井門宗之、北の大地で大志を誓う!|旅人:井門宗之

2014-12-31

 

北海道で最も知られる外国人と言えば… 


ウーゴ・フェルナンデス!!…ではなく、
(厚別不敗神話言うてる場合か!) 


そう、言わずもがなのクラーク博士であります。
道産子のみならず博士の名言、 


Boys, be ambitious」はご存知の方も多いはず。
札幌の羊ヶ丘展望台にあるかの有名なクラーク像。
そうですそうです、腕を伸ばして大地を指差すアレ。
結構な数の方が、あの場所であの名言が生まれたとお思いかもしれませんが、
違います!違うんです!(羊ヶ丘の話はまた後ほど出てきますが)
あの言葉を残したのは札幌のお隣、現在の北広島市の島松で、
今その場所には「クラーク博士記念碑」が建てられています。
そのクラーク博士、札幌農学校の初代教頭として来日しますが、
農学校にいたのってわずか8カ月間なんですよね。
しかしながら博士の撒いた種は力強い根を張り、多くの学生に影響を与えました。

 

 

親分「どこかの道産子DJとは随分な違いだな。」

 

テツヤ「こっちの道産子Pにはカリスマ性が無ぇでやんすからね!」

 

井門「テツヤ、ちょっとこっちおいで飴あげるから。

 

(しばらくお待ちください)

 

さて、仕切り直してっと。
そんなに言うなら、新年最初のYAJIKITAは俺の故郷に行こうじゃないの!」

 

一同「ははぁ~~!!(平伏す)」

 

 

と言う訳で新年最初のYAJIKITAは私の故郷、北海道でございます!
井門がPに就任してから初めての北海道。略してIがPにSしてHHでございます。
何をテーマにしようかってなった時に、やっぱりクラーク博士でしょう!?となり、
だったらその足跡を辿りつつ「年の始めに大志を誓おうよ!」となりました、えぇ。

 

ロケの日は12月初旬でしたけど、新千歳空港に着いて外に出た瞬間…

 

 

一同「寒ぃっ!!!!!

 

 

なんでもこのタイミングで北海道を大寒波が襲っていたとか。
地元の友人も「いやぁ、お前凄い寒い時に来たなぁ。」なんて言う始末。

 

 

仏「おぉぉぉおおお…し・死んじゃうよぉおぉぉぉ…。」

 

 

仏の横山さんが本当の仏様になる前に、レンタカーを駆っていざ出発であります!
とは言え12月初旬の北海道にしてはあまり積雪がなく。
札幌にいたっては全く雪が無い。
それでも広がる広大な景色に一同溜め息が。

 

 

井門「(ふふふ。この広大な大地に育まれた事を少し羨ましがっているな…。)」

 

仏「いやぁ、広いねぇ~!」

 

親分「なんでこんな広い土地で生まれたのに、心の狭い男になったんだろうなぁ。」

 

テツヤ「本当でやんすなぁ!ちゃいちい男でやんすからなぁ!」

 

井門「テツヤ、ちょっとおいで飴あげ(ry

 

 

車を駆ること1時間。一同はついに札幌へ到着!
目指すは札幌駅の北側に位置する北海道大学であります。

 

 

 

 

 

 

実は北大構内にあるクラークの胸像こそが、歴史あるクラーク像。

 

 

 

 

 

 

僕も昔はよくお散歩やらデートやらで北大構内を散歩したものですが、
あまりこの胸像を意識した事はありませんでした。
しかしこのクラーク像こそが札幌市内で最も古いクラーク像になるんです。
他にも北大といえばのポプラ並木。

 

 

 

 

 

 

あぁ~、やっぱりこういう写真を見ると「北海道に帰って来た!」って気になります。
個人的には今年2回目の故郷、札幌。
昔住んでいた場所が北大のすぐ近くだったので、なんだか感慨深い。いや、泣ける(笑)
で、ですよ、何故にまず北海道大学の取材から始めたかって言うと、
勿論、クラーク博士が前身の「札幌農学校」の初代教頭だったからでありまして。
現在北大構内には学校の歴史を知る事が出来る「北海道大学総合博物館」があるんです。

 

 

 

 

 

 

随分と歴史ある建物で小林快次さんにお話しを伺いました。

 

 

小林「元々ここは北大理学部の本館として使用されていました。
1999年に博物館として出来たんですけど、
旧帝大にこういう博物館を作ろうという動きがあって完成した博物館なんです。」

 

 

 

 

 

 

聞けば札幌で一番古いコンクリートの建物なんだとか!?
そして元々は理学部地学チームが博物館の前身を作り上げたそうで。
だからでしょうね、研究的な要素が非常に強い。
実は先日札幌を拠点にするバンド「カラスは真っ白」にインタビューした時に(彼らは北大)、
この博物館の話になったんですが、彼らもここの資料を使って勉強しに来たりしてたとか。

 

 

小林「学生はよく研究の為に来ますよ。
北大はなんせこの広さです。 


クラーク博士が培った実学の精神は今も学生に受け継がれているんですよ。」

 

 

おっ、出てきましたね「クラーク博士」の名前。
マサチューセッツ農科大学の学長を務めていたクラーク博士。
日本政府の要請に応じて札幌農学校の初代教頭に就任したのが明治9年7月の事であります。
札幌は短い夏の盛り。博士がいたマサチューセッツと札幌の緯度はほぼ同じ。
ひょっとすると北海道の大地の香りは、博士の祖国と同じものだったかもしれません。

 

 

小林「博士が残した言葉や精神は沢山ありますが、 


博士が着任して初めて生徒達に言った言葉が“Be gentleman!”でした。」

 

 

それまでにあった校則は破り捨てたクラーク博士。
細かい校則など意味がない。「紳士であればそれで良いのだ。」と。
――紳士たれ。
クラーク博士のエピソードで面白いのはお酒に関してである。
生徒達の飲酒を見て、アメリカから持ってきた自分のワインを全て叩き割って、
生徒と一緒に禁酒禁煙を誓ったという。非常にストックな面を持っていた。

 

 

 

 

 

 

 

小林「ここには農学校時代のものも含めて展示品が揃っています。
物が持つ重要性、情報量というのがあります。
是非それを博物館に来て体感していただければと思っています。」

 

 

 

 

 

 

 

あっ、小林さんにこの博物館のオススメの場所を聞くと、
“アインシュタインドーム”という場所をご案内頂きました。
1階入口奥、吹き抜けの天井部分、
果物、ひまわり、フクロウ、蝙蝠のレリーフが東西南北に配置されている。

 

 

 

 

 

 

小林さん曰く、機能もデザインも昔の物は優れていると感じる場所だとか。
博物館に来た際はぜひ押さえておきたい場所であります!
北大構内で押さえておきたい場所といえば、もうひとつ! 


それがレストラン「エルム」さんです。

 

 

 

 

 

 

ここではなんと「クラークカレー」と言う名物カレーを戴ける。 


調理長の加藤人司さんにお話しを伺いました。
創業当時からの看板メニューだというクラークカレー。
北海道産の野菜にこだわった見た目も素晴らしいカレーです。
いや、まず見た目から良い意味で裏切られました(笑)

 

 

 

 

 

 

ライスの上に素揚げした野菜達がオ~ン!
パプリカ、ピーマン、ズッキーニ、ジャガイモ、茄子、ニンジン、ブロッコリー、
面白い具として豆のフリッター、そして存在感たっぷりの牛肉ロースト!!!
北海道の大地の豊かさをイメージさせてくれる見た目に、
トマトベースのカレーソースをかけていただきます!

 

 

 

 

 

 

くぅ~~~っ、旨いっっ!!!!!
トマトの柔らかな酸味の後に、しっかりとスパイスの香りが。
野菜も濃厚な味わいなので、このソースに決して負けていません。
むしろ互いを補い合う素晴らしさ!阿吽の呼吸がこの一皿に詰まっているんです。
「カレーはクラーク博士が寮の食事に加えた。」なんて話もありますが(恐らくは創作)、
このカレーをクラーク博士が召し上がったらきっと、 


アンビシャスじゃなくてデリシャス!と叫ぶに違いありません(おいおい)。
加藤調理長、レストラン「エルム」の皆さん、美味しいカレーを有り難うございました!

 

 

 

 

 

 

井門Pが20歳までを過ごした札幌。
この街を歩けば、どこもかしこも思い出だらけで涙が出ちゃいます。
個人的な話をちょっとだけすると、
僕が通っていた小学校は札幌市立大通小学校という名前でね。
まさに大通り公園の目と鼻の先にあったんです。
とは言え東西に長い大通り公園、どの辺にあったかっていうと西11丁目。
TV塔とは逆の方向です。
自転車に乗るまでは確かにTV塔の方は遠かったけど、
自転車という機動力を得た後はもうこの辺も遊び場でした。
しょっちゅう街中のゲームセンターなんかで遊んでたもんなぁ。
閉店しちゃうけど狸小路4丁目の「中川ライター店」なんて通いつめたもの。
エアガンやらミニG.I.ジョーのフィギュア、プラモなんかは必ず「中川ライター店」。
初めて買ったエレキギターはもう少し先の「吉田楽器」。
いわゆる変型学生服も狸小路のショップで買ったりしてさ(懐かし過ぎる)。
高校生になると、マルサ2、ピヴォ、プリヴィなんかで買い物して。
4丁目のロッテリアとか、その近くのモスとかよく行きましたよ、学生服着た井門少年は。
で、その辺りをウロウロしていれば必ず時計台が目に入ります。

 

 

 

 

 

 

時間になれば時を知らせる為に鐘も鳴る時計台。
ここ、一体なんの施設かご存知でしたか??

 

札幌農学校の「演武場」だったんです。 


その辺りのお話しは札幌市時計台の館長:門谷陽さんに伺いました。

 

 

門谷「元々は開拓の指導者を育てる為に札幌農学校は作られました。
クラーク博士はその最初の教頭先生だった訳です。
ただ当時はロシアからの圧力に対抗する為に兵学科もありまして、
その為の演武場がここ時計台なんですね。」

 

井門「今では時計台として親しまれているけど、
そもそもは兵学を学ぶ為の場所だったんですね!?」

 

 

エントランスを抜けると1階の広間に出るのだが、
ここなどは元々博物標本室として使われていた場所だったそうな。
今では札幌農学校にまつわる歴史展示が数多く並んでいます。

 

 

 

 

 

 

ここに僕の大好きな展示品がありまして。
高階哲夫さんが大正12年に作詞・作曲した「時計台の鐘」という曲があるんですが、
そのテスト盤の音源をここで聴くことが出来るんです。
なんとも大らかな曲でね、札幌の雰囲気、時計台の雰囲気をとてもよく表しています。

 

♪ 時計台の鐘が鳴る 大空遠くほのぼのと
静かに夜は明けてきた ポプラの梢に日は照り出して
きれいな朝(あした)になりました 時計台の鐘が鳴る ♪

 

何とも優しい気持ちになれます。
むか~しむかし、おばあちゃんが歌ってくれて、それを子供心に覚えているからかなぁ。
他にも札幌農学校を卒業した錚々たる顔ぶれのパネルなども。

 

 

 

 

 

 

門谷「札幌農学校が今の北大の場所に移転する事になった時、
この時計台は時を知らせる為に、そして文化の催しの為に遺そうという風になりました。
元々あった場所と少しだけズレるんですが、かつての農学校の敷地の中に残っているんです。」

 

 

 

 

 

 

門谷さんが文化の催しと仰ったが、
時計台は演武場としてだけではなく、札幌農学校生徒の入学・卒業式の場でもあったんですね。
それが2階のホールです。

 

 

 

 

 

 

ホールにはステージが設けられていて、ここに開拓のマークを象った大きなリースが。
実はこれ当時の卒業式のステージを再現したものだそうで。
ベンチに座って当時に想いを馳せるとまた違った気持ちになってきます。

 

 

門谷「上に演武場と書かれた額縁がありますでしょ?
あれは時の右大臣:岩倉具視が揮毫したものなんです。」

 

井門「岩倉具視と札幌農学校に、何か関係があったんですか?」

 

門谷「いえ、ここからは私の想像なんですけどね…。」

 

 

門谷さんはそう言って悪戯っぽく笑いながら、こんなお話しをしてくれた。
1871年に岩倉具視は欧米を岩倉使節団として訪れている。
使節団の目的は「条約改正への道筋をつける」というもの。
しかしこの旅はなかなか上手くは進まず、1年10カ月の間、欧米諸国を巡る事になる。
この1871年~1872年という時期が、
クラーク博士がマサチューセッツ農科大学の学長をしていた時期と被るのだ。
アメリカ文化の発展ぶりに岩倉具視が衝撃を受けたというのは有名な話。
恐らくはアメリカで多くの人間と接触している筈である。
岩倉が当時マサチューセッツに行き、
その際にクラーク博士と接触していても不思議ではないというのだ。

 

 

門谷「その時の縁でクラークが教頭を務めるなら…と、
このように揮毫したのかもしれません。
残念ながらそれを裏付ける資料はないんですけど(笑)
そういう風に考えると、繋がるんですよね。」

 

 

 

 

 

 

クラーク博士はここで何に悩み、どんな種を撒いたんだろうか。
実際この時計台が完成したのは明治11年だから、博士はその完成を待たずに帰国している。
わずか8カ月の間に、若者たちに与えた影響は計り知れない。

 

 

門谷「クラークは非常に厳しい人だったようで、
1期生は24人いたんですけど、どんどん落第させてね(笑)
実際の卒業生は10人程度だったそうですよ。」

 

 

ここにもクラーク博士の厳しさが滲む。
札幌農学校設立の目的は開拓の指導者の育成だ。
今までの教育ではなく、もっと自由な、
リベラルな中で自主独立の精神を育まなければならない。
広大な土地、北海道で活躍するにはそれ位、大きな人にならなくてはいけないのだ。
この場所で深く息を吸い込むと、当時の熱量に触れられる想いがする。

 

 

門谷「実は時計台って今も7割方が明治11年の姿のままで残っているんです。」

 

 

だからかもしれない。自然と気持ちがタイムスリップ出来るのは。
少しだけ時計が止まっていた時期もあるけれど、
今もなおここで時を刻む時計台、鐘の音は今も札幌の街に響いているのである。

 

 

 

 

 

 

門谷「井門さんの様に札幌に帰ってきた人がこの鐘の音を聞くと、
“あ~懐かしいなぁ”って言ってくれます。
それだけ札幌っ子にとって、日常にある音の一つなんでしょうね。」

 

 

今この時計台の時計は、門谷さん達がしっかりと守っていらっしゃる。
最後に門谷さんに聞いてみた。

 

――時計台のどんな所が好きですか?

 

門谷「夜の鐘の音が好きです。
演武場で農学校のことに想いを馳せながら(笑)」

 

 

 

 

 

 

クラーク博士ゆかりの地を巡る旅、最後は「さっぽろ羊ヶ丘展望台」。 


副支配人の三上慎一さんにお話しを伺いました。

 

 

 

 

 

 

そもそもここにクラーク博士の銅像が出来たのは昭和51年4月16日。
北大のクラーク博士胸像よりも新しいのだ。

 

 

三上「そもそもここは北海道農業研究センターという施設でした。
羊の群れも研究用として飼育されていたんです。
ところがここの眺めが素晴らしいというので、
研究施設であるにも関わらず観光客が集まり過ぎたんです。」

 

井門「それで展望台が出来たんですか?」

 

三上「はい!それが昭和34年のことです。」

 

井門「あれ??でもクラーク像が出来たのが昭和51年ですから、随分開きますね?」

 

三上「そうですね、ここにクラーク像が出来たのにも理由があるんです。
クラーク博士の胸像は北大にありますよね?
実はこの展望台の成り立ちと同じような事が起こりまして…。
観光客が北大のクラーク像を観にバスで北大に入ったりと、要は人が集まり過ぎたんです。
それで昭和48年に北大が観光客の立ち入りを禁止してしまいました。」

 

井門「でもクラーク像は大切な観光資源だったんじゃないですか?」

 

三上「そうなんです(笑)
そこでなんとかクラークの全体像を…という事で、
この場所にクラーク博士の全体像を作ることになったんです。」

 

 

羊ヶ丘が展望台になっているのも、
クラーク博士の銅像があるのも、全ては観光客が集まり過ぎたのが原因なのです(笑)
いやはや、さすが北海道というか何と言うか…。
因みに除幕式が4月16日というのも重要な意味があって、
クラーク博士がアメリカに帰国したのが4月16日に合わせたとか。
そして昭和51年から今まで(これからも)続くあるイベントが。

 

 

 

 

 

 

井門「何やら“大志の誓い”というのがあると伺ったんですが…?」

 

三上「はい、クラーク像の台座に投函口がありまして、
1枚100円で“大志の誓い”を購入頂いて、それぞれの誓いを書くんですね。
それをその投函口に入れていただくんですが、
御本人であればそれをいつでも閲覧する事が出来るんです!」

 

井門「それはクラーク像が出来てからずっと行われているんですか?」

 

三上「えぇ、ですから実際にご自分の誓いを閲覧された方もいらっしゃいますよ!」

 

三上さんのお話しを聞いて、早速チームYAJIKITAも大志の誓いを書き書き。
誓いの鐘を鳴らしてから、いざ投函!

 

 

 

 

 

 

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1952年5月26日
当時の東大総長である矢内原忠雄氏は「大学と社会」という講演でこんな発言をしている。
「明治の初年において日本の大学教育に二つの大きな中心があって、
一つは東京大学で一つは札幌農学校でありました。」
リベラルの中心が札幌農学校であり、もしこの教育が日本の中心となっていれば、
あの大戦は起こらなかったのではないかとも話しているのである。
それくらい、当時あの学校で行われた教育は先進的だった。
そしてその種を撒いたのは、間違いなくクラーク博士なのだ。

 

クラーク博士が札幌を離れる時、
現在の北広島市という所まで農学校の生徒は見送りに行きました。
一人一人と握手を交わし、馬にひらりと跨ったクラーク博士。
馬上から生徒達にかけた言葉は、もう有名ですよね。



【Boys, be Ambitious!】
(青年よ、大志を抱け!)



抱いた大志をどう羽ばたかせるかは、君達次第だ。
しかし、まずは志を抱かないと何も始まらない。
志は自分の意識を間違いなく高める。
確かに高い所に上がるのは、最初は怖いだろう。
しかし高い所からしか見えない景色は、必ずあるのだ。



恐れるな、青年よ。



高い所にいるという恐怖に打ち克つのは、
己が抱く【大志】そのものの大きさなのだから。