が佇んでいます。
僕らは中橋を渡り少し高さのある祈りの丘へ。
この階段を登ると、その高さはこの町を襲った津波の平均的な高さになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

阿部「祖父からも言われていたんです。地震が来たら津波が来るから逃げろって。
でもそう言われていたけど、まさかあんな津波が本当に来るなんて…。」

 

南三陸町を襲った津波の平均的な高さは海抜16.5m。
とんでもない高さの津波が町を飲み込んでいきました。
祈りの丘の上にはこんな碑が海に向かって建てられています。

 

『いま碧き海に祈る 愛するあなた 安らかなれと』

 

 

 

 

 

 

 

 

阿部「町には家族や家を失った人が多いです。
だから同級生でも震災の話は数年は出来ませんでした。」

 

井門「そうですよね…。少し話せば悲しみに当たってしまう…。」

 

阿部「でもここ数年でそういう話もようやく出来る様になりました。」

 

井門「南三陸町は阿部さんの世代の方が町づくりで頑張っていらっしゃるんですよね?」

 

阿部「あの震災があったからかもしれません。
当時、私は中学生でしたが町を何とかしたいという想いは強くて。
同じ様に考える仲間も多くて、高校を卒業したら家業を継いだり、
大学は外に出て行ったけど卒業後に南三陸町に戻って来たりする人も多いです。」

 

こうした20代の阿部さん世代を、
きっとこの町の先輩たちは頼もしく見ているんだろうなぁ。
そんな阿部さんたちが危惧するのは実は更に下の世代のことなんです。

 

阿部「地域の子たちが“南三陸町には何もない”って言うんです。
それを聞いてショックで(笑)
南三陸町はこの10年必死になってマイナスから町を新しく作ってきました。
それが今の形になって、ここからまた町を作っているのですが、
今の子供たちには“何もない”と映ってしまうんです。」

 

井門「うちの息子もそうですけど、
震災後に生まれた子達がもうすぐ小学4年生ですもんね。」

 

阿部「はい。僕にもひと回り歳の離れた妹がいるんですが、
震災時に2歳だったんです。そうなるとあの時の記憶はほとんど無いんですよね。
ですから今の若い世代がこの町に残りたいと思える町づくりをしていきたいです。」

 

20代の阿部さんが「若い世代」へどんなバトンを繋ぐかの話をされる。
その姿が僕らにはとても頼もしく、
そうだよな、自分も10年分歳取ったんだよなぁと感慨深かったりして。

 

 

 

 

 

 

 

 

高橋「奇遇ですね!井門さん、僕も10年歳を取ったんですよ!(笑)」

 

そう言いながら笑っていたのが女川町の高橋正樹さんです。
*ごめんなさい、変な登場のさせ方して(笑)
女川町は…もう僕らの番組にとっても(もちろん僕にとっても)大切な町で。
震災後から幾度となくお邪魔し、その度に変わっていく町の姿に胸を打たれてきました。
僕と正樹さんはいつも地域医療センターの上から女川の町を定点観測してきたのですが、
今回もお話しを伺ったのは同じ場所で。
あっ、正樹さんは女川を代表する企業、蒲鉾本舗・髙政の代表取締役。
また女川観光協会副会長など様々な肩書をもって、女川の町づくりを進めてきた方。

 

井門「最初にこの場所から眺めた町にはまだ何も出来ていなくて、
駅舎がようやく出来てきた時もここから綺麗に駅は見えていたんですが、
今はそこまでに建物が沢山並んでいて駅が見えないんですよね。」

 

高橋「人の営みが戻ってきたんですよね。
いや、人の営みが戻るのは当たり前のことなんですけど。
その当たり前を取り戻す戦いがどれほど大変だったか…。」

 

そんなお話しを伺っていると人の笑い声も聞こえてきます。

 

井門「目の前にスケボーのパークが出来てるじゃないですか!?」

 

高橋「はい、スケボーのパーマネントパークを作りました。
でもこれを作りましょうよって言ってきたのも僕の後輩の若いやつで。
正樹さん、若い子がスケボーで遊べる場所は絶対作った方がいいですよって。
好き勝手して町を壊すより、いっそ場所を作った方が良いですって。
そうか、じゃあ作ろうって。」

 

女川町も含め復興が進む沿岸の町は意思決定がとにかく早い。
地域の人の意見をすぐに吸い上げて、それが行政に反映される。
これがきっと理想的な形なんだろうなぁ。

 

高橋「あの奥の方に斜面になっているところがあるじゃないですか?」

 

井門「ありますね、結構な広さで。」

 

高橋「あそこを全面滑り台にしたら面白いだろうなぁって、
やろうやろうってなってたんですけど、
山の斜面を直接滑り台にするのは法律的に難しいらしく断念しました。」

 

井門「無邪気か!(笑)」

 

でも町づくりにはきっとこう言う“ワクワク”が大切なんだろうなぁと。
ワクワクしない町に人は集まらないですもんね。

 

高橋「震災の時に当時30代だった僕らに言われたのは、
新しい町づくりに還暦以上は口を出さないって事でした。
それってすごい事ですよね、親父たちの世代ってめちゃくちゃすげえなって(笑)
親父がこのまえ古希を迎えたんですけど、その時に聞いてみたんですよ。
親父のこれまでの功績で一番は何って。」

 

井門「なんだったんですか…?」

 

高橋「勲章を貰ったことでも、天皇杯を貰った事でも、
会社を設立した事でも町の商工会の会長を何期も務めた事でもなくて。
親父にとっての最大の功績は、
“あんたらに町づくりを任せたことだ”
って言われて。…泣きましたね。」

 

井門「それは…嬉しいですね…。」

 

高橋「だってそれって今の女川の町を見て失敗していないって事じゃないですか。
これを聞いて僕は女川の全若手に伝えたいって思いました(笑)」

 

女川駅は改札を抜けると海が見えます。
昇る朝日は何にも邪魔されず、女川の町並みを照らします。
商業施設のシーパルピア女川には賑わいを取り戻した商店の数々、
行列の出来るラーメン店や浜焼きをする海鮮のお店。
僕らが取材に訪れたのは日曜日という事もあって、
家族連れや恋人同士の笑顔が町には溢れていました。
施設の駐車場も車でいっぱいで。(勿論施設内のコロナ対策は万全です)
人の当たり前の営みが、そこにはありました。
ここまで取り戻すのに、10年。年月は節目にはならないけど、
10年という年月が女川の町をここまで回復させたんです。
きっと正樹さんたちの熱意は若い世代にも届いていて、
下の世代は『あの人たちすげぇ!』って思っている筈です。
だからこそ女川の新陳代謝はこれからも止まらないと思うし、
正樹さん世代がその新陳代謝を邪魔するわけもなくて(笑)
いつか言うんだろうな、正樹さん。
『あんたたちに町づくりを任せて良かった』って。

 

 

 

 

 

 

 

 

それにしても正樹さんと一緒にお昼ご飯食べたかったなぁ…。
『えっ!?行かないの!?本当に行かないの!?』って言われたお店、
次回は必ず御一緒させてくださいね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続いて我々が向かったのは石巻です。
震災後に番組が初めに取材をしたのが石巻市。
あの当時は町のあちこちに潮の香り(津波による)が残り、石ノ森漫画館も閉館中。
信号機はまだ動かず、警察や自衛隊の車両が行き来する様な状況でした。
そこかしこに積み上げられた瓦礫の中で取材を続けていた僕らに、
自衛隊の方にかけられた言葉が今も忘れられません。

 

――どうか、ありのままを伝えてください――

 

その石巻にあって『石巻に“いまむら”有り!』と言わせるのが、
四季彩食いまむら

 

 

 

 

 

 

 

 

石巻の豊かな旬の食材を美しい料理へと昇華させるのが、
ご主人の今村正輝さんです。
今村さんはもともと千葉のご出身。
東京の料亭などで修業を積まれていたのですが、
震災後にボランティアで訪れた石巻で地元の方や仲間との結びつきを強めていきます。

 

井門「こちらのお店には久しぶりにお邪魔したんですけど、
内装をリニューアルされたんですね!」

 

今村「そうなんです、今回も店を作った時と同じ様に手作りで(笑)
仲間たちと一緒に内装から何から作り上げました。」

 

 

 

 

 

 

 

 

お店はこの4月で丸8年、開店から5年のタイミングでリニューアルしたそうです。
今村さんが作る多彩な料理の調理行程や食材の数々をしっかりと観る事が出来る様、
中央の調理場をコの字型のカウンターが囲みます。

 

今村「石巻の食材をお客様にしっかり見て頂きたいという想いもあります。
前のスタイルだと料理を提供した後にお客様の顔を見られない事もあったので。」

 

これは今村さんが石巻の食材をどれほど愛し、
それを作る生産者の方をどれほど信頼しているかが滲み出る言葉。
久しぶりにお邪魔した「いまむら」は料理は勿論、
今村さん御本人も全てがパワーアップしていました。

 

永尾「ここの出汁が旨くてね、何杯もお代わりしちゃうんだ。」

 

井門「最初に永尾さんに連れて来て貰った時は5杯くらい飲んでいたもんね。」

 

今村「永尾さん、その時に比べて出汁も変えたんです。というか水を変えました。
出汁の旨味をしっかり引き出せる様に、今は湧き水を汲みに行ってます。」

 

永尾「え~!それは絶対に美味しいでしょうに…。」

 

因みに今回出汁はお預けだったんですが、その代わり(?)いまむらの絶品ランチを。
特別に取材前に石巻の豊かな海の幸を使ったちらしを頂いたんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

今村「ちょっと量が多めなので、残してくださいね!」

 

三人「いやいやいや、こんな旨い物ペロっとですよ。」

 

―10分後―

 

三人「ご馳走様でした!!(ペロっと)」

 

今村「(笑)」

 

石巻にはなくてはならない存在の「いまむら」ではありますが、
やはり新型コロナウイルスの影響は相当の様で…。

 

今村「去年の3月から何となく状況が変わっていって、
ウチも結局4月と5月は休業していました。
今までの様に営業は出来ないですけど、
今はお昼にお弁当をやって夜も営業はしています。」

 

井門「コロナで一番影響を受けるのが飲食店ですもんね…。」

 

今村「お休みが増えたので最近は休みの日に地元の漁師の船に乗って、
漁に出ています。

 

井門「漁??」

 

今村「漁に出ると自分が今まで扱っていた魚がどんな風に揚がっているのか、
それを漁師の方々がどんな風に扱っているのか、
今までは知らなかったことを知る良い機会になっているんです。」

 

井門「そうか今村さんのお話しを伺っていると、
その後ろにいらっしゃる生産者の方の顔も見えてくるんですよね。」

 

今村「有り難うございます。
石巻の魅力はなんと言っても食の豊かさで、
“食”と“人間関係”の結び付きがあったから僕はここにいるんですよね。
石巻人になって良かったと思っています(笑)」

 

コロナで大変な時だからこそ、やれる事をやり抜く。
それはそのまま今村さんの石巻に対する想いの強さなのかもしれない。

 

今村「生産者の皆さんも“石巻の人たちはこういうの(コロナ)に強い”って、
だから今回もみんなで乗り越えていきたいです。」

 

 

 

 

 

 

 

 

永尾「いやぁ、夜にゆっくり来たいね。」

 

ミラクル「地元のお酒と合わせたいでゲスなぁ。」

 

井門「仙台からだって1時間くらいだもんね、必ず!!」

 

気仙沼から三陸道を南下していく今回の旅。最後の目的地は七ヶ浜町です。
この町は我々にとって思い入れの深い町で。
震災から1年が経った頃にボランティアとしてお手伝いに入ったのが七ヶ浜町でした。
その時の作業内容が体育館の中に臨時の図書館を作る!というもの。
津波の被害を辛うじて免れた本は一時七ヶ浜町の生涯学習センターに移動され、
その本を整理し被災した町民の皆さんのために図書館を臨時で作ろうじゃないかと。
その当時の旅日記が残っていたので、一部抜粋します。

 

 

以下当時の旅日記より抜粋――

 

ボランティアセンターからほんの少しの距離に、公民館がある。
我々の他にも男性ばかりが総勢10名強、こちらに派遣されたのだが…。
ここでの作業を教えてくれたのが、七ヶ浜町教育委員会生涯学習課の鈴木歩さん。

 

鈴木「作業時間は10時30分から14時30分までです。間にお昼の休憩を挟みますよ。
そして、肝心の何をやっていただくか?ですけど、ここに臨時図書館を作って貰いたいんです!」

 

全員「おーっ!!」

 

鈴木「ここのスタッフは女性が多いので、男性の力が必要なんです!」

 

全員「おーっっ!!!」

 

鈴木「こちらの体育館は大体バレーボールコート一面分の広さですけど、
ここに本棚を30くらい、本は全部で数万冊移動したいです!今日の作業で!」

 

全員「お…おーっ!!!」

 

こうして始まった「臨時図書館」作り。
体育館のコートには本棚が無造作に置かれ、本は別の部屋で眠っている。
まずはブルーシートを引きはがし、本棚を並べていくのだが…何せ本棚が大きい。
鈴木さん達、職員の方々がどこに何を置くかの設計図をあらかじめ作ってくれているのだが、
一つの本棚は男性2人~3人でようやく運べる物ばかり。
全部で何十という数の本棚なので、これがなかなか骨のある作業なのだ。
しかし集まったボランティアの方々も、町の人達に早く本を読んでもらいたくて一生懸命。
額にはみんなじんわりと汗をかいている。

 

本棚を並べ終えると、なんとなく図書室っぽくなってきた!
あとはここに本を入れるだけなのだが、それでもその数は数万冊。
これも一筋縄ではいかなかったんだよなぁ…(笑)

 

皆で必死にやっていたら、あっと言う間に昼休憩の時間になっていた。
僕らは一旦、受付をした場所に戻り、様々な人に話を聞いてみる事にした。
その中には大学生のグループがいたり、
今回始めて横浜からボランティアに参加する女性がいたり、
それぞれ動機は違えど、目的は「被災地の為に何かしたい!」という想いが強いようだ。

 

――以上当時の旅日記より抜粋

 

 

実は臨時図書館作りをお手伝いした翌年、
僕らは再び七ヶ浜町を訪れ綺麗に整理された図書館を取材しています。
その時も鈴木さんにお会いしているのですが、
今回はあれから8年ぶり…。お元気でいらっしゃるかな、忘れられてないかな…。

 

鈴木「ご無沙汰してます!!」

 

井門「うわー!!鈴木さん!!!」

 

七ヶ浜生涯学習センターの前の駐車場で予期せぬ再会でした(笑)

 

井門「あれから随分経ちますけど、図書館は…?」

 

鈴木「ありますよ!

 

こうして8年ぶりに生涯学習センターの中に入っていった我々。
あの時一緒に作業したのが今回の作家でもあるミラクル吉武さん。
鈴木さんと廊下を進みながら『あぁ、なんか覚えてるなぁ』なんて話していて。
でも僕らが片付けた無数の本は今は体育館にはありませんでした。

 

鈴木「こちらになります。」

 

 

 

 

 

 

 

 

あの時の本はしっかりと図書室の中に移され、
その図書室では女の子を連れたお母さんが絵本の読み聞かせをされています。
あの日の光景は忘れられないけど、でもそれが今は幸せな日常の中にある。
震災から10年が経過して、七ヶ浜町にも当たり前の日常は戻ってきました。
鈴木さんのお話しではこの形の図書室になったのは2014年くらいとの事。
少しずつ、少しずつ、時間は前に向かって進んでいたんですね。

 

鈴木「震災からもう10年経ったんだという…、あっという間の10年でした。」

 

 

 

 

 

 

 

 

震災からの10年をそんな風に振り返る鈴木さん。
生涯学習センター前の広場は、かつて仮設住宅が並んでいた場所でもあります。
センターの隣にはボランティアセンターもあって…。
それが今は子供たちの遊ぶ声が聞こえて、
遠くの工場の煙突からは稼働を示す煙も出ていて。

 

鈴木「あれから10年が経って、仮設住宅で暮らしていた方々も高台に移ったり、
自宅を再建された方もいらっしゃいます。
前に進んではいるけれど、例えば海苔の生産者の方の数は震災前に比べて半分です。
しっかり歩みを止めずにいくしかないですよね。」

 

七ヶ浜町はその名が表す通り浜の町です。
自慢の海岸も2年前にはフルオープン。
昨年はコロナの影響で難しい状況となりましたが…。

 

鈴木「夏の海に人がいてこその七ヶ浜ですから。」

 

僕らはインタビューの後に近くに完成したという『海の駅 七のや』に向かいました。
七ヶ浜の海の幸を頂ける商業施設として、
地元の方々にとっても大切な場所となっているようです。
僕は生涯学習センターの図書室にいらっしゃった親子連れや、
センター前の広場で遊ぶ子供たち、そして「七のや」に来ているお客さんを見て、
なんだかとても嬉しくなったのです。
だってこれがきっと震災前にあった日常の姿だと思うから。

 

 

 

 

 

 

 

 

そうそう、ボランティアに参加した時の旅日記の最後に、
僕はこんなことを書いています。

 

『今回の旅ではYAJIKITAスタッフ全員がボランティアに参加し、色んな事を感じた。
そこには「1年が経過したとは言え、やる事が山積み」という現実もあった。
誰もが心のどこかで1年経てば、少しは前に進んでいるのでは?と考えるだろう。
しかし前には進めても、元に戻るにはあまりに時間がかかる程の被害を受けたのだ。
それが、東日本大震災という自然災害だったのだ。』

 

あれから10年。
勿論まだまだ沿岸地域の町づくりは終わりません。
だけど少しずつ、かつての被災地は震災前の日常を取り戻しています。
新しくなった町には賑わいが生まれ、笑顔が、幸せが、楽しさが戻っています。
今は世界中が新型コロナウイルスの脅威に晒されてはいますが、
どうかコロナが終息した暁には生まれ変わった沿岸の町に足を運んでください。

 

10年は時間の経過であって、決して何かの節目ではありません。
ですから勿論、僕らの取材はこれからも続けていくつもりです。
今回は特別番組という形で復活したKIKI-TABIですが、
皆さんに聴いて欲しい音、聴いて欲しい声は沢山あるんだ。
またいつかそんな音や声を皆さんにお届けできますように。

 

そして最後に、今回お世話になった方々にもう一言だけ。
震災から10年、大変な苦難の中での皆さん踏ん張りが今の町の姿かと思います。
本当に、本当にご苦労様でした。勿論これで終わりではないことは承知しています。
だけどあの時、10年が経過してこんなに素晴らしい町を取材出来るなんて、
僕らは思いもしなかった。それくらい復興は遠いものでした。
いま僕は皆さんの町の『未来』が、『これから』が楽しみで仕方ありません。
どんなバトンが次の世代に渡されていくのか、そのバトンはどうなるのか。
どうかここから先の町の姿も、少し離れたところからではありますが見せてください。
そしてこれからも、皆さんの事を応援させてください。

 

甚大な被害を受けた被災地を、
ここまでの姿に作り上げた皆さんを心より尊敬します。
コロナ禍の中で取材を快く受けてくださった全ての皆さんに感謝を込めて。
有り難うございました。