東京探訪 山手線一周ぶらり旅 駒込~田端編①|旅人:井門宗之

2011-10-29



メルシー「これって、ソメイヨシノだよ…ね?」
佐々木「多分…そうだと思うのですが。」 


井門「そうそう、だってここ染井吉野桜記念公園だもん。」 


久保田「ちょっと寂しいですね。」 

 


全員「うーん…少し地味かな…」

 

 

公園のベンチにはサラリーマンが一人、少し疲れた様子でパンを齧っている。
10月半ばの昼過ぎの公園は、風も少し冷たくて何だか寂しさが漂う。
公園の外周には染井吉野がぐるりと植えられているのだが、
枯葉が舞う染井吉野の姿はまるで去りゆく季節へのはなむけの様だ。

 

 

 

 

 













 

 

メルシー「ここでエンディングねぇ。」 

 


佐々木「ほぅ、ここでねぇ…。」

 

 

なんと言う事でしょう!
この企画を立ち上げた一人でもあるメルシーさんならともかく、 


今回が「ぶらり初参戦」の佐々木氏までが、 

 


ミラクル氏が前回の旅の終着点に選んだ場所斬っている

恐ろしい、前回の取材が思いの外「スケジュール通り」だったのと、
「良いインタビューが録れた」のでミラクル株が上がっていたのだが、
まるでそれを蹴落とすような2人のコメント。しかしこれもYAJIなのだ。 


先述の通り、今回のぶらりは“意外にも”ぶらり初参戦の佐々木氏をDに迎え、
作家:メルシーさん、カメラマン:久保田君、旅人:井門Pの4名で進む。
勿論今回も真っ直ぐ進むわけもなく(山手線だと1.6km)、

 

本当の意味での寄り道を堪能するぶらりになったのであります。

 

 

 



 


駒込駅北口では、道路はホームの上!




ホームの脇の下り坂を歩くと呑んべぇな感じの路地が!







駒込の駅から山手線の線路沿いを歩くと、まず随分と坂を下るのが分かる。
最初は目線より下に線路⇒徐々に同じ目線になってきたと思ったら、いつの間にか線路は上にある。
男達はわいわいと「自分のモテ期」について話しながら、駒込駅東口へ。
ここに出てくると下町ならではの賑やかな商店街とぶつかる。

 

 

 

 







山手線の音を録る、
まるで"音鉄"のような佐々木D



 




佐々木「ちょっとここで電車の音を録っておきますね。」 


一行「ほほぅ。流石、音の達人。ちゃんとぶらりの基本は押さえてくるぢゃないか。」

 

 

佐々木氏はマイクを構え、メルシー氏は本日のロケ現場のチェックに余念がなく、
井門Pは現場の雰囲気を探ろうと商店街の様子を覗きに行く。それぞれがプロの目になっていた時、一人だけ目尻の下がった男がいたのだ!

 

 

女「何を撮ってるんですかぁ?」

久保田「あっ、web用の映像を。」
女「へぇ~、何かの番組なんですかぁ?」
久保田「へへへ、あのぅ、ラジオなんですよぉ~v(。・ω・。)ィェィ♪

 

 

“v(。・ω・。)ィェィ♪”ぢゃねぇっっ!!!

駅前で店のフライヤーを配っていた美容室の女の子。
その子がヤジキタ一行を随分気にして、久保田に声をかけてきたのだ。
嬉しそうに話しているので、おじさんが邪魔しに行くと、
なに、このモヒカン怖い”みたいな顔で愛想笑いで距離を取り始める。 


おじさんはモヒカンだけど怖くないんだよ、そう心で呟いてみるが、届かない。 

 


良いんだ良いんだ、久保田モテキはこの駒込の片隅で終わるんだ。

 

メルシー「ほら、そんな森山未来出来損ないの事は忘れて。」

 

佐々木「そうですよ、この先に井門さんが見たかったアレがありますよ!」

 

 

 

 

 




 

 



『山手線ぶらりシリーズ』を始めて早いもので3年。
後から始めたヒルナ○デスや他のTV番組にも追い越され、それでも進んだぶらり旅。
始まった時からメルシーさんが言っていた“ある言葉”がある。 

 

 


山手線には1箇所だけ踏切がある場所がある。

 

 

それが駒込~田端間だったのである。
駒込駅東口から進むこと5分程度。
坂を昇っていくと、どこからともなく“カンカンカンカンカン”という警報音が聞こえてくる。
我々の右側を通っているのは間違いなく山手線! 

 

という事は、これは山手線の遮断機の警報音!

期待に胸を膨らませていると、ついに一行の前に現れたのです!!

 

 

 

 

 

 

 





正真正銘 踏切を渡る山手線!



 





踏切注意の道路標識は2種類あるの知ってましたか? 第二中里踏切では両方見ることができます



 

 

僕らが取材している時も終始警報音が鳴りっぱなしの踏切。
それもそのはず、何と言っても山手線の踏切なのだ。
我々が取材したのは平日の日中、この時間の山手線は4分間隔(内・外回りがあるので2分間隔)。 


これがラッシュ時になると2分半間隔!!

それでも少しだけど車も人も通るし、ちゃんと踏切の役割を果たしている。
なんでこの踏切が残っているのか?
メルシー氏曰く“交通量がそんなに多く無い。車も少ない。
隣を走っている山手貨物線が山手線をアンダーパス&クロスして東北方面へ。
なので山手線は踏切の下をくぐれない。逆に踏切の上を通すと、田端まで下り切れない。”
他にも様々な理由があるのだが、概ねこれがここに踏切が残る理由なのだとか。

 

そんな話をしながらも、山手線は引っ切り無しにここを通る。
一基だけ残った遮断機がその自己主張をする様に、
しかし静かに警報音を鳴らして、町中に佇んでいる。 

 


よく見ると踏切には【第二中里踏切】の文字。
【第一】はとうの昔に無くなったのだとか。時代の変化の中で遺された踏切。
ようやく出会えた山手線唯一の踏切の姿は、何だか少しだけ物悲しかった。

 

メルシー「なにちょっと感傷的になってるの? ほら、後ろを見てごらん!」
井門P「な…なにこの巨大なゴルフボール…。」

 

 

 


巨大なゴルフボールと踏切の音を録る、まるで"音鉄"のような佐々木D


 




踏切の目の前にはゴルフ用品メーカーのライト株式会社があり、
巨大なゴルフボールが(直径約4m)!
もし山手線唯一の踏切に出会いたければ、このボールオブジェを目印にすると良いかも(笑)

 

◆◆◆ 


3年前から言っていた踏切も見られたし、久保田のモテキも終わったし、
今回の山手線ぶらりの山はもう越えられたんぢゃないのかしら?

 

 

メルシー「何をすっとぼけた事言ってるの!? 


ここから駒込~田端表情変わってくるんだよ!」

佐々木「本当ですよ、激辛ばか!」
久保田「ばーか、ばーか。」

 

 

担当Pだろうが何だろうが、浴びせられる言葉は容赦が無い。
唇を噛み締めて歩みを進めていくと、大きなお寺が見えてきた。
【大龍寺】と書かれた立派なお寺だが…入口に碑が建てられている。 


そこには【子規】の文字が書かれているではありませんか。

何を隠そう、ここは正岡子規の墓があるお寺【大龍寺】。
子規は生前弟子達に墓所は静かな場所が良いと言っていたそうで、
当時はこの辺りも随分と静かな場所だったのでしょう。
この日は子規の墓に入る事は出来なかったのだけど、子規に思いを馳せる事は出来た。

 

 

 

 

 







クリックすると看板の文字が読めるよ!


 



そして大龍寺の隣には田端八幡神社が。
ここは江戸時代の田端村の鎮守だったそうで、当然ぶらりロケで神社に遭ったらお参りです!

 

 

 

 

 










クリックすると看板の文字が読めるよ!


 

 




八幡坂通りをのんびり歩く一行。 


何だか今回のぶらりは『正調ぶらり旅』な気がするなぁ。

 

 

 

メルシー「だって今回のロケ、一箇所しかブッキングしてないもの。」 


井門・佐々木「えっ!!!!!!

 

 

 

なんと言う事でしょう、毎回ロケに行くとゴリゴリのスケジュールを入れるメルシーさんが、
今回はわずか一箇所のみのブッキングとは…でも今回はそれで良い気がするのです。
町の雰囲気とかこの空気感とか、人の話も大事だけど“ぶらりそのもの”を大事にしたい。
そしてそこで出会った偶然から、町の様子が分かればこれぞぶらりの真骨頂ぢゃないか! 

 

 


カメラマンの久保田君も、アングルはまるで【ぶら○モリ】である。

 

 

 

久保田「向こうは竿があるんでしょうけど、
こっちは三脚伸ばして手持ちでやるしか無いっすね!」

 

 

 

良いぞ良いぞ、それこそ【山手線ぶらり】ではありませんか。
工夫こそ、予算の少ない番組の肝なのだ!

 

 

メルシー「はい、箸と500円。」 


井門P「は??」
メルシー「ちょっと賑やかな場所に出て来たと思わない?」
井門P「確かに“ぶら久保田”のカメラアングルに気を取られていたけど…。」

 

メルシー「ここが都内でも有数の味のある商店街“田端銀座商店街”なんだよ!」

 

 

 

 

 




 

 

 


目の前に広がるのが激安商店街としても名高い“田端銀座商店街”。
八百屋さんやお肉屋さん、お惣菜屋さんなどが軒先で色んな食べ物を売り出しているのだ!
300mにおよそ50軒のお店が並ぶのだが、
メルシー氏はここで井門に500円で買い食いして良いよ、と言うのだ。
そうは言っても500円である。お店なんかそんなに廻れ無いよと思うでしょ?
実際に廻ってみると、これがとんでもなく安くて旨いものばかり!

 

 

まず500円を渡されたすぐ近くにあった【さとみや豆腐店】。
突然の訪問だったにも関わらず、看板娘(とおぼしき美しいお嬢さん)と御主人が笑顔で登場!
ここのお豆腐屋さんも軒先に揚げ物とか、おぼろ豆腐とか生麩とか色々売ってるんです~!
突然現れたヒゲモヒカン(手にはしっかりと箸まで)に、お勧めを教えてくれる。

 

 

 

 

 







 

 

 


ご主人「今日は何と言っても北海道産の大豆を使った絹ごし豆腐! これに決まり!」 


井門「僕は道産子ですからね、“北海道産”という言葉には厳しいですよぉ!」 

 


ご主人「良いから食べてみなって。そんじょそこらの豆腐にゃ負けないから!」

 

 

そう言われて豆腐を見てみると、まず色が違う。 

 


明らかに濃厚な色をしているのです。そしてふわっと香る豆腐の良い匂い
待ち切れずに箸を豆腐に入れてみる…その感触が凄い。 

 


すーっと入るというより、ぬぬぬーっと入っていくのです。一口ぱくり。

 

 

井門「これはもう、豆腐のクリームですね!!」
ご主人「はははっ、そうだろう? 濃厚だろう?」
井門「豆腐なのに口の中でとろりと溶けていく感じです。そして残る大豆の香りの強さ。
絹ごしなんだけど、纏わりつく様な、少しエロティックでもある…。」

 

 

 




これが北海道産の大豆を使用した、きぬ豆富!








 

 

 

こんな素敵な豆腐がなんと一丁200円とくれば、それはもう買いでしょう。
*余った豆腐は持ち帰って晩酌のアテにしました!
いきなりこんな美味しい豆腐に出会えて、衝撃ですよ田端銀座商店街。
その他にも右も左も美味しそうな店が軒を連ねています。

 

 

 


お魚屋さんの店先では魚を焼いて売っている!




お好み焼き屋さんの店先ではたこ焼きを販売!


 

 

 

 

 

メルシー「ね? だから言ったでしょ? 


あそこの“おでん種専門店”も気にならない?」 


佐々木「おぉ~、良い感じぢゃないっすか!」 


久保田「あそこは旨い。絶対に旨い。

 

 

 

もはや喋り手より先に反応するスタッフ一同。
反射速度だけなら戦闘機パイロット並であります。

 

 

『おでん種 佃忠』

なんと明治25年に日本橋で創業したという歴史ある“おでん種専門店”。
店先にはおでん種だけ並ぶショーケースと、その場で食べる様に出汁と共に種が浮かぶワゴンが。
その中には“ちくわぶ”“さつま揚げ”“大根”“卵”に“昆布”などの定番と、
“ソーセージ揚げ”や“シュウマイ揚げ”などの変わり種が醤油色の関東出汁に浮かんでいるのだ。

 

 

 

 

 













こぶ25円、つみれ30円、
ちくわぶや玉子などは50円、安っ!!






 

 

 

井門「お姉さん、おすすめって何?」
お姉さん「どれもオススメなんだけどね~、このボールとシュウマイ揚げはどう?」
井門「ぢゃあ、それ!」
お姉さん「はい、2種類で180円ね!」

 

 

 

ボールは魚のすり身をボール状にして4つを串に刺した物。
シュウマイ揚げはシュウマイをすり身で囲むようにした種でボリューム満点。
取り皿の端っこに辛子を塗ってもらって、おつゆをたっぷり。いただきまーす!

 

 

 

 


店の横のベンチでおでんを堪能~っ




「久保田君あ~ん!」「あちちちちっ!」
「お前はダチョウの上島かっ!」「(一同爆笑)」



 





出汁がおでんにしみてて、じゅわ~っとして最高に旨い!
我慢出来ないといった表情の佐々木&久保田にも食べさせてみる…。

 

 

 

佐々木&久保田「ウマ━━(゚Д゚)━━━!!!!!

 

 

 

なかなか下町の味と触れ合う事は東京で暮らしていても出来なかったりする。
しかも“美味しい下町の味”となると尚更だ。
だけどこの田端銀座は、いとも簡単にそれを叶えてくれる。
地方出身者の僕が憧れた下町の味がここにあるんだ。

 

 

 

お姉さん「この辺の良い所はアットホームな所だろうね。皆、気の良い人ばっかりで…。」 


お婆ちゃん「ねぇねぇ、これさっきの御礼お菓子買ってきたのよぉ。」 


お姉さん「えっ! だってさっきの福引券だよ!」 


お婆ちゃん「良いの良いの、いつも美味しいおでん食べさせて貰ってるんだから!」 


お姉さん「(笑)有難うございます~!」 


――お婆ちゃん、笑顔でお店を去っていく。それを見ながらお姉さんが僕らに一言。――

お姉さん「ね?(笑)

 

 

 

 

はい、よーく分かりました(笑)
おでんと人情でポカポカになった僕らは、商店街を進んでいく。
丁度夕方に差しかかった所だからか、買い物客で商店街の賑わいは更に増していく。
商店街の道幅も良いのだ。ちょうど自転車が2台、余裕を持って通れるような道幅。
そこを子供づれ、お年寄り、近所の小学生なんかが楽しそうに買い物袋を提げて歩いている。
すると一際煌々と明かりを照らすお店を見つけた! 

 


『宮川鶏肉店』

 

1970年から愛されて40年のお店がこちらの鶏肉屋さん。
店先には焼鳥のガス台があって、そこで焼いた鶏肉が並んでいて、フライドチキンなんかもある。
あ~、照り焼きも旨そうな照りを出してるぢゃないですか!?

 

 

















井門「あの、こちらのお勧めはなんですか?」 


ご主人「お! それならここの“つくねだんご”だな。」 


井門「おいくらですか?」 


ご主人「1つ10円。」 


井門「キ・キタ━━━━━━(゚)━━━━━━!!!!

 

 

見た目は指でOKマークを作ってその中に入るくらいの“チキンナゲット”ですよ。 


カラリと揚げてあって、いかにも美味しそう。しかもこの値段、始めてからずっと変えてない。 


どうして? ってご主人に聞くと『ただの客寄せよぉ!!』と言うんだけど、
本当は違う。昔、お腹を空かせた子供達が、ショーケースに並ぶお惣菜を物欲しそうに見ていた。
それでご主人は“あぁ、この子達のお小遣いでも買える物を作ろう”と決意したんだとか。 


そこで完成したのが、この“つくねだんご”なのだ。 


爪楊枝に刺されたそれを一口でパクり。
“これで10円なのか!?”と唸ってしまう程、鶏肉屋さんのナゲットは旨い(笑)
カリッ、サクッ、ジュワ~ッが口の中いっぱいに広がっていく。これで10円。
スタッフの分も買ったから、4つで40円!

 

 

“つくねだんご”の中には、御主人優しさがたっぷり詰まっているのです。

 

 

 

 

 

 


1個10円のつくねだんご。"やじきたが
きました"とも書いて欲しいなぁ。







 




佐々木「いやぁ、この商店街良いですね!」
メルシー「でしょう? 近くにあったら嬉しい商店街だよね?」
久保田「なんか久し振りに故郷を思い出しました。」 


井門「ここまでで使った金額 420円だもの。」 


女性「あのすみません、何を録ってるんですか? 


一行「あ、あのこれはラジオの取材で、えっと商店会長さんにはOK貰っていて、あのその…。」

 

 

 

そうなのだ、我々ラジオ班は傍から見ると何をしているか分からない集団。
TVだとスタッフの人数も多いし、カメラで何をしているか分かる。 


ところがラジオは人数が少ない上に、この番組に関しては一応カメラも一人いるので、 


そこそこに妖しさが増すのである。だから唐突な“何を録ってる?”の質問に、 


必要以上にドギマギしてしまうのだ。語尾が“あのその…になるのは、
そういう理由からなのだ。あのもし良かったら24日この僕と…あのその…なのだ(謎)

 

 

 

女性「いやだ、注意している訳じゃなくて(笑)
ウチもなかなか古い店ですからちょっと覗いていきませんか?」
一行「(胸を撫で下ろし)良かった~、もちろんです!」

 

 

 

『栄屋食料品店』

創業は何と昭和9年からだというこのお店、軒先で自家製のぬか漬けを売っている。
店自体も随分と歴史を感じさせるが、聞けば昭和20年代からの建物だそうだ。
ぬか床もお姉さんのお婆ちゃんの時代からの物だそうで、その歴史は只者ではない!

 

 

 

 

 








店先には自家製の漬け物が所狭しと並ぶ



 

 

女性「うちみたいに3代目の店もここは多いですよ。
だから昔なんかは葬式になるとそれぞれの家に手伝いに行ってね、
それこそ“お勝手(台所)の位置まで分かっている”ってのを地でいってるんじゃないですか?」 


井門「お漬物自家製なんですね?」 


女性「大事に大事に継ぎ足したぬか床ですから、風味も良いですよ。」 


井門「ぢゃあ、キュウリのぬか漬けを1本ください!」

 

その漬かり具合によって、プレートに書かれる言葉も変わる。

“良く漬かってます”だったり“ちょいふる漬け”だったり、好みに応じてという事なのだ。

 

 

 







 

 

 

 



わざわざ包丁で切ってきてくれたものを、爪楊枝で一つぱくり。シャキシャキシャキ。 


うーん、これぞぬか漬けといった味であります。
良い塩梅の中にぬかの酸味が効いていて、これを細かく刻んでお茶漬けの上にかけても旨そう…。
昔からの味、と言う事は昔からずーっと通い続けている常連さんも多いんでしょうね?

 

 

女性「そうなんです。“ここの漬け物じゃないと食べない”って人もいるぐらいで(笑)
面白いのは、若いお父さんがお子さんを連れて“お父さんはここの漬け物で育ったんだ”って、 

 


そう言ってまたウチの漬け物買っていかれる事です。
きっとあの子も、ウチの漬け物で大きくなるんだろうなぁって。」
井門「この辺りの良い所は・・・?」

 

 

女性「人情でしょうね。それに尽きると思います。」

 

 

 

 

 







 





突然話しかけられた事も、その人懐っこさも、この街の人情が語っている。
昔のこの辺りはどんな感じだったんだろう??
するとそのヒントになりそうなプレートが実は町のあちこちに建てられているのだ!
『田端区民センター』の辺りに来た時にメルシーさんが呼びとめた。

 

メルシー「ほら、そこにプレートがあるでしょ? 読んでみて。」
佐々木「早く読みなさいよ、この激辛ばか。」
久保田「ばーか、ばーか。」

 

くっ…何故にここで前々回の激辛ロケが引きずられているかは分からないが、
とにかく目の前にあるプレートを読んでみようぢゃないの。なになに?
『小杉放庵(画家・歌人 明治14年~昭和39年)は明治33年、
〈田端文士芸術家〉第1号として田端163(現・3-4)番地に転入しました。
明治40年、当地155(現・3-16)番地に2階建て家屋を築き、
昭和20年まで居住しました。その間、放庵は美術文芸雑誌『方寸』の同人として 


漫画や挿絵を担当、また太平洋画会・日本美術院展への出品、
春陽会の創立などの業績を残しました。 


一方、テニスを中心とした社交場「ポプラ倶楽部」の創設をはじめ、
田端人たちの交流会「道閑会」にも参加し、 


芥川龍之介ら文士たちとも幅広く交流しました。』

 

 

えっ!? 芥川龍之介って田端に住んでたの??
小杉放庵って、田端の文士って…どういう事?
よーくプレートの地図を見ると、田川水泡だの小林秀雄だの菊池寛の名前まで出てくる。
我々はこの超有名人達の旧居跡地を少しぶらりしながら、

 

 

田端で暮らした文士達の歴史を探るべく『田端文士村記念館』へと向かった。

 

 

 

 

 


小杉放庵が住んでいた場所は
田端区民センターに!




クリックすると看板の文字が読めるよ!






工事現場と古い民家の間にポプラ坂が!




ポプラ倶楽部のあった場所は、今は保育園に!




クリックすると看板の文字が読めるよ!



住宅街の路地を進むと…




室生犀星などが住んでいた場所に。
今はマンションでした。




クリックすると看板の文字が読めるよ!




クリックすると看板の文字が読めるよ!


 

 


――文士村記念館への道すがら――

 

井門「いやぁ、この辺りは下町の風情と新しいマンションが交差してる感じがするね。」
メルシー「あのアパートなんて、もう築50~60年くらい経っててもおかしくないね。」
久保田「いわゆる狭小住宅が並んでいるあたり、東京って感じもしますね。」 


佐々木「あっ、ちゃんとアンテナ地デジ対応だ。」
YAJIKITAで一番電波と機材に煩い男:佐々木。
我々が町の歴史の移り変わりに思いを馳せているにも関わらず、
一人だけ興味のベクトルがアンテナに向いている。 


佐々木アンテナアンテナに向いているのだ!

いかに喋り手の井門が良いコメントを言おうとしたって、
途中で自分の気になったアンテナ関係の話題があると、録音中だろうがカットインしてくる!
ぶらり中に彼の口から出て来た言葉は主に以下の言葉だ。
【地デジ対応】【あのアンテナ高そう】【あれは無線か何かぢゃないか?】【アンテナの組み方】
【俺ならこう立てる】【あれは良いアンテナですね】【電気屋】etc.


メルシーさんが【電車系】なら佐々木氏は【電波系】。



ヤジキタは心強いスタッフに囲まれて、私も安心なのでございます。

 

 

 

 

 






 

 

『田端文士村記念館』

JR田端駅からすぐの場所にあるこちらは、
様々な歴史的資料から田端に暮らした文士の姿を浮き彫りにし、
更に彼らの作品を展示する事でより田端と文士・芸術家の繋がりを明白にする場所になっている。
隣の部屋から素敵なママさんのコーラスの歌声が響く中、 


こちらの研究員:黒崎力弥さんにお話を伺った。

 

 

記念館の中に入るとまず、かつての田端の地図が壁に掛けられているのが目に留まる。
この地図も立体的な造りになっていて、文士の名前が暮らした場所に貼られている。
こうして見ると、田端で暮らした有名な芸術家・文士の数のなんと多い事か。
小杉放庵然り、芥川龍之介、平塚らいてう、室生犀星、菊池寛などなど。
錚々たる顔ぶれが、この田端で暮らしていたと言う事か…。

 

 

 

 


名前の入ったプレートの場所に文士や芸術家が住んでいた!


 

 

 

ちなみに【田端文士村記念館】のHPにはこんな風に書いてある。
「田端は、明治の中頃、雑木林や田畑の広がる閑静な農村でした。
しかし、上野に東京美術学校(現、東京芸大)が開校されると、
次第に若い芸術家が住むようになりました。
明治33年に小杉放庵(洋画)が下宿し、36年に板谷波山(陶芸)が田端に窯を築くと、
その縁もあって、吉田三郎(彫塑)・香取秀真(鋳金)・山本鼎(洋画)らが
次々と田端に移ってきました。
画家を中心に“ポプラ倶楽部”という社交の場も出来、まさに<芸術家村>となりました。
大正3年、芥川龍之介(小説家)が、5年、室生犀星(詩人・小説家)が転居してきました。
引き続いて、萩原朔太郎(詩人)・菊池寛(小説家)・堀辰雄(小説家)・
佐多稲子(小説家)らも田端に集まりました。
こうして大正末期から昭和のはじめにかけての田端は<文士村>と呼ばれるようになったのです。
当館は、田端で活躍した芸術家や文士の功績を次代に継承し、
紹介することを目的として設立されました。」(HPより抜粋)

 

 

井門「黒崎さん、小杉放庵という人物はどんな人だったんですか?」
黒崎「田端に文士・芸術家が集まる最初の人ですね。明治・大正・昭和を代表する洋画家です。 


東大安田講堂壁画や、都市対抗野球の黒獅子旗も放庵の作品です。」
井門「凄い人ぢゃないですか!? 日本美術院との関係は?」
黒崎「はい、実は放庵は横山大観の親友で大観の誘いで美術院の洋画部に在籍したのですが、
大観と大喧嘩をしまして…日本美術院を脱会したんです。 


ちなみに放庵が脱会し、洋画部は無くなりました。」 


井門「もしそのまま在籍していたら、日本洋画界変わっていた…かも?」 

 


黒崎「実は大観生涯、放庵を日本美術院から失った事を後悔していたそうです。」

 

 

うーん…しかしそんな凄い人が田端にいたとは…。
しかも放庵だけぢゃなくて、誰もが知っている超有名人達が集まっていたとは。
田端の(当時は村)雰囲気が何か文士・芸術家の肌に合っていたのかもしれないなぁ。

 

 

 

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