会津若松・新島八重の歴史を探る旅|旅人:工藤彰乃

2013-01-05

 

今回のYAJIKITAは、会津若松。
2013年の大河ドラマ「八重の桜」の舞台で、主人公の新島八重の出身地。福島県には、キャンプやスキーなどで訪れたことはありましたが、会津若松は初めてです。新島八重がどんな幼少期を迎えたのか歴史を少しでも紐解くことが出来たらと向かいました。

 

が…、心配が一つ。私は歴史に弱いこと。大丈夫かなぁ。

 

会津若松の駅を出ると、早速「八重の桜」ののぼりがありました。「幕末のジャンヌ・ダルク」と書いてあるのですが、どうしてそう呼ばれるようになったのか、新島八重という女性に興味が湧きます。また、会津藩の銅像もあって歴史のある街なのだと感じさせてくれました。

 

 

 

 

 


会津若松に着いて、まずは一安心。「八重の桜」プロジェクト対策室の一条幸徳さんが案内してくださるとのこと。いろいろと詳しいお話を聞いてみよう!

 

最初に向かったのは、新島八重の実家があったという場所。
現在は普通の住宅地で、その一角が駐車場になっていて看板がたっています。そこには、新島八重が住んでいたころの住宅地図のようなものが書いてありました。一条さんが「看板で見るとあまり分からないのですが、新島八重の家は周りと比べると小さく見えますが、今の家の2軒×3軒分はあるんですよ」と。想像すると、とても大きなお屋敷だとわかり、驚きました。

 

 

 

 

 

新島八重の父は山本権八という砲術の先生。母は佐久という礼儀を重んじる女性。兄と弟がいたという新島八重は幼少期から活発だったそうで、石投げなどの遊びも男の子と同じようにやり、13歳の頃には四斗俵(約60キロ)を肩まで上げ下げするような逞しい女の子だったそうです。

 

そして、兄や父の影響もあってか、女の子が興味を示さないような砲術も習い、人に教える程の知識と技術も身につけていたのだそうです。隣に住んでいた少年の伊藤悌次郎に教えることもあり、臆病な悌次郎を叱り飛ばしていたというので、本当に活発な女の子だったのだと感じました。

 

看板のある駐車場から30メートルほど離れたところには、新島八重生誕地の碑がありました。そこは、普通のお宅の前。土地を提供してくださったということですが、家の門の前にある碑は、何とも不思議な感じ。行かれる方は、迷惑のかからないよう静かに行ってきてください。

 

 

 



 

 

続いて向かったのは、東北随一の美しいお城として有名な「鶴ヶ城」。お堀の周りを一周してから、御殿の脇にある「新島八重」展へ。

 

 

 



 

中へ入ると、奥から何か大きな話声?ちょうど、紙芝が始まったというので、すぐに見にいきました。すると、新島八重の鶴ヶ城での活躍や時代背景など紙芝居を使って説明しています。戦争が始まり、大砲を「打て~!」と話し手の女性がいうと「ドン!!」という大きな太鼓の音。「打て~!」「ドン!」「打て~!打て~!!」「ドン!ドン!」どうやら訪れていた小さな子供がお手伝いをしているようで、とても微笑ましいです。
そんな演出もありながら進められる紙芝居は、歴史に弱い私にも良く分かる内容で、鶴ヶ城での出来事が理解できました。帰りには、その内容がかかれた小冊子もいただけたので、帰ってからも、改めて読み深めることもできました。この紙芝居だけでも新島八重についてわかるので、何も知らない方は、ぜひ立ち寄ってみてください。
ちなみに、「大政奉還」という言葉すら学校で習って以来、すっかり忘れていたのですが、ここで初めてちゃんと理解したように思います(恥ずかしながら…)。

 

 

 



 

その他にも館内には、新島八重の幼少期からの生い立ち、出来事などがパネルで紹介してあり、さらに興味も理解も深まります。武器庫も再現されていて、当時を偲ぶこともできました。

 

「戊辰戦争」が始まったのは、慶應4年。1月の京都の鳥羽伏見で起こった戦い(戊辰戦争の始まり)で、新島八重の弟の三郎は命を落としてしまい、兄の覚馬は政府軍の捕虜になってしまいました。弟の三郎の衣服のみが実家に帰ってきたため、八重は髪を切り、弟の服を着て七装式のスペンサー銃をもって鶴ヶ城へ。鉄砲を持って、男性と同じように戦い、それだけでなく、他の女性たちと同じように食事の支度をしたり、ケガ人の手当をしたりしていたというのですから、なんてパワフルな女性なのだろうと思います。
子供の頃から習っていた砲術が、こんな形で役立つなんて寂しいことですが、砲術を学んでいたからこそ、戦いたかったのではと思いました。

 

会津藩の奮闘もむなしく、同じ年の9月22日に政府軍に降伏することになったのですが、鶴ヶ城は落城することはなかったのです。それは、敵が攻めてきた時に守れるようにお城の周辺にもお城にもたくさんの工夫がされていたから。例えば、敵が攻めてくる方向がある程度限られていて、お堀を超える前に攻撃できる造りになっていたり、外からはわからないのですが、お城の塀を登ってくる兵士に上から岩や熱湯などを落として撃退できるような造りになっていたり。再現されているので、ぜひ見て欲しいです。

 

 

 

 





 

降伏してしまった後、新島八重は鶴ヶ城三の丸にあった雑物蔵に和歌をきざんだそうです。
「あすの夜は、何処の誰か眺むらん なれし御城に 残す月影」意味は、
「明日からは、どこの誰が眺めるのだろうか いつも見ていたこの鶴ヶ城の姿を…」
八重のせつない想いが伝わってきました。

 

博物館にはお土産売り場もあり、会津もめんの小物なども置いてあります。大河ドラマのポスターで綾瀬はるかさんが着ていた着物と同じ柄のランチョンマットもあり、仕事を忘れて買い物したくなりました。とはいえ、次へ。

 

 

 


城内を案内してくれた解説ガイド員 長水優貴さん

 

 

続いて向かったのは、鶴ヶ城から車で15分ほどのところにある「大龍寺」。
新島八重の先祖が眠っているという山本家の菩提寺です。車を止めて、お寺へ向かっていると、階段のところに小さな看板がありました。見てみると「修学旅行の皆さまへ。幽霊の足跡は、現在は見られません」と書いてあります。どういうことかと、一条さんに聞いてみると、お寺の中に、そのような噂になった場所があり、修学旅行の生徒がよく訪れていたとのこと。しかし、現在は立ち入りが出来なくなったので、見られないということでした。私も少し興味があったので、見られなくて残念でした。

 

 

 



 

さて、本題に戻ります。階段を登った正面に石碑があり、そこには戊辰戦争で亡くなった方たちの名前が掘られていました。右上から順に位の高い人なのだそうですが、そのたくさんの名前が並んでいる中間ほどのところに「山本権八」「山本覚馬」(新島八重の父と兄の名前)が刻まれていました。

 

 

その石碑から山本家のお墓があるところまで、看板がつくられていました。その案内の通りに奥へ進んでいくと、周りとは違う一角があります。なぜなら、通常は一段高くなっているところに墓石が一つなのですが、そこだけは広くできていて、いくつもの墓石が並んでいたからです。
新島八重が生前、しかも亡くなる少し前に訪れて、点在していた山本家のお墓をまとめたのだそうです。それだけ、家族への愛が深かったのだと感じさせてくれます。
その際に建てたという墓標には、新島八重が書いたという「山本家の墓」の文字がありました。直筆だというのが感慨深く、また達筆だと感心しながら眺めました。

 

 

 

 





 

しかし、新島八重のお墓はここではなく、晩年に過ごした京都にあるということです。京都に行った新島八重の晩年についても、いろいろと教えていただきました。
戊辰戦争の跡、八重と母と姪と共に、兄の山本覚馬を頼って京都へ。そこで山本覚馬と交流のあった新島襄と出会い結婚。新島襄は、アメリカ帰りの帰国子女だったために、キリスト教式の結婚式をあげ、西洋文化を取り入れた生活をしていたそうです。この当時としては、珍しいというのを通り越して、突拍子もないことに、レディーファーストだったり、夫を「ジョー」と呼び捨てにしたりしたために、悪妻だと罵られたそうですが、新島八重はまるで気にせず生活していたのだそうです。そんな八重の生き様を夫の新島襄が「ハンサムウーマン」と称したそうです。

 

また、山本覚馬と新島襄が(新島八重と婚約した)明治8年に同志社英学校を開校し、現在の同志社大学の基礎となったと聞き、驚きました。のちに、新島八重も同志社の発展と経営に努め、社会事業などへの貢献も積極的に行ったのだそうです。
昭和7年に87歳で亡くなった新島八重は、現在は同志社墓地で襄の隣に眠っているということです。

 

新島八重の話は、聞けば聞くほど興味がわいてきました。頭が良く、周りの評価を気にすることなく、自分の信念を貫いた女性なのだとわかります。本当にカッコイイ女性!
まさに、ハンサムウーマン!
私も、信念を貫ける(それほどの信念もないように思いますが…苦笑)そんな女性になりたいと思わずにはいられませんでした。

 

大河ドラマで注目されることになりましたが、新島八重を知ることができて、本当に良かったと思いました。歴史に関して弱いと苦手意識がありましたが、今回の旅で歴史は知れば知るほど楽しいと実感できました。しかも、その土地を訪れて、見たり触れたりすることがとても大切だということも…。
みなさんも、ぜひ会津若松を訪れて新島八重の魅力を感じてください。詳しい歴史はもちろん、まだまだ伝えきれないことがたくさんありますので。