日本橋架橋100周年 日本橋で江戸の面影を探る旅|旅人:井門宗之

2011-04-02



YAJIKITAの新年度を迎えるにあたり、まずこの場を借りて一言だけ失礼致します。
この度の東日本大震災で被災された皆様に心よりお見舞いを申し上げます。
そしてお亡くなりになられた方々とそのご家族の皆様に、謹んでお悔やみを申し上げます。
この番組でも過去に被災地となった県を幾度となく取材させていただきました。
YAJIKITAとして我々がお伺いするには、まだ時間はかかるかもしれません。 


しかし、これだけはお約束します。 


いつか被災地が元気な姿を取り戻した時に、我々は必ずその地を訪れ、
全力で全国の皆様に再び取り戻したその明るい姿を御紹介します。
そしてそれまでは、まだ知らぬ様々な土地の魅力や歴史をしっかりとお伝えしていきます。 


この国の文化、歴史、景色、人、その素晴らしさと美しさを伝え続けていく事こそ、
この番組の使命であり、進むべき最良の方法だと、我々は考えたのです。
目を閉じて、音に心を委ねて想像するだけで、人はどこにだっていけると信じています。
どうか今年度も引き続き、この番組を通じて、旅を耳で感じて戴ければ幸いです。 

 

YAJIKITA ON THE ROAD プロデューサー:井門 宗之

 

 

 

新年度最初のYAJIKITA ON THE ROAD。
この一歩目をどう踏み出すか、かなり重要であります。
しかも新年度から初めてこの番組を“気まぐれに聴く”という稀有な方もいるかもしれない。 


どうでしょうか、やはりFMのイメージは、 


お洒落な音楽”と、“英語まじりの小粋なトーク”であります。 


それがこの番組にチューニングを合わせた途端、 


ほとんどトーク”と、 


溜め息混じりのオッサンのつぶやき”…。

 

あっ、冗談ですよ。美香さんの素敵なナレーションが一服の清涼剤だったりもします。
しかも旅人は井門ばかりって事もないですから(前回はアイドルでしたね)。 


ただし皆さんが期待している通り、新年度はP自らが旅人となって、
リスナーの皆さんに威厳の全くないラジオプロデューサーの姿をお見せしたい!
…というのは半分冗談で、是非4月の最初は僕が旅を担当したかったのです。
実は2月のある日、この番組の軍師の一人でもあるメルシー久保氏から気になるメールが届きました。

 

 

メルシー「4月にある橋が架橋100年なんだよね。YAJIKITAっぽいでしょ?」

 

 

おぉ、流石ネタの宝庫。
ネタの総合商社と言われて久しいメルシー久保氏!(←僕は、す●き●ね●かいっ!!)
我々【ヤジキタ】の名に相応しい場所が、このタイミングで100年なら行きましょう!
という事で、新年度の1・2週目のYAJIKITAはある橋にスポットを当てました。

 

さてさて、今更なんですがこの【ヤジキタ】の名前の由来は御存知でしょうか?
良いですか? 最近ヘビーリスナーさんも増えてきたYAJIKITAでございます。
いずれYAJIKITAの歴史を試験に出す企画なんかも登場した時に出ますよぅ。
ヤジキタが何から名前を取ったのか、そういやこの旅日記でも話した事なかったなぁ。

 

僕がこの番組に出会った8年前には既に名前もスタイルも完成されていた【ヤジキタ】。
番組タイトルの由来は一説には前のPでこの番組を立ち上げた木多氏の名前を付けた…、
なんて言う風にも都市伝説的に言われておりますが、そうぢゃない。
Pの名前を付けて良いのであれば、もう5月からこの番組のタイトルは、

 

 

 

YAJIKITA 門 THE ROAD!

 

 


に…はしないから安心して下さいね(ますます何の番組か分からなくなります)。
違うのです、そういう話ではなくてタイトルの由来。 


【ヤジキタ】は御存知、江戸時代の作家:十返舎一九が書いた【東海道中膝栗毛】からきています。
この物語は、主人公の弥次郎兵衛喜多八が、江戸から伊勢神宮を目指して旅をする旅物語。
膝を栗毛の馬に見立てて、一生懸命徒歩で旅をするので【膝栗毛】というのであります。 


この弥次郎兵衛と喜多八が縮まって「やじさん、きたさん」と呼ばれているのですが、
旅番組を始めるに当たって、日本全国津々浦々をこの二人の様に珍道中で楽しく廻りたい、と。
そしてこの二人の物語の様に長く愛される番組でありたい、と。 


そんな願いがタイトルに込められているわけなのです。(…で、良いよね?スタッフの皆さん…?)
今回メルシー久保氏が持ってきたネタが、ぢゃあ何でこの番組っぽいのか?
先にネタバレいっちゃいましょう! 今回ヤジキタが取り上げる橋は…、

 

 

 

 

日本橋(にほんばし)!!

 

 

 

 

大阪にあるのが日本橋(にっぽんばし)、これに対して江戸にあるのが日本橋(にほんばし)。
そうなのです、天下の日本橋が架橋100年を迎えるってんで、ここが今回の旅先。
ではヤジキタとの関連性は? と聞かれると、東海道の起点がここ日本橋だからなのです!
かの「やじさん、きたさん」の旅もここから始まったのですね。 


ここ日本橋は天下の大橋、天下の名橋!
江戸時代から数えると20代目となるこの橋は、代々この地に架かり、
時代と人と江戸(東京)を眺め続けてきたのです。
明治時代に入りそれまでの木造の橋から石造りの橋へと建て替わった日本橋。
石造りになってから100年の節目が、今年だというのなら、
YAJIKITAでも取材せねばなりません! いざゆかん、日本橋へ!

 

…とまぁ、勢いよく企画は考えられたのですが、
いざ日本橋の取材ともなると贅沢な悩みが出てきます。

 

 

 

老舗、多っ!

 

 


関連HPなんかを様々見ていても、創業100年のお店なんてのはザラ。
間違いなく江戸の中心地であったここには、代々お店を構える老舗が本当に多い。
となると、贅沢な悩みというのは【どこを取材しても面白そう】という事なんですね。
いや、大体がYAJIKITAで取り上げる場所は何かしら面白さで詰まっているのですが、
日本橋の場合は隣り合う店同士の歴史が足すと500年とか、そんなのも出てくる。 


久保氏、悩みました。 


ただし、悩んで出て来た答えも、いかにもYAJIKITAっぽい。
今回は、日本橋架橋100周年! 日本橋で江戸の面影を探る旅に決定!!

 

 

 

 

 

























取材日は快晴。 


今回の旅はYAJIKITAが誇る“ぶらりのプロ”が集まっております。
作家は勿論、軍師:久保氏。Dは仏の横山氏。
カメラマンはチョンマゲ古田くん(このところ慶吾より出番が多いという噂も)。
そして旅人は御存知、最近「龍馬伝」を観始めた、井門P。(←相当アレですね、この人。)

 

待ち合わせた場所は日本橋の欄干。
ここ日本橋の橋柱には他の橋と同様、名前が彫られたプレートがあるのですが、
そのプレートには漢字で書かれた【日本橋】と、平仮名で書かれた【にほんはし】が二つずつあります。 


更に言えば日本橋の上には首都高が渡っていて、そこにも大きく【日本橋】とプレートがある。
地下鉄の駅を地上に出てきて、遠くから日本橋を観ると何とも不思議な印象を受けます。
街の真ん中にありながら、上に首都高が通っている為に、橋自体が目立たない。
だけど地下鉄の駅名も東京メトロ半蔵門線、銀座線の両方に【日本橋】はある。
何せ日本のウォール街と呼ばれるほどの金融の中枢でもある。
街自体にはスポットは当たるのだけど、どうも【橋】自体はそうでも無い様な印象もある。

 

ただし、この印象は実際にここに取材に来る前のもの。

 

徐々に橋に近づいて行くと、日本橋自体のなんと美しいこと。
太陽に照らされ光る橋の美しさ、そして橋上の装飾である【麒麟】と【獅子】の勇ましいこと。
橋の真ん中に建つ橋灯は細工も素晴らしく、なんと立派なことでしょうか。
何より、東海道という大きな道路を渡すこの橋の、全体が醸し出す迫力。
石造りのアーチ橋がここまで美しいのか、と感動すら覚えるくらい。 


何を隠そうここは国指定の重要文化財。
橋のすぐそばには『明治期を代表する石造アーチ道路橋であり、
石造アーチ橋の技術的達成度を示す遺構として貴重』との説明書きもあります。
YAJIKITA一行はここで無事に落ち合ったのですが、
しばし各々が橋を眺めながらその美しさを再確認。
すると横山氏、見ず知らずのおじさんから『写真を撮ってください』とお願いされます。
そう、ここはやはり特別な場所でもあるのです。(実際、沢山の人が写真を撮ってました。)

 

我々はここで、ある強力な助っ人を待っていました。

 


その人こそ【名橋「日本橋」保存会】事務局長の永森昭紀さん。
永森さんがこの界隈で働く様になって、かれこれ50年と言います。
という事は東京オリンピックよりも古い! まさに日本橋の生き字引きと言っても過言では無いのです。
*東京オリンピックが1964年ですから…ってかそんなに経つのね…。 


しばらくすると笑顔で永森さんが御登場。
ストライプのスーツ姿が様になっておりますが、それもそのはず。
永森さんはこの界隈の超有名百貨店に籍を置く方でもあるのです。

 

永森「まずはこの橋に“街道の起点”という証拠があるのですが…御存知ですか?」
井門「ほほぅ、起点を証明する証拠が?」



 








橋の脇にある日本国道路元標のレプリカ。
本物は日本橋の真ん中に埋め込まれている。











里程標・西





里程標・北





 







江戸時代に完成した日本橋は、主だった街道の起点とされました。
現在もここは7つの国道に繋がる重要な場所でもあるのですが、
明治44年に日本橋のちょうど真ん中に、高さ約7mの【東京市道路元標】が立てられたんです。 


要は“ここが日本の道路の起点”という事の証明ですね。
現在、その跡にはまるでマンホールの様な【日本国道路元標】が設置されていますが、
東京市道路元標の方はというと、日本橋の橋柱の一角に置かれています。
(取材した時はランプ部分で鳩がお休みしていました。) 


この【元標】が存在する事こそ、日本橋が日本の道路の起点の証明なのです!
知らなかったなぁ…、橋の四隅には歴史を証明するプレートが確かに設置されています。
だけどそこに例えば【東京“市”】と書かれていたり、
さらに言うと【日本国道路元標】と揮毫したのは当時の首相:佐藤栄作だったり。

 

永森「井門さん、この橋の道路部分、御影石なんですよ。」
井門「ほほぅ、かなり広範囲に渡ってますがどこから持ってきたのですか?」

 

東京にはかつて街中を都電が縦横無尽に走っていた歴史があります。
ところが様々な理由からそのほとんどが廃止となり、架線なども撤去されていきました。
当時都電の敷石には御影石が使われていたのですが、それを日本橋の舗装に使おうと、
保存会や町会、区などが立ちあがって実現されたそうなのです。 


石造りの日本橋は舗装も御影石か…、威風堂々としているわけだ。
さらに永森さん曰く、先年ドイツより大手清掃機器メーカーのケルヒャーがやってきて、
日本橋のクリーニング大作戦を実行したのだそうだ。

 

永森「どうですか? 日本橋、太陽に照らされてキラキラと輝いて見えるでしょう?」

 

これは永森さんが言い過ぎなのではなく、確かにそうなのです。
日本橋には雲母という石が多く含まれているので、これが光に反射して輝くのです。
およそ100年の汚れを落とし、白く綺麗になった日本橋。
永森さんに誘われるままに、橋の中央まで進んでみました。
すると、そこに立っているのは立派な麒麟像。

 

 

 

 

 




麒麟像




獅子の像

















 







永森さん曰く、この麒麟像の部分に太田道灌と徳川家康の像が並ぶかもしれなかったそうです。
ただやはり明治の新しい時代に切り替わる時に江戸時代の名残はいらぬだろう、
そんな反発の声が強く、めでたい麒麟像をここに安置するに至ったとか。 


うーん、でも江戸の街を作り上げた二人の銅像がもし現実になっていたらどんな風になっていたか。
決して見る事は出来ないけれど、建設予定場所であった麒麟像を二人に替えて想像すると、
この橋の見え方も少し変わってきて面白いのであります。 


特に太田道灌は今の東京の水路について、どんな目でこの橋から眺めるのだろうか。
偉大なる政治家がいない時、人は過去の政治家に思いを馳せてしまいがちです。
都政の姿はこのままでいいのだろうか。日本橋の姿はこれで良いのだろうか。
“北海道から上京してきた田舎者が何を言うか”と叱られそうですが、
東京をただ便利な街にしたくないと言う気持ちも、あるんですよ。 


利便性は勿論必要ですが、足りないからじゃんじゃん作るという発想ではなく、
物質的に満たされるのが何より最高である、という発想でもなく、
工夫をして心が満たされていける姿に東京をしたい、なんて思ったりもするわけです。

 

その点、当時の日本人の心意気は今と少し違っていたのかもしれません。
ここで話を【日本橋と書かれたプレート】に戻しましょう。

 

 

 

 

 

 

















実はこれを揮毫したのは、徳川最後の将軍、十五代:徳川慶喜なのです。

『あれ、日本橋って明治時代に今の形になったんだよね? 何故に徳川?』
そう思った方も多いでしょう。(僕はいまPCの前で頷いている方が見えました。)
実は明治時代にこの橋が石造りになった時、当時の東京市長:尾崎行雄が、
“この橋は江戸時代から続く名橋である。 


石造りに架け替える事により、新時代に繋がる橋である事は間違いない。
だがしかし、この橋の魂は江戸から受け継ぐもの。
よって橋の名は、徳川最後の将軍、徳川慶喜公に揮毫して戴きたい。”
と言ったとか言わなかったとか…(ほぼ想像で書きました)。 


これにより日本橋は名実ともに、江戸と東京を結ぶ橋になったのです。

 

永森「この橋はね、川から眺めても美しいんですよ。」

 

明治時代に作られたアーチ橋、日本橋。
この橋の装飾や様式を担当したのは明治時代の建築界の大御所・妻木頼黄(つまきよりなか)。
妻木はこの橋の江戸的な部分と新しい明治時代という部分を建築の上で、見事に発揮したのです。 


言うなればそれは、“江戸の粋”とでも言いましょうか。
橋の全体像を観た時の美しさもさることながら、川から眺めた日本橋も美しく見える様にした。
川から見上げた橋の姿までも想定して作り上げたのです。
この風情は日本ならではですね。 


僕らも昨年の夏に神田川リバークルーズをやったのですが、
そこで川から見上げる日本橋の美しさにほれぼれしたものです。
この心意気こそ、日本人の雅とでも言いましょうか。 


永森さんに教えてもらったエピソードにこんな話があって、
妻木の先輩にあの偉大な建築家:辰野金吾がいた。
日本銀行などモダンな建築をいくつも作り上げた辰野であったが、
妻木が作り上げた和の風情と粋を感じる日本橋を見て、この建築には敵わないと言っていたとか。

 

麒麟と獅子の像も凄いんです。
あぁ、これを作り上げたのが誰だったのか取材の時にちゃんと聴いておけば良かった。
この像は明治~昭和にかけて活躍した彫塑家:渡辺長男の手によるもの。
渡辺氏の作品は他にも都内にいくつかあるのですが、僕はこの方の弟さんの作品が大好きで。
実弟は朝倉文夫氏と言い、東洋のロダンと言われた方です。 


東京谷中に現在休館中の資料館『朝倉彫塑館』があるのですが、もう好きで何度行ったか。
平成25年に再開業の予定ですので、その頃まで番組をやっていたらYAJIKITAで取り上げよう。
渡辺氏の手による二つの幻獣の姿も、この橋の雰囲気に絶妙に合っている。
真上には首都高。橋自体、車の往来は1日に数万台と言います。
永森さんのお話を伺っているこの瞬間も、沢山の大型トラックが通過していく。
この橋は鉄骨補強もされていない、100年の石橋。
しかしこの橋は、かつての関東大震災も東京大空襲も乗り越えた橋なのだ。

 

永森「橋のクリーニングの時も、あそこだけは綺麗にしないで下さいって所があったんです。」

 

そう言って永森さんが指を差す方向を見てみると、確かに一部分だけ焦げ茶色になっている。
どうも何かを燃やした跡の様にも見えるのです。

 

永森「あれは東京大空襲の焼夷弾の痕なんです…。」

 

 

 

 





焼夷弾の痕






歩道の焼夷弾の痕















東京に空襲があったのは100回以上。
その中でも大規模だったものが東京大空襲と呼ばれる事が多いのだが、
下町は軍需産業に従事している工場が多いという理由で、焼夷弾の的にされた地区も多かったと聞く。
非戦闘員まで多くの犠牲者を出した東京大空襲。 


しかも使用されたのは対象を焼きつくす為に開発された焼夷弾である。
『東京が焼け野原と化した』とよく聞くと思うが、それは空襲で焼夷弾が使用されたからに他ならない。
非戦闘員が生活する居住区域めがけて、対象を焼き尽くす為に作られた焼夷弾を投下する。
こんな悲劇があるだろうか。 


そして日本橋もその被害を受けた証人なのである。
橋に残る焼夷弾の焦げ痕こそ、東京の歴史であり、それを遺す事の意義もある。
歩いていると永森さんがまた説明してくれる。橋に小さな穴の痕もある、と。
これは焼夷弾の破片痕であり、橋も大きく傷を受けた事を表しているのだ。

 

 

 

 

 





永森さん、ありがとうございました。











江戸、明治、大正、昭和、そして平成。
橋を渡りながらその歴史を紐解いていくと、次々と知らなかった事が出てくる。
やはり最初に危惧していた【日本橋取材の贅沢な悩み】は的中。 


永森さんの話だけで1本作れちゃうくらいの、内容の濃さなのです。
しかし、僕の隣ではメルシー師も横山氏も渋い顔をしている。
そりゃそうだ、だって僕らはまだ日本橋の上からも出ていないのだから(笑)
そして例によって旅日記もここまでで、こんなに長くなっている…。

 

 

 

永森「日本橋にはね、江戸時代の名残の擬宝珠(ぎぼし)がいまだに残っているんですよ。」

 

聞けば今、日本橋のすぐ近くで営業中の【黒江屋】さんの入り口に展示してあるとの事。
早速YAJIKITAも向かってみると、確かにある!! って…ちょ、真っ黒ですけど…。

 

【万治元年戊戌年(1658年)9月吉日 日本橋御大工椎名兵庫】

 

 

 

 

 












江戸時代の日本橋についていた擬宝珠









 






そんな刻印がされた人間の頭より一回り大きいくらいの擬宝珠。
そもそも黒江屋さんは漆器の専門店。
しかもその歴史が古く、元禄2年(1689年)日本橋に店を出してから今に至るというんですから、
日本橋に暖簾を揚げて300年以上という事になります。
これは何か面白い話が聞けそうだ、ってんで我々も黒江屋さんの店内に入りました。

 

お話しを伺ったのはこちらの番頭:田中利和さん。
田中さんに擬宝珠のお話しを伺うと、興味深い事を話してくれました。
黒江屋さんにこの擬宝珠がやってきたのは実は戦後と言います。 


戦後の混乱期、黒江屋さんも漆器だけではなく様々な物を売り買いしていた時期があったそうです。
そんなある日、江戸時代の物だという日本橋の擬宝珠を売りにきた人がいた。
食うや食わずの時代ですから、その時の値段も言い値で叩き売りの様なものだったのでしょう。
日本橋の縁と思って当時のお店の方は購入したそうです。 


しばらくはそのままにしていたそうですが、何かの折に調べてみると、
擬宝珠にはしっかりと【万治元年戊戌年(1658年)9月吉日 日本橋御大工椎名兵庫】とある。
大工の部分に“御”の字がありますよね?
これは幕府の仕事を請け負っていた大工さん、という意味だそうです。 


当時の日本橋は幕府管轄の橋であり、非常に由緒正しいものだった。
江戸にもそんな橋は数える程しかないそうで、この刻印があるという事は間違いない、と。
それ以来、黒江屋さんではこの擬宝珠を大切に保管しているそうです。

 

調べてみると、擬宝珠の付いた橋というのは当時、日本橋・京橋・新橋ぐらいしかなかった。
しかも、これがちょっと面白かったのですが、江戸っ子の定義ってここに関係があるんですって。
「??」と思ったでしょ? 要は擬宝珠の付いた橋と橋の間に生まれた人だけが【江戸っ子】だった。
ごく限られた範囲でしか、実を言うと江戸っ子を名乗れなかったという説もあるんです。
この話はちょっと面白いですね。 


江戸っ子の定義ってのも諸説あるので、「田舎者が江戸っ子を語るな!」と怒らないでね…。
黒江屋さんでは取材が終わった後も漆器の数々を紹介して戴きました。
ここで華麗な漆器の数々をメルシー師の撮影でご覧下さい!(笑)

 

 

 

 

 




























田中さん、ありがとうございました。





 

 

 

 

 


黒江屋さんを後にした我々は、再び永森さんと移動開始。
日本橋から3~400m上流にある、常磐橋に来ると、梅が綺麗に咲いておりました。
ちなみにこの常磐橋、都内で最古の石造りの橋です。
春の訪れを感じさせる陽気の中で、僕は永森さんに江戸の粋について伺ってみました。
永森さんは少しだけ照れながらも、粋について語ってくれたのです。

 

 

 

 

 


























 

 

 

 

 

永森「粋とは痩せ我慢じゃないでしょうか。」

 

 

江戸は当時世界で最も人口の多かった都市。
しかし狭い空間でこれだけの人が共存するには、お互いをどこかで思いやる気持ちが必要。
そして相手を思いやるには、自己犠牲が伴うのであります。 


自己犠牲とはすなわち「我慢」。しかもそれを相手に悟られては粋でなくなる。
隣の家に生まれたばかりの赤ん坊がいたとしよう。
隣近所の爺さん婆さんまで、どんな趣味なのかが分かった時代。
昼間に家の前でお隣さんと顔を合わせた時に、恐らく向こうは言ってくるのだ。
「毎晩毎晩、この子の夜泣きですみませんね。」と。
それに対して昔の人はこう言うのかもしれない。
「へっ、何言ってやがる。ウチのカカアのイビキが聞こえなくなって、お陰でこちとら高枕よ!」
そう言うと赤ん坊を抱いた母親は、ホッと安堵の表情を浮かべる。
目の下には夜泣きで寝られぬ苦労なのか、くっきりとクマが出来てる。
その苦労を見て取ったあと、どんな一言が言えるのか。
物事と対峙した時に、どのくらい先まで想像力を働かせる事が出来るのか。

 

僕はね、想像力豊かな人じゃないと、痩せ我慢は出来ないと思うんですよ。
対処療法が常に目の前だとそこで停滞して、怒りの濃度も濃くなっていく。
江戸の粋が痩せ我慢という言葉は、だからとてもしっくりきたのであります。
江戸時代の人は、想像力が豊かだったんだろうな。

 

 

日本橋界隈を歩いていると、その想像力がむくむくと湧き上がってきます。
建物自体も歴史ある物が多いですし、街のあちこちに当時の歴史が刻まれたプレートがあるのです。

 

 

 

 

 

 





日本銀行本館がある場所は、昔は金座があった場所。

 

 

 

 






サクラ通りのオカメザクラ









ほう、ここはかつての金座か。
ほほう、ここはかつて塩河岸か。
ほほほぅ、ここは江戸の味を守るお弁当屋さんか。

 

 

 

江戸の味のお弁当?

 

 



















という訳で(笑)食べ物に非常に弱い我々は、
なんと江戸時代から8代続くというお弁当屋さん【日本橋弁松総本店】へ! 


結論から言いましょう、ここの八代目が物凄く面白い方でした。
樋口純一さんと仰るこの方は、代々受け継がれる弁松の味を守り続ける方。
お若いながらも弁松の味を守っていく事、日本橋に店を出すという意味、
そしてこの味をどんな風に伝えていくかという事を常に念頭に置いて仕事をされている。
だから弁松の味は守られていくんでしょう。 


弁松さんは元々、日本橋の魚河岸で定食屋さんを営んでいたそうです。
毎日毎日力仕事に明け暮れる江戸の男たち。
そんな彼らの胃袋を満たす為に“盛り”の良い弁松(当時は弁松では無い)の定食は人気でした。
初代からの味付けとして弁松のベースにあったのは、
力仕事の男たちの舌を満足させる為、塩分の強い調理法にしたという事。 


ところが忙しい男たちは、次第に腰を落ち着けて定食を食べる事もしなくなったのです。
ぱっと食べて、ぱっと出ていく。これが出来なきゃ食べにも来てくれない。
そこで3代目が考えたのが【お弁当】のシステム。

 

この辺りのお話しは【弁松】さんのHPに詳しいので一部抜粋しましょう。
『時に文化7年(1810年)、越後生まれの樋口与一という男が、
日本橋の魚河岸に「樋口屋」という食事処を開きました。
盛りのよさが評判で繁盛していましたが、時間のない魚河岸の人たちは、
せっかく食事が出てきても全部食べ切る前に席を立たねばなりませんでした。 


そこで、残った料理を経木(きょうぎ)や竹の皮に包んでお持ち帰りいただいたところ大好評で、
持ち帰り用を所望するお客様が増えていきました。これが、弁松の折詰弁当の始まりなのです。
二代目竹次郎の時代には、最初から竹皮で包んだ弁当を販売するようになり、
三代目松次郎のとき、食事処から日本で最初の折詰料理専門店に変わりました。』(以上HPより)

 

ちなみに弁松の名前の由来は、三代目松次郎さんに関係してます。
いや、物凄くシンプルなのですが『弁当屋の松次郎さん』だから『弁松』さん。
僕らもお話しを聴きながら、脈々と続く江戸の味を堪能させて戴いたんです。

 

 

 

 

樋口「井門さん、ご出身はどこですか?」 


井門「えっ? 北海道札幌市ですけど…。」 


樋口「あっ、じゃあ大丈夫ですね。」 


井門「えっ? 大丈夫って何が!?」

 

 

 

 

僕の目の前に出されたのはスタンダードな【並六】というお弁当。
経木の箱は2つに重ねられていて、1つは白飯、もう1つはおかずになっています。
もうね2段重ねって時点でわくわくする気持ち分かりますか?
段を降ろすと木の香りもふわ~っと香ってくるわけですよ。
では蓋を開けたお弁当の写真を、どうぞ!!

 

 

 

 

 

 














樋口さん、ありがとうございました。





 

 




さて、気になる【並六】の中身ですが、
めかじき照焼、玉子焼、かまぼこ、豆きんとん、
甘煮(つとぶ、はす、さといも、たけのこ、ごぼう、しいたけ、青身)、辛煮、となっております。
それが美味しそうに折詰の中に並んでいるわけですよ。
ではやっぱりここは玉子焼きからいかせてもらいましょ。いっただっきま~す!

 

 

 

井門「しょっぱっ!! けど旨っ!!

 

 

 

僕の表情を見て、にやりと笑う樋口さん。
最初から僕がこういう反応をする事を分かっていらっしゃったようです(笑)
間髪いれずに「井門さん、しょっぱいでしょう?」と仰る。
そうなんです、しょっぱいんですけど…美味しいんです。 


醤油の辛さの後にちゃんと素材の味が効いてくる、というか。
それは他のおかずを食べた時にも思ったのですが、何とも言えない後味の良さがある。
強いて分かり易く表現するなら、…そう、クセになる味なんです。

 

 

 

樋口「ウチの弁当を食べて、味付けを間違えたんじゃない? って仰る方もいます。」
井門「うんうん、そりゃそうでしょう。驚きますもの。」
樋口「昔、この味を変えるかどうかで悩んだ時期もあったんですよ。」
井門「健康志向が主流の時代ですからね…。」
樋口「でもある人に、味を薄めるのは簡単だ。だがそれは味をボケさせてるだけだ、と言われ。」
井門「あっ…。」
樋口「それからは、もう。」
井門「もう?」
樋口「吹っ切れました(笑)」

 

 

 

樋口さんは仰います。
弁松の味が好きだと言う人が一人でもいれば、この味は続けていきたいと。
目の前の弁当のおかず一つ一つが語りかけてくるんですって。 


“味を変えるなよ”って。 


先代などから特に言われた決まり事は無かったそうですが、
ここまでこの個性的な味が受け継がれてきたって事が、もう語ってますよね。
ところで樋口さんにも聴いてみたんです。“粋って何だと思いますか?”って。

 

 

 

 

樋口「遊び心じゃないでしょうか?

 

 

 

 

遊び心があれば、色んなアイデアが生まれてくる。
でもその遊び心を自分の中に作りだすには“心に余裕”が無いといけない。
江戸の人々は確かに、どんな時にも遊び心があったような気がするのです。
それは手拭い一つとってみても、デザインや仕立てに活きている。
弁松のこれからの姿もきっとこの遊び心で面白くなっていくんだろうなぁ。
樋口さんとのお話しは、時間も忘れてしまうほど面白いものでした。

 

 

 

“粋”って一体なんだろう。
今回の旅ではこの“粋”について少し考えさせられた。
辿りついた一つの答え。粋とは“武士道”に替わる“町人の生き様”ではないだろうか。
これは“生き方”ではなく、あくまでも“生き様”なのであります。 


生き方とは一人で守って行うもの。 


生き様とは誰かに見られて行うもの。 


江戸の町人達は、互いに寄り添いながら意識し合い、生きてきた。
そこに自分勝手さが出てしまえば、あっという間にそのコミュニティーにはいられなくなる。
根底にあるのは“共存意識”だと思うのです。 


現代の日本はそれが少しだけ薄れてしまっていたのかもしれない。
だけど、僕らの中にはきっとDNAに刷り込まれた“粋”があるんだと思います。
そしてそれを今でも大切に持っている方が、日本橋には沢山いらっしゃる。
江戸時代から続く形の無い“粋”の姿。
それを目にする事が出来た時、あなたの“粋”も身についているのかもしれません。