リアス線開通!8年ぶりに列車が走るまち|旅人:井門宗之
2019-03-07
皆さんの町に鉄道はありますか?
電車の音は今日も響いていますか?
僕らが三陸鉄道に初めて乗車したのは震災の翌年、北リアス線を取材した時。
その後、南リアス線が開通した時もお邪魔して、でも確かあの時はまだ全線開通前でした。
震災以降、沿岸で暮らす方々も鉄道で働く方々も、
その開通を心待ちにしている声は本当に多く、
だからこそ2019年のこのニュースは僕らにとっても本当に嬉しいニュースだったんです。
三陸鉄道久慈~盛間163kmの全線開通!
三陸鉄道の北リアス線と南リアス線の間には旧JR山田線の区間があり、
この宮古~釜石の55.4kmは震災で被災し永らく不通となっていました。
その区間が三陸鉄道に移管され、ついに今年の3月23日に運行を開始、
3月24日には営業運行が再開されるのです!!沿岸がいよいよ1本で繋がるんです!!
三陸鉄道の駅として再開するのは15の駅。
今回はその駅の沿線で暮らす方々の声をお届けします。
タイトルは『リアス線開通!8年ぶりに列車が走るまち』。
三陸鉄道の駅舎はなんとも風情があって僕は好きなんだけど、
三鉄のカラーの車両も好きなんですよね。
僕が担当する生放送でも岩手のバスツアーの時にリスナーさんと乗ったなぁ。
今回インタビューの機会を頂いたのは釜石駅長・山蔭康明さん。
なんと三鉄開業の時から三鉄一筋で働く鉄道マンなのです。
それだけに今回リアス線が1本で繋がることに感慨もひとしおの様子。
静かに、ひと言ひと言を噛みしめながら質問に応えてくださる姿が印象的でした。
山蔭さんの言葉に僕は三鉄マンの気概と誇りみたいなものを感じたんだよな。
山蔭「今までのリアス線も数年前に再開はしていますが、
今回はその間の旧JR山田線の区間の再開という事で、
地元の人達が凄く期待しているのが伝わってきます。
我々としても、その期待に応えるには走り続けなければなりません。」
井門「僕らも何度か試運転の列車は見かけたんですけど、
もう駅長も乗られたんですか?」
山蔭「はい、何度か試運転には乗りました。
三陸鉄道の車両が線路を走るとね、線路沿いの職場の方、住民、
下校中の小学生が手を振ってくれるんです(笑)
それを見ると…感じるものはありますよね…。」
僕らも取材中に地元の小学生(1・2年生くらい)が下校している姿を見かけました。
その小さな頼りない背中を眺めながら、
そうか、この子達は既に震災を知らない世代なんだって思って感慨深かったのです。
当然、地元の子供の中には地元を走る電車の姿を知らない子だっているわけで。
その子達が線路を走る三鉄に向かって一生懸命手を振る。
三陸鉄道に携わる人間にとって、こんなに胸が熱くなる光景はないんじゃないだろうか。
今回運行を再開する区間は釜石~宮古間の55.4km。
南リアス線・北リアス線の区間と合わせると、何と163kmの長さにもなります。
永尾「これって一気に走る電車もあるんですか??」
山蔭「ありますよ。一日に数本ですが、一気に行く便もあります。
時間にすると4時間半くらいかかりますけどね。」
今後のイベントなどを色々と調べてみると、
岩手県は3月21日から『いわて幸せ大作戦』というキャンペーンを11月10日まで行う。
その中でも三鉄は色々な企画も行うようなので、
旅の計画を立てている方は事前に三鉄のHPをチェックする事をオススメします!
井門「これまでの8年、本当に長かったと思います。
南北リアス線の復旧、そして旧JR山田線の復旧。
山田線の区間は正直赤字路線とも言われていたと思いますが、
それでも三陸鉄道が手を挙げた理由は何だったんですか?」
山蔭「東日本大震災発生の二日後には沿線の様子を見に行きました。
社長も含め我々職員に住民の方が聞くんです。
“三鉄はいつから走るんだ?”と。
その時の皆さんの声を聴いて、あぁ、これは待ってるんだなと。
そこからすぐに決断して徐々に区間を延ばして鉄道を再開してきました。」
井門「それは山田線の区間も同じだとずっと感じていたって事ですよね?」
山蔭「鉄道に関して地元の皆さんの想いが強いんです。
だからこそ、地元でやってきた我々がやるしかない。
我々が手を挙げるしかないという想いでした。」
山蔭さんのお話しを伺った後、僕らは三陸鉄道釜石駅のホームに立っていました。
まだ取材の時は盛から釜石までの区間で、
ホームに続く道を歩きながら山蔭さんも、
“看板も掛け替えなきゃいけないんです”と笑ってました。
盛駅から釜石駅までだった南リアス線も、ここから先に延びて行くんですもんね。
いよいよ3月23日にはここ釜石から宮古までの区間が再開し、
その先の久慈まで沿岸が鉄道で一本に結ばれるんです。
三陸鉄道のシンボルカラーは3色。
「三陸の海」の青。
「鉄道に対する情熱」の赤。
「誠実」を表すアイボリー。
海への誇り、鉄道への情熱、誠実さへの決意表明。
そんな想いを込めたシンボルカラーの車両がいよいよ、三陸の沿岸を駆け抜けていく。
そこに暮らす地域の人の想いを乗せて。
三陸鉄道の各駅にはそれぞれの地域の特色を表す愛称が付けられています。
勿論運行を再開する釜石~宮古間の駅だって然り。
公募で決まったそれぞれの愛称はなんとも親しみやすいのです。
僕らが続いて向かったのは釜石から3つ目の大槌駅。
井門「ここは“鮭とひょうたん島のまち”という愛称が付けられているんですね!」
“ひょうたん島”というのは大槌のシンボルで赤い灯台が目印の島。
僕らが新しい駅舎の前に車を停めると丁度試運転の電車が通ってきた。
井門「おっ、試運転の電車だ!」
橋本「ちょっと行ってきます!」
永尾「今回は試運転の電車をよく見かけるね!」
吉武「持ってるでゲスなぁ。」
電車が通り、踏切はカンカンカンという音を鳴らしている。
当然の景色。でもこの当然の景色は8年間失われたままだったのです。
震災で多くを失った大槌の町。
僕らが初めて大槌を訪れたのは震災の翌年でした。
当時取材した復興食堂は、既にその役割を終えて閉店しています。
あの時の旅日記には『現在は大槌に宿泊施設は無いのだが(震災でだめになってしまった)、
それが完成すれば少しこの町で商売する人も潤うだろう。』と書かれていて、
その時からすればこの町の変化はどうでしょう?
新しい家が建ち、商売をするお店も沢山ある今の大槌の景色。
この変化する大槌の8年間をひたすら突っ走ってきた漁師さんがいます。
それが佐々木正志さん。
僕らは佐々木さんの漁船の前をお借りしてインタビューを行いました。
佐々木「あの津波で町の状態も大変でしたが、
海の方も養殖は壊滅しました。そんな中で漁に出たのは6月か7月。
何が一番先に再開出来るか考えた時、出てきたのはワカメだったんです。」
井門「そこから始めて今はホタテや牡蠣も再開しているんですよね?」
佐々木「避難所のじいちゃん達に当時言われたんですよね。
ワカメも良いけど牡蠣も食べたいんだって。
それなら取り敢えず早くやってみようと。」
まさに三陸の漁業は震災後マイナスからのスタートでした。
津波で港も壊滅し、船を失った漁師さんも多い。
勿論尊い命を失くした漁業関係者も沢山いらっしゃったのです。
そんな中でも佐々木さんは瓦礫の中から使えるものを探して、
なんとか養殖を再開させていきました。
佐々木「当時はこんな状態で養殖が出来るのかという感じでした。
そこから養殖組合も設立して頑張ってやってきたんです。
昔は養殖業者も沢山いましたが、今は7、8人ですかね。
それでも大槌の海産物のブランド化を目指して、帆立も牡蠣もやってます!」
大槌の海を見続けてきた佐々木さんの8年。
佐々木さんは仰います。
佐々木「あっと言う間で突っ走り過ぎた(笑)」
実は震災以降、津波が影響して海の水質が変わったと佐々木さんは言います。
そのキーワードとなるのが『海底湧水』。
いわゆる海の底からミネラルたっぷりの湧水がこんこんと湧くのだとか。
その栄養豊富な水のお陰か、ホタテも牡蠣も震災後の方が評価が高くなったのです。
佐々木「震災直後は避難所の子供たちが作業を手伝ってくれてね。
美味しいものを食べさせてと言われた。それが原動力となりました。」
そんな佐々木さんには頼もしい甥っ子がいます。
今回佐々木さんのインタビューをする事になったのも、
永尾Dが甥っ子さんを先に取材していたから。
甥っ子さんは佐々木さんの背中をみて漁師に憧れ、追いかけました。
佐々木「学校を出てすぐに漁師になりたいというから、
それはやめろと言ったんです。一旦外に出て他のところで勉強してこいと。
今は20歳そこそこで、外で働いてるんですよ。」
震災から8年。きっとこれが8年という月日がもたらしたものだと思うんです。
甥っ子さんは震災当時中学生くらいだったはずで、
その時に獅子奮迅の活躍で大槌の海を守ってるおじさんを目の当たりにしたんだ。
そりゃあ思いますよね、誰もがうつむき加減にならざるを得なかった時に、
先頭に立って力強く進むおじさんの姿を見て“かっこいい”って。
井門「佐々木さんの背中に憧れたんですよ!」
佐々木「正直な話、嬉しかったです(笑)」
今の大槌の町の姿は、若い世代が夢を描くのに十分だと思う。
町の姿が戻り、漁業が戻り、鉄道が戻った。
若い世代だけじゃなく、町の人にとっての希望が今の大槌の姿。
佐々木「震災後、8年経って大槌はこんだけ変わった。
ここに来た人達に大槌って良いとこだよねって言われるような町にしたい。
なんかクセになんだよね大槌のホタテって。
海っていうのは、漁師の全てだね。」
続いては釜石駅から8つ目の陸中山田駅へ。
思えばこの旅の行程はかつてのYAJIKITA時代の行程に似ている。
あの時も大槌から山田町に来たんだっけ。
でもあの時は山田町だった場所には何もなくて、
復興牡蠣小屋にお邪魔して地元のお母さんが剥いてくれた殻付き牡蠣を夢中で食べた。
あれが震災の翌年、2012年のこと。
それからだって7年。僕らは山田町に新たに出来た駅舎の前にいた。
僕はこの山田駅の駅舎から見える町の景色を見て、正直泣きそうになりました。
だってここは、震災の被害で本当に沢山のものを失った町だったから。
当時沿岸を車で走らせると町の様子は堆く積まれたいわゆる瓦礫の山で。
その後、基礎だけになった土地が広がっていき、そこから盛り土がされていき、
徐々に徐々に姿を変えて、そして今の風景なんです。
駅は海から少し内陸に入った場所にあります。
そしてここからは海側に建てられた防潮堤の姿も見る事が出来ません。
何故なら沢山の建物があるから。
商業施設があって、銀行があって、街灯に電柱が建ってて、沢山の人が歩いていて。
そして僕の後ろには営業を控えた陸中山田の駅舎が建っている。
昆「ほんとに8年でこんなに新しい街が出来たのかって驚きますね(笑)」
そう話すのは、新生やまだ商店街を引っ張ってきた昆尚人さん。
ご自身も商店街で写真屋KONを営んでいらっしゃいます。
この新生やまだ商店街は国道45号線沿いに出来た商店街。
昆さんは震災直後、時間のかかる鉄道の再開を目指すんじゃなく、
町の賑わいを取り戻す事が先だと、この商店街を仲間と共に作りました。
昆「まさにマイナスからの立ち上げでしたから…。
皆の協力でここまでやって来れたのかなと思います。」
そんな風に話す昆さんですが、
町の復興を進めて行く中でご自身の気持ちが鉄道の再開に動いていったそうです。
昆「まずは国道の賑わいをと思って始めたんですけど、
時間がかかっても鉄道が必要だという意見もあって。
なんでなんだろうと思った時に、こんな話を聞いたんです。
バス停は地図には載らないけど、駅は地図に載るって。
そうか、それかと。
山田町を内外に示すには鉄道が必要なんだと思ってから、賛成に気持ちが傾きました。」
昆さんはかつてこの町に鉄道が通っていた時代を知っている方です。
そんな世代にとって、8年経っての鉄道再開には強く想うところもあるようで。
昆「いま試運転中じゃないですか?
実はその第一便をカメラ構えて待ってみたんです(笑)
そしたら目の前で汽笛の音でしょ?ガタンゴトンっていう線路を走る音に、
踏切のかんかんかんって音がしてくる。いや、凄く懐かしくてウルっときました(笑)」
昆さん達が作り上げた国道沿いの新生やまだ商店街の賑わい、
そして新しく駅前に出来る商店街の賑わい。
山田町はこの二つの賑わいが相乗効果になって、より元気な町になっていくのです。
車で来るお客さんの玄関口は新生山田商店街が受け入れ、
鉄道で来るお客さんの玄関口はあちらの商店街。
今は宿泊施設もある山田町は多くの方の受け入れも整いつつあります。
そうそう、今回はね、僕らも山田町に宿泊したんです。
山田町の居酒屋で飲んで、山田町のスナックに行って(笑)
かつての山田町の姿を知る永尾Dと何度も話しました。
井門「ね、山田町に泊まれる日が来るなんてね!」
永尾「ほんとだよ!あの時からじゃ考えられないもん。」
因みに夜の山田町は物凄く賑わっていました。
スナック何軒も満席で入れなかったんだから(笑)
でもこういう賑わいが嬉しいです。本当に。
昆さんも仰ってましたが、一つだけ昔と違うのは防潮堤。
でもこの防潮堤がある姿も、きっと今の山田にとっては大切な事なのかもしれません。
僕らは昆さんの勧めで新生山田商店街の裏側にある御蔵山に登ってみました。
ここから見渡せるのは、新しい山田町の姿。
そして震災からここまで、この町を復興させようと必死に頑張ってきた人の歴史。
続いては釜石駅から11個目の駅、津軽石駅。
ここには昔から地元の人達のお腹を満たしてきた食堂があります。
それがひろや食堂。我々は御主人の木村広義さんにお話しを伺いました。
木村さんがこの地にお店を始めたのは昭和50年代。
当時は店の隣を耕運機が走るくらいののどかな場所で、
木村さん御自身も“ここで店やるって言って皆びっくりしてたよ!”と仰るくらい(笑)
ただそれまで船の上で料理人をやられていたそうで、
船を辞めたらのんびり暮らそうと思って始めた食堂だっただけに、
この場所は最適だったのかもしれません。
しかしそんな木村さんのひろや食堂も震災の津波で甚大な被害を受けてしまいます。
木村「あの時の津波で食堂も家も流されたの。
なんにも無くなって、それでも食堂を再開したのは…翌年の3日だったかな?
皆に早くやってくれって言われたんでね(笑)」
井門「どんなお気持ちでしたか?」
木村「いや、津波で食堂も流されたから、
ようやく定年退職出来るとおもってホッとしてたんだけど(笑)
2~3カ月経ってみるとする事が無くなってなんとも退屈になっちゃって。」
井門「それだけ料理をするって事が木村さんにとっての生きがいだったんですかね。」
木村「それで丁度いい機会だから東京の製麺所で修業をしたの。」
井門「えっ!?」
木村「ほら、時間はあったから。
で、そこの製麺所で製麺の機械を買って送って貰ってさ。
食堂の隣に製麺所を造って、自分達のとこで麺を作る様にしたの。
自分の所で麺が出来るから、ワカメの粉を麺に練りこんでね。
それでワカメラーメンを作ろうって。」
なんだろう…木村さんのマイペースなんだけど信じられないバイタリティ(笑)
きっと元々の常連さん達もびっくりしたと思います。
震災後にお店が復活するのも嬉しい驚きだけど、
更に再開したひろや食堂は製麺所を作って麺が格段に旨くなってるんだから(笑)
でもだからこそ、この地で40年以上も営業を続けられる訳です。
井門「お店を維持する秘訣はなんですか?」
木村「味が良いってことに尽きます。
味がよくなきゃ誰も来てくれないでしょ。」
確かにそうなんだけど(笑)でもそれをちゃんとこなす事の難しさって。
そして僕らはその味の良さを身を…いや舌をもって体験しました。
頂いたのは“あんまり頼まれたくない”焼肉ラーメン(笑)
更に“あんまり頼まれたくない”エビフライ定食(笑)
そして空気を読まない井門Pは“絶対美味しい”とカツカレーを頼み。
名物のワカメラーメンも頂きましたがやはり喉越しも味わいも最高。
そうして僕らが取材を終えてお昼を食べていると、
開店直後にも関わらず沢山のお客さんが暖簾をくぐります。
あぁ、やっぱり間違いない味があれば、どこでだってお客さんは来るんだなぁ。
木村さん、本当に美味しかったです!
貴重なお話しと美味しい御飯を有り難うございました!
僕らの旅のエンディングは三陸鉄道宮古駅の前でした。
震災から8年、ついに沿岸を一本で結ぶ三陸鉄道。
その遠路沿いの町で暮らす方々の喜びは、本当に大きかったです。
一歩ずつ変化していく町の姿にも胸が熱くなりました。
ただしかし、まだまだ終わらないんです。
鉄道が再開して、ここから始まる町の方が多い。
だからこそ、皆さんで東北を応援しに行きませんか?
これから三陸鉄道が再開し、格段に沿岸の町に行き易くもなりました。
震災直後に沿岸に手伝いに行った方、あれからの景色を久々に見に行ってみませんか?
もし震災直後の風景しか知らなくて、今の三陸の風景を見たら、
僕はきっとその変化と町の人の様子に涙が出ると思います。
あの時に流した悲しみの涙じゃなくて、
8年で変化した町の様子に流す喜びの涙。
震災から9年目の春を迎える東北を、笑顔で見に行ってみませんか?