会津、什の掟と白虎隊をたどる旅|旅人:井門宗之

2015-08-27

 

 

これを書く前に4年前に会津若松を訪れた時の旅日記を改めて読んでみた。

震災の年の7月。当時ふくしまFMにいらっしゃった中村さんとの旅。

そこには印象的な言葉が沢山並ぶ。あれから4年が経っているのだ。

あの時と同じ場所。鶴ヶ城の美しさは全く変わらない。

 

 

 

 

 

 

今回の旅は改めてその会津で若くして散った白虎隊の足跡を辿る旅。

まずは白虎隊のみならず会津の若者の芯を作ったと言っても過言ではない場所へ。

 

それが會津藩校日新館

 

 

 

 

 

 

 

こちらでお話しを伺ったのは二瓶寛さん

有り難いことに僕のラジオをよく聴いてくださっているという。その話はまた後ほど(笑)

さてさて、日新館は江戸時代最大規模と言われた藩の教育機関。

会津戦争で焼けてしまったのだが、昭和62年に当時と同じ規模で完全復元されたという。

 

 

二瓶「日新館は会津藩の上士の子供が通った藩校です。

10歳で入学して、大体15歳まで。優秀な子は更にその上の大学へと進みます。

白虎隊の隊士達も勿論ここで学んでいました。」

 

 

日新館の敷地はおよそ8000坪と言われるが、

中庭をぐるりと囲む校舎の中心には孔子祀る大成殿がある。

日新館の教えとは儒教をベースにした教えなのだ。

確かに什の掟を読んでみるとそこには儒教をベースとした道徳観が浮かび上がる。

 

 

二瓶「生徒達は毎日この孔子様に頭を下げて、

学びの決意を心で唱えていたんだと思います。」

 

 

 

 

 

 

 

井門「そもそも日新館はどうして出来たんですか?」

 

二瓶「ここは1803年に完成したんですが、当時は天明の飢饉の頃です。

その頃、大きな藩政改革が行われました。その中の一つに学制改革があったんです。

当時はこんな大規模な学校を作る事に反対の声も上がったそうなんですが、

時の家老である 田中玄宰が“教育は100年の計である”と進言し、完成したんです。」

 

 

最も多い時にはおよそ1300人の生徒と200人の先生がいたという日新館。

儒教の教えである「忠義」を胸に、藩の未来を担うリーダー達が育っていったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

また日新館には日本で最も古いとされる水練場や天文台も。

 

 

 

 

 

 

 

二瓶「全然話が変わるんですけど、僕、井門さんをデビュー当時から知っているんです。

僕もまだ新人の頃で、ちょうどラジオから聞こえてきた井門さんに親近感を覚えて。

営業者で外を回っていたんですけど、ハンドル握りながら心の中で勝手に、

“井門さん、がんばれ!”って思ってました(笑)」

 

井門「うわぁ…それは嬉しいなぁ…そういうのって照れくさいですけど、嬉しいです!」

 

二瓶「それから部署が変わって3年位ラジオが聴けなかった時期があって。

で、3年経って再びラジオが聴ける環境になったんですよ。

そしたらラジオから井門さんの声が聞こえてきて…。

3年って凄いですね!井門さん、3年経ったら立派になられて…(笑)

心の中でまた勝手に“井門さん、頑張ったな!”って思いました。」

 

二瓶さん、本当に話が変わりましたけど(笑)

このエピソードは本当にラジオっぽいなって…なんだか胸が熱くなりました。

 

 

 

 

 

 

 

変わっては旧滝沢本陣

ここは戊辰戦争において白虎隊に出陣の命が下された場所。

本来であれば藩主のお側に仕える少年達に出陣の命…。

藩主の胸中はどんなものだっただろう。

こちらでお話しを伺ったのは横山操さんだ。

お歳を伺って驚いたのですが、なんと御年86歳だとか!とてもお元気なお母さんです。

 

 

横山「ここは参勤交代の時にお殿様が立ち寄る場所だったんです。

ここまでは馬でやって来て、ここからは籠に乗って江戸を目指しました。」

 

 

茅葺の趣のある家屋はもともと郷頭の家。当時は会津藩の米蔵が7つも建っていたとか。

聞けば築340年東北1番古い建物なんだそうです。

 

 

横山「それが戊辰戦争の時に本営になったんです。」

 

井門「ではこちらでも激しい戦闘が行われたんですか…?」

 

横山「いえ、新政府軍が攻め入る前に藩主もここを出ていったので、

ここでは戦闘は行われなかったんです。」

 

井門「でもには刀傷弾痕が残っていますが…?」

 

横山「これは荒ぶった新政府軍の兵士が刀を振り回して付けた傷と言われています。」

 

 

 

 

 

 

 

更に鶴ヶ城の杉の木に打ち込まれた大砲跡もこちらに保存されている。

 

白虎隊出陣当時、台風も来ていて天候は大荒れだったと伝わる。

その中での戦闘は凄まじいものだったに違いない。

改めて、出陣の場所で当時に思いを馳せる。

 

 

 

 

 

 

 

続いて向かった先は白虎隊最期の地、飯盛山にある白虎隊記念館

お話しは館長の早川廣中さんに伺った。

 

 

 

 

 

 

 

こちらの資料館は、戊辰戦争における会津藩の悲劇を後世に伝える為に、

昭和31年に創設された資料館である。中には貴重な展示品が数多く並ぶ。

 

 

早川「こちらの資料は子孫の方が納めてくれたものがほとんどです。」

 

 

 

 

 

 

 

戊辰戦争当時、会津藩の編隊は年齢によって分かれていた。

玄武隊50歳以上、青龍隊36歳~49歳、朱雀隊18歳~35歳、

そして白虎隊が16歳・17歳である。

白虎隊の若者達は上士の子弟であり、当時のエリート達。

戊辰戦争当時、年齢が満たず白虎隊の正式隊員にはなれなかった者達がいたが、

生き残った彼らは口ぐちに、

「あの人達に比べたら、自分はまだまだ…」と言ったという。

当時14歳だった山川健次郎氏や12歳で鶴ヶ城にいた池上四郎氏がそうである。

往時を偲ぶ展示品の数々に、若くして散った白虎隊の悲劇に思わず俯いてしまう自分がいた。

 

 

 

 

 

 

 

旅の最後は飯盛山。そう、ここは白虎隊が自刃した場所。

ガイドの大竹一永さんに案内してもらいながら、スロープを登っていく。

 

 

井門「これスロープコンベア使わないとキツそうですね(笑)」

 

大竹「えぇ、階段は183段もありましてね。

子供達は元気に昇ってますけど、スロープを使わないと相当ですよ(笑)」

 

 

確かにスロープコンベアの入口にあるスピーカーからは、

注意喚起をするようなコメントが流されている。

蝉の声がまだまだ元気な炎天下の中、白虎隊十九士が眠る墓に手を合わせる。

 

 

 

 

 

 

 

白虎隊士中二番隊の二十名は全員がここで自害したわけではない。

飯盛山を目指す途中で亡くなった隊士も存在する。

その魂も合祀し、ここには十九名が安らかに眠っているのだ。

 

 

井門「全員で二十名…ではないのですか?」

 

大竹「はい。一名だけ…飯沼貞吉だけが助かるのです。

飯沼はその後、通信技士として大成し、晩年に彼が語った白虎隊の話が伝わったのです。」

 

 

飯沼の話が伝わるまでは白虎隊はこの飯盛山から鶴ヶ城が燃えているのを見て絶望し、

それで集団自決したと伝えられていた。しかし飯沼の話によれば、

城は燃えているわけではない事は隊士は分かっていたという。

 

 

大竹「隊士の間でも議論になったようです。

ただ、生きて虜囚の辱めを受けずとの意見にまとまり、

新政府軍に捕えられるくらいなら、ここで覚悟を決めて武士として自決しようと。」

 

井門「当時まだ一六歳~一七歳の子達の覚悟がそこまでとは…」

 

大竹「それも彼らが受けた会津の教育が根底にあったのでしょうね。

武士としての生き方、そして死に方、彼らは最期まで武士として生きたのです。」

 

 

ちなみに飯沼の墓碑も1957年に飯盛山に建てられる事となる。

 

 

 

 

 

 

 

大竹「白虎隊の精神に感動した諸外国から送られたものも、

こちらには置かれているんですよ。そちらがイタリアから、そちらがドイツからです。」

 

 

 

 

 

 

 

なんとイタリアからはムッソリーニからポンペイ遺跡の柱が贈られたという。

白虎隊の悲劇はヨーロッパ人の心をも動かしたという事なのか。

 

 

会津若松市内を一望出来る場所。

そこがまさに白虎隊自刃の地である。

 

 

 

 

 

 

 

当時は鶴ヶ城よりも高い建物は無かった。

ここから臨む戦火の中にある街の姿は、若き白虎隊の隊士の目にどう映っただろう。

 

 

井門「そもそもどうして、白虎隊はここまで人の心を震わせるんだと思いますか?」

 

大竹「今の時代、信や義、そして誠という精神が日本人に欠けていると思うんです。

白虎隊の精神にはその人間が本来持っている心が詰まっている。

だからこそ現代においても白虎隊がここまで支持されるのではないでしょうか?」

 

 

 

 

 

 

 

教育は百年の計

今回の取材を通じてこの言葉を痛感した。

藩を憂う心が彼らを奮い立たせ、故郷を、徳川を守るために立ちあがったのだ。

もちろんその結果は悲しいものとなってしまったが、

今の日本人に必要な事を、歴史は教えてくれている気がするのだ。