日本橋架橋100周年 日本橋で歴史ある文化に触れてみよう!|旅人:井門宗之

2011-04-08



 “日本の橋”と書いて“日本橋”。
この橋は1603年に徳川家康が江戸幕府を開府した時から、この場所に存在します。
昔の木造の橋は火事で焼け落ちたりと何度も架け替えられるのですが、
1911年に現在の石造りの橋になってから100年、堂々とこの地にあり続けているのです。 


関東大震災も東京大空襲も乗り越えた日本橋。
そうです、“日本”の橋は何よりも強いんです。何があっても折れたりはしないのです。
YAJIKITAも日本橋の取材を重ねる内に、この橋への想いを新たにしていきました。

 

 

 

 

 





 

 

 

そんな今週のYAJIKITAは、この地の文化に触れる旅。
先週も旅日記で書きましたけど、何せ老舗が多いですからこの辺り。 


それと日本橋の界隈ってね、至る所に【歴史散歩】的なプレートがあるのですよ。
【ここには昔○○がありました。】みたいな。歩いていると必ず何かの碑があったりする。
前回が歴史に触れる旅だったので、今回はこの地の文化に触れてみようぢゃないか、と。
今回も作戦参謀:メルシー久保氏、仏のD:横山氏、カメラは久保田君だったり、慶吾だったり。 


そして旅人はすっかり江戸の粋にハマった道産子:井門P。
前回も取材先、はたまた取材先近くの老舗でお土産を買う事を忘れない我々。
すっかり観光気分…いやいや、この街を愛するがあまり色んなお店を試したくなるんです(笑)
ちなみにこの前のロケ中は全く取材と関係無いのに、黒江屋さんを出たあとだったかなぁ。

 

 

久保「ぢゃ、久保田君が店の外観撮ってる間、隣の榮太楼総本舗の本店行ってこよー!」
井門「あっ、待ってよジャイアーン。ぢゃ、ぢゃあ、俺もー!!」

 

 

と言う訳で、榮太樓本店で、きんつばを購入。
こちらの「名代金鍔」は普通のあんこの金鍔と、もう一つ栗金鍔があって、
どちらも上品な甘さが最高。 


今回は取材先では無かったので個人的に楽しみましたが、日本橋に来る時には押さえておきたい店です。
えっ? リスナーには無いのか! って?
だって全部食べちゃったんだもん…。モゴモゴ…。ナマ物だから送れないんだもん。モゴモゴ…。

 

 

はいはい、石は投げないで下さいねー。 


大丈夫です! スタジオの美香さんにだって、お土産は無いんですから!
*大丈夫なことなんかあるもんか。 


とにもかくにも、取材先もいっぱいあるし、それ以外にも見所が山の様にあるのです。
結論から言いましょう。
この日本橋取材は3月末に終わってるんですが、
それ以来スタッフと顔を合わせる度に「日本橋の取材、良かったよねー」となるんです。
前回の放送後、番組宛になんとメールも届きました。
折角ですから、ここで御紹介しましょうか? 岐阜のラジオネーム【ゆくのび】さんです。

 

 

「4月2日のお弁当屋さん「弁松」さん、面白かったです。
同じことを続けているようでも、そこにはたくさんの取捨選択があり、
そこには、当然ながら迷いあるでしょうから、自分の所は(これでいいのだ)と思えるまで、
どれだけ迷ったんでしょうね。初めから自分自身で作りあげてきたものなら、
ある程度は納得しやすいと思います。 


でも、老舗と呼ばれる程、長く続いてきたものを受け継いだ方が、そう思えるまでが、
本当に大変だったのではないでしょうか。聞き応えがありました。」

 

 

YAJIKITAは積極的にメールを募る番組では無いのですが、
(実はHPにはメールフォームもあったりするのですが…)だから尚更嬉しい!
【ゆくのび】さん、本当に有難うございます。
リスナーの皆さん、感想メッセージを送って戴けるとスタッフは小躍りするぐらい嬉しいのです(笑)
もちろん聴くだけでも良いですし、聴いて戴けるだけで有難いんですが、たまには…ねぇ?

 

 

さて見所満載の日本橋でございますが、今回も日本橋からスタート!
と思ったら、いきなり面白い像を発見!!

 

 

 

乙姫の像!

 

 

 

 

 




日本橋のすぐ脇にある
「日本橋魚市場発祥の地の碑と乙姫の像




クリックすると案内板の文字が読めるよ!















日本橋の橋柱のすぐそばに、何故か【浦島太郎】に出てくる【乙姫さま】の像が。
この辺りはメルシー久保氏の台本に明るいのでちょっと抜粋しましょう。

 

 

「徳川家康の関東入国の後、摂津から漁民が佃島に移り住み、
幕府の膳所に供するために漁業を営みました。
のち、日々上納する残りの鮮魚を舟板の上で並べて一般に販売するようになりました。
これが日本橋魚河岸の始まりです。
関東大震災まで、江戸および東京の台所として活況を呈していました。
「日本橋 龍宮城の港なり」龍宮城の住人である海の魚が、
ことごとく日本橋に集まったという意味です。記念碑は、乙姫を表しています。」

 

 

そうなんです、日本橋は、かつて江戸の台所とも言われた魚河岸だったのです。
川にはいくつもの船着場があって、魚を卸して商いをする商人がとても多かった。
この頃の活気も、想像すると…うーん、楽しそうだなぁ。毎日がお祭りのような。
【江戸名所図会】の日本橋魚市の様子を見ると、やっぱり物凄い活気なんですね。 


更に言うと魚も大きい。これは江戸時代だからなのか? 迫力が違う。
「日に千両、鼻の上下にヘソの下。」という唄があります。
日本橋も一日に千両のお金が動く、大変な賑わいだった場所。
という訳で、乙姫様の像と写真を撮りながら、日本橋の文化に触れていきましょう。

 

 

さて、この日本橋の魚河岸があった地域を【日本橋室町】と言うのですが、
日本橋の界隈は町名を【日本橋○○町】とする土地ばかりです。
例えば【日本橋兜町】【日本橋茅場町】【日本橋人形町】【日本橋蛎殻町】などなど。 


これは由来がはっきりと分かっているものと、そうでないものがあるそうです。
人形町は何となく分かりますよね。正解は【江戸時代に人形師達が多く暮らしていた】から。
蛎殻町は逆に言うと詳しい由来は分かっていないそうです。
ではでは【室町】の由来はなんぞや? 中央区のHPを調べてみました。

 

 

「京都の室町にならったという説と商家が多く集まっており、
その土蔵(室)が立ち並んでいたためという説があります。」(東京都中央区HPより引用)

 

 

なるほどなぁ、確かに商家は数多く集まっていたようです。

でも魚河岸があったんだから、日本橋魚町とかでは…よくないですね。
この辺りの江戸っ子達は、必ず「ぎょぎょーっ!」と言ったとか言わなかったとか。
≪言わねーーーーよっ!!! 影つっこみ by:メルシー≫

 

 

…それはさておき、室町の辺りは老舗のお店が本当に多いです。
例えば、はんぺんや練り物で有名な【神茂】さんもこの一角。
役者達の符丁で「お前も神茂だねぇ」なんて言われると一人前の証と言われますね。
その【神茂】さんの向いには創業80年の大衆中華【大勝軒】さんがどーんと。 


こちらは勿論「つけ麺」の大勝軒さんでも、永福町の大勝軒さんでもありません。
今回はお店に入れなかったのですが、東京レトロを堪能出来る老舗のラーメン屋さん。
正直、かなり心奪われましたが、この日はお休みだったので残念!
リスナーの皆さん、僕らの代わりに楽しんできて下さい!



 

 

 




日本橋室町の町並み 
取材の時はちょうどオカメザクラが咲いていました!




とってもレトロな雰囲気の大勝軒
80年前もからラーメンを出しているのだ!





 







そしてこの界隈をぶらりしていると、やはりあった。【三浦按針屋敷跡の碑】でございます。
僕らがぶらりしていると、町の一角に人だかりが出来ていたんです。
「何かな~」と気になったのですが、これは所謂ガイドツアーに参加する人だかり。
日本橋の老舗や歴史をガイドさんが案内してくれるんですね。 


人数は大体15人くらいでしょうか、ツアー客が注目していたのが【三浦按針屋敷跡の碑】。
三浦さんがどんな人物かは教科書で勉強しましたね?(僕は名前しか覚えてません…。)

 

なのでこんな時は、「教えて、メルシー師!」(笑)

 

 

久保氏「オランダ東印度会社東洋派遣隊の航海士であった英人ウイリアム・アダムスは、
慶長5年(1600年)暴風のため大分県の佐志生に漂着しました。
のち、家康の通商顧問になり、日英貿易の発展に貢献しました。
現在、室町1丁目地内にある按針居住の地は、昭和5年6月、東京府史跡の指定を受け、
同7月、地元有志の手で記念碑が建てられましたが、戦災で破壊され、
昭和26年5月に現在の記念碑が建てられました。」



だそうです。ちーん…。

 

 

 

 

 

 




ビルとビルの間で窮屈そうな
「三浦按針屋敷跡の碑」




クリックすると碑に書かれた文字が読めるよ!




 







この日本橋室町や本町の界隈、飲食店や老舗が軒を連ねていてかなり魅力的。
行列している天麩羅屋さん、街角で香ばしいスパイスの香りをさせるカレー屋さん、
紳士服の老舗や海苔のお店などなど。
そんな中で、店先にまたもや碑のある場所を発見!! しかもこれが松尾芭蕉のもの。
ふむふむ、なになに・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 


日本橋鮒佐の入口脇にある「松尾芭蕉の句碑」











発句也松尾桃青宿の春

 

 

 

 

これは松尾芭蕉の句だよね? 桃青ってのは…。
お店の方に色々聴いてみようってんで、我々は隣のお店に潜入しました。


この潜入したお店ってのが、佃煮の元祖とも言われる【日本橋鮒佐】さん。

 

 

 

 

 




























店に入ると佃煮の香ばしい香りがふんわりと漂ってくるんです。う~ん、良い香り。
我々は御主人の宮内隆平さんにお話を伺いました。
日本橋鮒佐の歴史はやはり古く、今からおよそ150年近く前まで遡ります。 


こちらの初代の佐吉さんは当時、趣味の釣りが高じて、
小鮒を醤油でつけ焼きにする【鮒寿々め焼】を商いにしていたそうです。
そんな折、時化に見舞われ漂着したのが佃島。 


そこで佐吉さんが見たのは、佃島の漁師が魚を塩で煮て食べていたという光景。
佐吉さんはひらめきます。“醤油で煮て食ったら、更に旨いんじゃないか”。
この発想が佃煮の原型となった…という風に言われているんです。

 

 

宮内「この商売は人の倍働いて、ようやく一人前なんです。」

 

 

聞けば魚の保存が出来なかった頃は、魚が河岸に上がってくる時間に、
煮焚きの時間を合わせるしかなかったそうです。

 

 

宮内「こっちはもう火も落としてね、窯の蓋も閉めてるんだけど。
そんな時に河岸から魚が上がってきたぞーって声がかかる。夜も関係無かったですね。」

 

 

夕方にまた火を入れて、そこから佃煮作りを始める。
作業は夜中まで続き、翌日も早朝に起きて河岸から魚を仕入れる。

 

宮内「やはり少しでも時間が経つと、味が全然違うんです。
もうそれは断然早く処理した方が旨いんですよ。」

 

今も4代目の宮内さんと、5代目の息子さんでお店を切り盛りしています。
こうして店の味と魂が受け継がれていくのは、何だか清々しいです。
勿論、我々も【日本橋鮒佐】自慢の佃煮をいただきました!

 

 

 

 

 

















これが、アサリ、水蕗、昆布、シラスなどの佃煮6種類。
それぞれの味が江戸から守られてきた代々続く味なんです。旨いったらない。
しかもただ佃煮を食べるだけぢゃあ、ございません。
白いご飯と出汁がセットで出てくる、という最強の組み合わせ。 


カメラの慶吾は目の前の佃煮を見ながら「ふんがふんが」してます(笑)
ご飯の上に昆布の佃煮をちょいと載せるでしょ? そこに熱々の出汁をかける。
佃煮と出汁の香りがここで一気に広がるわけです。なんとも言えない芳しさ。

 

 

そこをサラサラ~っと流し込むと、…絶品!!!

 

 

 

 

 











 






僕らが旨そうに佃煮を食べている時の宮内さんの笑顔が、また良いんですよ。
良い仕事をした男の顔っていうのかな、“心が満足している感じ”とでも言いましょうか。
やはり努力して作り上げた佃煮が「どんな顔をしてお客さんに食べられているのか?」、
ここまで作り手は知って満足したいってのが、実は心のどこかにあると思うんです。 


僕らも正直な事を言うと、番組を作って終わりではなくて、
どんなシチュエーションで皆さんが聴いているのか、覗いてみたいもの。
宮内さんの笑顔って、だから凄く分かる気がしたんだよなぁ。
ちなみに、ガイドツアーの中には【日本橋鮒佐】さんが組み込まれる物もあって、
そのツアー体験者にも佃煮とご飯、出汁の最強コラボは楽しめるそうですよ。

 

 

井門「そうだ、佃煮って保存食ですよね。どれぐらい保つんですか?」
宮内「ニヤリ。」

 

 

この質問の答えがなかなかに面白かったんです。
佃煮自体は保存食です。保存状態が良ければ、例えば湿度が低くて温度も低ければ、
それはずーっともつんだそうです。冷凍しても大丈夫な食材なら2年でも3年でもいける。 


ところがいかな佃煮とは言え、カビ菌が繁殖した場所に置いておくと、1週間でカビが付く。
さらに密閉状態でも温度管理が悪ければ、発酵してしまう。
なので「どれ位もつんですか?」の質問が一番困るそうです(笑) 


でも保存状態が良ければ何年でも…ってのは凄いなぁ。
【日本橋鮒佐】の佃煮は、味もかなり濃いです。砂糖を使っていないのかな? ってなぐらいに濃い。
でもそれも江戸前の佃煮の特徴。材料費は勿論惜しまず、手間も惜しまないのが江戸前なのです。
僕は取材の後に改めて【日本橋鮒佐】さんのHPを見たんですけど、社訓にはこう書かれていました。

 

 

一、原料を惜しむな
一、手間を惜しむな
一、知恵を惜しむな

 

 

老舗の心意気。宮内さんの言葉の端々にも窺う事が出来ましたが、なるほど…。
お腹もいっぱいだし、心意気も受け止めたし【日本橋鮒佐】さんを後に…の前に、
入り口にあった松尾芭蕉の句碑の謎について聴いておかなくちゃ。

 

宮内「ここは江戸時代、小田原町と呼ばれていたんですが、
松尾芭蕉が伊賀上野から出てきて8年暮らした場所でもあるんですよ。」

 

 

 

 

 


クリックすると案内板の文字が読めるよ!




宮内さん ありがとうございました!




 

 

 

 

 


なるほど、だからここに句碑が建てられているわけですね。
「桃青」とは当時の芭蕉の呼び名だったそうで、芭蕉が芭蕉になる前の歴史的なもの。
松尾桃青の句碑と老舗の心意気が詰まった佃煮を味わいに、是非皆さんも【日本橋鮒佐】さんへ!

 

次なる老舗を求めにYAJIKITAは再び“ぶらり”を開始します。
ここはもう“ぶらり”のプロですから、各々が【日本橋鮒佐】さんでの買い物も忘れません(笑)
各々が店のショーケースをひとしきり睨めっこしてから、再びスタート。
さぁ次なる老舗は…と、歩きながらどうも繁華な場所に出てきてしまった。
ここはどう見ても大きなビルが立ち並ぶ一角。いわゆる老舗はどこにも見つからない。

 

 

 

久保「実はあの…コレド室町に入ってるんだよね~。」


一同「え~!!!」

 

 

 

 

 










 

 

 

 

 

コレド室町とは2010年に竣工した複合商業ビルであります。
レストランは勿論、書店やコンサートホールなんかも入っている。
実はここの1階に何を隠そう、あの有名な老舗が入っているというのです。その名も…、

 

 

 

にんべん!!

 

 

 

 

 

 
















正式な会社名は【株式会社にんべん】さん。
言わずと知れた江戸時代から続く削り節などの水産加工品メーカー大手であります。
老舗というと何となく厳粛な雰囲気があって、自分が入っていいのか悩む店構えだったりしますが、
この【コレド室町】の1階入口すぐの所に設けられた【にんべん】さんの日本橋本店の店舗は、
木のぬくもりと出汁の美味しそうな香りが漂う、何ともお洒落で温かいデザイン。
し・老舗のお店なんですよね…?

 

 

 

杉井「はい、当社は1699年創業。今年で312年の歴史を持ちます。」

 

 

 

こちらでお話しを伺ったのは【株式会社にんべん】の杉井剛さん。
【にんべん】の歴史について色々と教えて戴きました。
まずは【にんべん】の社名の由来から。

 

 

杉井「これは創業時の屋号【伊勢屋伊兵衛】にちなんでいるのがその由来です。
町の人が伊勢屋伊兵衛を「にんべんさん、にんべんさん」と呼び始めたのが始まりなんです。」

 

 

ここにも何だか江戸っ子の粋を感じませんか?
伊勢屋の伊の字と伊兵衛の伊の字で「にんべんさん」。短い言葉の中に町民の愛を感じます。
でも愛称で呼ばれるには、実直な商売を続けなければそうはいきませんよね。 


【にんべん】さんは削り節の他にも、調味料などを製造する水産加工品メーカーですが、
この削り節も、作り上げるのに最も手間のかかる【本枯節】にこだわる徹底ぶり。
実直な商売を江戸の昔から続ける老舗の努力を感じるのです。

 

 




















杉井「折角ですから、削ってみますか?」
井門「えっ? 体験出来るんですか?」

 

杉井さんに誘われるままに店の奥へと入っていきます。
すると商品が並んでいる中、その左手奥にガラスで仕切られたスペースが。
その中には白衣を身にまとった方が鰹節を削っているではありませんか!?
随分立派な本枯鰹節ですけど、これを僕も削らせていただけるそうな。
実際に削らせて戴くのは違う場所なんですが、本枯鰹節をしっかり握って、
カンナの上をシャコッ、シャコッと滑らせていく様はまさに職人。

 

 

 

削り節男(けずりぶしお)の誕生であります。

 

 

 

 

 

 













 

 




気分を良くしていると、今度は店舗入り口にあるBARへ連れていってくれると仰る。
杉井さんったら取材中にそんな素敵なこと、許されるわけないぢゃないですか。
まぁ、どうしてもっていうのなら一杯くらいはやぶさかでは無いですよぅ。
僕も仕事で来てますから、杉井さんがどうしてもって言うのなら…ねぇ?

 

 

 

 

 

 













 

 

 

杉井「こちらが本枯鰹節の出汁が飲める
だし場(DASHI BAR)”なんです!」

 

 

「呑めるの?」って言うと、
「呑めるよ。」って言う。
「お酒じゃないの?」って言うと、
「お酒じゃない。」って言う。
こだまでしょうか? いいえ、鰹出汁です。

 

 

何とこちら店舗の入口付近に、極上の黄金色鰹出汁を飲ませてくれるスペースがあるんです!
テーブルもいくつかあって、出汁の他にもメニューが並びます。
ちなみに取材当時の3月のメニューは以下の通り。

 

 

<<厚揚げと根菜の味噌汁>>
<<和風チゲ味噌汁>>
<<菜の花のお吸い物>>
他にも<<かつぶしめし>>など美味しそうな品々が並びます。
その中でもやはりイロハのイ。
シャンパンゴールドに輝く出汁を飲ませてもらいました!!

 

 

 

 

 

 


これが、究極の「かつお節だし」!





 

 

 

 

コップに注がれたその色艶がもう家のものとは段違い。
そしてその芳醇な香り、目の前に金色の海があるかの様な、そんな気さえします。
そして…運命の一口。

 

 

 

 

旨っ!!!

 

 

 

 

一口すすると口の中いっぱいに広がる、海の香りと鰹のギュッとした味。
いつまでも余韻が口の中に残るんです。だけど果てしなく優しい。

 

杉井「本枯鰹節は確かに高い様にも感じますが、
毎日使う物と考えると実際にはこれを一本買った方が美味しいし、お得なんですよ。」

 

 

 

 

 

 


杉井さん ありがとうございました!





 

 

 

丁寧に毎日を暮らす事がいかに自分に得なのか、とてもよく分かりました。
一汁一飯の大切さ。そのシンプルな奥深さを探す手間を、現代社会の中で忘れてしまってたなぁ。
老舗の【にんべん】さんで、そんな大切な事を教わりながら、我々はコレド室町を後に。

 

 

 

先週の旅日記を読んだ方は覚えているでしょうか?
日本橋は諸街道の起点であり、日本の道路の発祥。
という事も関連するのかしないのか、日本橋には様々な“発祥の地”があります。
“諸街道の起点は流通の中心にもなった”そんな理由で、ここから生まれた物が多いのも頷けます。 


それとひょっとしたら“海運が発達していた”ってのも大きかったのかもなぁ。
魚河岸があったり、船着き場があっちこっちにあったり、
最初の方にも書きましたが、江戸時代の日本橋の活気ってのは相当なモノだったと思うのです。 


実は現在、東京メトロ三越前駅の地下コンコースに、
当時の江戸の様子を伝える絵巻物が常設展示されています。
僕らもちょっとだけ見に行ったんですが、それはもう賑やかな江戸時代の日本橋界隈が描かれていて。

 

 

 

 

 

 













 

 

 

 

屋台で食事をしていたり、魚屋が威勢よく商売していたり、引っ越しの最中の老夫婦が歩いていたり、
鷹匠が鷹を育てる最後の仕上げに人ごみを鷹と一緒に歩いていたり、棒手振りが喧嘩していたり、
お酒に酔って良い気分の旦那衆が歩いていたり、三越の前身である越後屋が大きく商いをしていたり。
彼の時代の商店が、脈々と受け継がれ老舗に成長する。
江戸時代の日本橋は間違いなく、【人の営み】が凝縮していたのです。

 

 

そうそう、発祥の話でした。
日本橋は郵便発祥の地と言われております。 


中央区観光協会のHPによりますと… 


『日本の近代的な郵便制度は、明治4年(1871年)前島密の創意により、
まず、東京-大阪間で始まりました。
ここは新制度発足当時、駅逓司(かつてあった郵政省の前身)と、
東京の郵便役所(今は中央郵便局に移った)が置かれたところで、
昭和37年、前島密の胸像と記念碑が建てられました。』とある。

 

 

 

 

 

 

 


郵便発祥の地「日本橋郵便局」




前島密の銅像





クリックすると案内板の文字が読めるよ!





 

 

 

 

この前島密という方は他にも様々な偉業を成された方で、僕は知らなかったんですが、
大久保利通に東京を首都にするよう進言したのは前島さんなんですってね。
日本の中心に首都機能を持ってこなくては駄目だ! と言ったとか。 


まぁ、郵便発祥の地が日本橋だったからかは分かりませんが、
そう言われるとこの界隈は“紙”を扱った老舗が多いのも事実です。
我々はその中の一つ、首都高のすぐ近くに店を構える老舗の和紙店、 


小津和紙】を訪れました。


こちら、入口には紙の原料となる楮が植えられていたり、2階建の店構えも相当モダンです。

 

 

 

 





 

 

 

 

それに店の大きさもかなり…。老舗でこれだけの大きさとなると、これは格が高そう。
恐る恐る店内に入ってみると…

 

 

 

 

 

 

























 

 

 

 

店内でお話しを伺ったのは、小津和紙の松浦節也さん。
2階の資料室などもご案内して戴きながら、小津和紙の歴史を伺いました。

 

 

 

 

 

 














このベストも和紙でできています!





 

 

 

 

 


松浦「こちらの歴史は1653年からですから、かれこれ350年ほどになります。」

 

 

ここに来て、老舗の創業年が随分大変な事になってまいりました。
およそ350年の老舗ですもの…江戸の古地図なんか見ると必ず載ってますから。
初代の小津清佐衛門長弘という方は伊勢の出身で、1653年に出府して江戸で商売を始めた。 


しかも商才がずば抜けていたのでしょう、資料館には当時の長者番付があるのですが、
江戸のみならず、全国版の長者番付にもしっかりと載っている。
他にも資料は沢山あるのですが、何と言ってもこちらは和紙のお店。 


1階の店舗にはなんと扱う和紙の種類が3000種類以上。

 

 

松浦「大体お店で働く人は、何が何の紙で、値段は幾らって分かりますよ。」
井門「ほほぅ…では試してもよろしいでしょうか?」
松浦「もちろん!」

 

 

そうしてランダムに紙を一枚選んで(しかも同じ様な種類が沢山あるんですよ!)、
悪~い顔をしてレジに持っていったのですが…。

 

 

井門「これは何て種類の紙か分か…」
店員「はい、これは○○の○○で値段はコチラですね!」

 

 

井門負け。

 

 

 

 

 

 













 

 

 

 

 

 


僕らの悪だくみを笑顔で見守る松浦さん。
そもそも何故この日本橋に紙の老舗が並ぶようになったのか、教えてくださいました。
徳川家康が経済の拠点である日本橋に紙業者を集めたのも理由のひとつである、と。 


とかく金融業者が多かった日本橋です。大福帳の需要もそれはそれは大変なものだった。
なのでこの界隈の紙の専門店が発展したのは当然なのであります。
江戸時代に日本橋で発展していった紙業者の歴史、
そして店内の数多くの美しい和紙を見ていると、どんどん和紙の魅力にはまっていきます。

 

 

松浦「店内で紙漉き体験も出来ますが、やっていかれますか?」
井門「もちろん!!」

 

 

紙漉きを実際に教えて下さったのは、師匠:平澤桂子さん。
何段階かに分けて行う行程を、それは丁寧に指導して下さいました。
なかなか筋が良いと誉められた旅人の井門。眼差しは既に真剣であります。
紙を漉く様はまさに職人。

 

 

 

漉く(かみヲすクぞう)の誕生であります。

 

 

 

 

 

 


いつものようにコスプレが似合わない!




まずはやり方を教えて頂いて…





実は、かなりの冷たさなのだ!




出してみると薄っすらと…





ほ~ら、職人っぽくない?




ほ~ら、きれいに剥がれた!





水分飛ばしてま~す!




さらに電熱器の鉄板に貼り付けて乾かすのだ!




 

 

 

 


まぁ、出来上がったのはお世辞にも誉められたものでは無かったけど、
完成した和紙の他に【小津和紙】さんからのメッセージ入り和紙がプレゼントされました。
そこには何と「井門宗之」の名前入りでこんな事が書かれていたのです。

 

 

 

 

 

 





 

 

 


『和紙作りいかがでしたか。千数百年の歴史。
和紙文化にふれていただき幸いに思います。
今後ともよろしくお願い致します。
ご健康とますますのご発展をお祈り致します。 小津和紙

 

平成二十三年三月二十六日

井門 宗之 様』

 

 

 

 

 


松浦さん 平澤さん ありがとうございました!





 

 

 

今回の旅は江戸の文化に触れる旅路でした。
沢山の人に出会い、そして得た一つの答え。
日本橋の人達の心には【まっとうに生きる】という事が強く刻みつけられている。 


それは自分自身に対してでもあり、他人に対してでもあるわけです。
小津和紙の松浦さんが仰ってました。 


「“粋”を説明するのは難しい、でもこの日本橋で生活している人達は“粋”なんですよ。」って。
先週に引き続き、様々な人の生き様を見せて貰った井門。
果たして、僕の“粋”は養われたのでしょうか…。
あっ、それを気にしているようぢゃ、まだまだ“粋”には程遠いか(笑)

 

まずは今よりも真っ当に、丁寧に暮らしていくことから始めてみよう。

 

凄くシンプルな事だけど、

 

ここは日本橋。

 

旅の起点はそこからなのです。






 





 

 

 

 

 

 

 

 

≪オフショット≫

題名「密と宗之」