デフ・レパード!ヒステリア!

2010-07-10

ヒステリア

鹿児島のシャリマール2002さんからのリクエスト!

『悲劇の狭間の奇跡!
 DEF LEPPARD“ヒステリア”特集』。

1987
リリース。全世界で2000万枚以上を売り上げた
文字通りのメガ・ヒットアルバム『ヒステリア』。
幾つもの悲劇と奇跡に彩られたまさに珠玉の名盤です。    

M
        ANIMAL    /    DEF LEPPARD   

1曲目にお送りしてたのは、
1987年リリースのそのアルバムからの
セカンドシングル『アニマル』。

80
sを強烈に主張する、ラウドで均一なドラムサウンド。
やりすぎな程のコーラスの分厚さ。
そして、デジタル録音のハシリ!
で、まぁとにかくハイファイな音作り。
これも、時代の音、ですよね。

明るいポップロック!
理屈抜きに楽しいサウンド!
何の悩みもなく創られたような曲ですが、
この作品が完成して、そしてヒットするまでには、
幾つもの困難が立ちはだかっていました。

M
 ARMAGEDDON IT    /    DEF LEPPARD 


2曲目にお送りしたのは、
1987年リリースのそのアルバムからの
何と5枚目!のシングルで、全米トップ3に入るビッグヒットナンバー:
アーマゲドン・イット。

アーマゲドンと、ハルマゲドンはいいながら、
まったく地球滅亡の歌ではなくて、
Im getting it
“アーマゲドン・イット”とモジっただけの駄洒落ソングです。

これが、日本に渡ると“空耳ソング”となって、タモリ倶楽部でも
大フューチャーされましたね!
“アーマゲドン・イット”が、『海女、ゲリで』という風に
空耳になっちゃいました。

さてさて、デフ・レパード。
1970年代後半にイギリスで結成されて、SAXONIRON MAIDENなどと共に、NWOBHMの中心として、イギリスのHMブームの代表格として
認知されていました。

ただ、はじめから彼らはイギリスのマーケットよりも、
アメリカを強烈に意識して、
アメリカ、そしてワールドワイドでの成功を
夢見ていました。
当時のシングルは“ハロー・アメリカ”ですからね。
当時、イギリスのHMファンからは、相当なブーイングを受けていたそうです。

そんな彼らの夢が一気に叶ったのが、1983年リリースした3枚目のアルバム
『炎のターゲット:パイロマニア』。

AC/DC
を手がけるジョン・マット・ランジというプロデューサーと
共に仕上げた
緻密でポップで、でも陳腐ではない高品質のロックは、
一気にアメリカで大ヒット。

あのMJのスリラーが居座っていたために、ナンバー1は獲得出来ません
でしたが、
全米で2位。そして、アメリカだけで結局1000万枚以上を
売り上げる、という
快挙を成し遂げて、
アメリカで最も人気のハードロックバンドに成り上がりました。

 

M.  ROCKET    /    DEF LEPPARD     

1987
年リリースのDEF LEPPARDのメガヒットアルバム
『ヒステリア』からの
7弾シングル“ロケット”をお送りしました。
12曲入りのアルバムで、第7弾シングルって(笑)。
アルバムがどれだけヒットしたかが分かりますよね。

さて、
1983年の3枚目のアルバム『炎のターゲット』で
爆発的にブレイクした彼ら。
意気揚々と、次回作の制作をスタートさせました。1984年のことです。
まぁ、この勢いを逃さない為にも、すぐに次のアルバムを出したい
ところですもんね。

しかし、プロデューサーを変更した悪影響で、楽曲制作は難航。
高額なスタジオ費用だけを浪費する日々に陥ってしまいました。
しかも、1984年の年末には、何とドラマーが交通事故を起こして
左腕を全て切断。
1985年はじめに、バンドは完全にストップしてしまいました。

ただ、ここからが彼らのバンドの絆の凄い所です。

左腕を失ったドラマーを解雇することなく、リハビリを待って、
右手だけで演奏できる特別のドラムキットを作成して、
ドラマーを復帰させるんですね。
プロデューサーには、再び盟友のジョン・マット・ランジを引き戻して、
3年の月日をかけたレコーディングを完了。

 
1987年の夏に、4年ぶりのフォースアルバム『ヒステリア』を
リリースしました。

ただ、問題がまたひとつ。

3
年以上という常軌を逸したレコーディング期間での莫大なコストが、
彼らとレコード会社のサイフを圧迫。

アルバムが200万枚売れても赤字!という、
とんでもない懐事情となっていました。

そんな中、リリースしたアルバムは、4年!というブランクがたたって、
ぜんぜん売れません。
<まぁ、その間、BON JOVIRATTMOTLEY CRUEなんかが
 大ブレイクしていましたからね。主役が変わってたわけです。>

ファーストシングル“ウィメン”も全くダメ。
セカンドシングル『アニマル』で、ようやくイギリスで火がつきましたが、
アメリカではまだ全然ダメ。やばい!!!という中でリリースした
次のナンバーが、
アメリカのストリップクラブでOAされまくって、
ついに、導火線に火がつきました。

 

M  POUR SOME SUGAR ON ME  /    DEF LEPPARD 


そう。全米2位のシングルヒット“シュガー・オン・ミー”です!
危機的状況を救った4枚目のシングルですね。

このヒットのお陰で、アルバムはアメリカで飛ぶように売れていきます。

さて、そんな中、6枚目のシングル『LOVE BITES』では、
ついに彼らにとっての最初で最後?の全米ナンバー1を記録。
アルバムは、リリースから1年以上経ってから、やっとのこと1位!
となりました。

200万枚売れても赤字”

と言われたアルバムは、結局全世界で2000万枚を超えるセールスを記録。

様々な悲劇と危機から、バンド:DEF LEPPARD
不死鳥のように蘇ったんですね。

でも実は、この後に、中心メンバーのギタリスト:スティーブ・クラークが
亡くなってしまう、という更なる悲劇が彼らを襲うことになるんですが、
それはまた後の話。

とにもかくにも、
1980年台後半。ラジオはデフ・レパードのOAで
溢れていました。
同時に、BON JOVIGUNSNROSES
MOTLEY CRUESKID ROWなどの
ハードロック、メタルシーンが台頭。

NIRVANA
の登場までは、こういったサウンドが
ロック界の中心、となるんですね。 

M
   LOVE BITES    /    DEF LEPPARD