震災から2年…忘れないで。宮城編|旅人:井門宗之
2013-03-07
2013年3月11日。
東日本大震災の発生から2年という月日が経とうとしています。
2年って、一言で言っても被災地の2年とそれ以外の地域の2年では大きく違う。
徐々に報道が減っていく2年と、未だ仮設住宅で過ごす2年。
生まれた土地にまだ帰れない2年と、自分の生まれた土地に当たり前の様に暮らす2年。
この2年は皆さんにとってどんな2年だったでしょうか。
YAJIKITAが被災地の取材を初めて行ったのが2011年5月。
震災から2カ月が経った頃でした。
当時は津波の傷跡も深く、…うん、それは本当に深く残っていて、
日本全国のナンバーを携えた警察車両やボランティアの車両が忙しく走り回っていました。
耳を澄ますとあちこちから聞こえてくる重機の作業音。
道路の脇には、天地を逆さまに横たわる無数の車。
風が運んでくる強い潮の匂い…。
いま目を閉じても、あの光景が強く、強く蘇ります。
あれから2年が経ち、被災地の現状がどう推移してきたのか。
僕らも被災地の取材を重ねる中で、様々な事が見えてきました。
そして様々な事が見えてきたからこそ、断言します。
YAJIKITAはこれからも被災地の取材を続けていきます。
広く全国のリスナーさんに伝え続けていきます。
だってね、また会いたい人が沢山いるんですもん。
今頃どんな風に過ごされているかなって気になる人が沢山いるんですもん。
あの宿の御主人は元気かな、あの酒蔵は美味しいお酒を作っているかな…。
取材を続ける度に、そんな方々との出会いが必ず生まれるんです。
今回のYAJIKITAは復興応援SP。
過去の取材でお会いした方々にもう一度会いに行く旅、という裏テーマ付き。
“お変わりありませんか?その後、元気にされてますか?”を言いに行く旅です。
そして僕はこの旅のスタートから、なんだか胸が熱くなったんだよなぁ…。
石巻市の旧北上川の中州にある【石ノ森萬画館】。
言わずと知れた宮城出身の漫画家・石ノ森章太郎先生のミュージアムです。
|
初めてここを訪れた時は、その傷跡の深さに僕らは言葉を失いました。
入口は全てベニヤ板で覆われ、見渡す限り、周りも津波で破壊された瓦礫の山。
ここを目の当たりにした時に、どう喋って良いか本当に悩んだ。
「取材で来た僕らが、簡単な言葉でこの光景を語っちゃダメだろう」って。
―誰かの大切な物が泥まみれになって破壊されている。
沢山の方が命を失っている。―
そんな事をずっと考えていて、冗談じゃなく言葉が出なかった。
そんな時、作業をされていた自衛隊の方に取材班がこんな事を言われたんです。
――どうか、この現状を伝えて下さい。――
思い返せば僕らがあの取材で言葉を紡げたのも、
あの自衛隊の方の言葉があったからかもしれません。
あの時から2年。
2年前はまだまだ復旧のめどすら立っていなかった石ノ森萬画館も、
ようやく今月23日にリニューアルOPENを果たす事になりました!
実は去年も石巻市を訪れた時に萬画館の前を通ったりして、
スタッフとも「再開はもう少し先かな…」なんて話していたんです。
それがついに復活です、ヒーローが石巻に戻ってくるんです!
入口に車をつけると、エントランスまでに芝が植えられていて緑がキラキラしている。
ちょうど再開に向けて工事中だったのですが、入口を閉じていたベニヤ板もなくなり、
館内には何やら真新しい展示物も並んでいる!?
ここでお話を伺ったのは、現地にて石ノ森萬画館を管理運営している、
「街づくりまんぼう」の本郷由華さんです。
|
震災直後からここまで、様々な苦難を乗り越えての再開。
本郷さんにお会いして、再開直前の館内でお話を伺う段になって、
何だか胸がいっぱいになりました。
井門「本郷さん…本当に、本当に良かったですね。
もう出てくる言葉がそれしかないや…。」
本郷「…有り難うございます!!」
石巻の方々にとってもヒーローの集まる萬画館は特別な存在。
それがようやく再開するんです。
本郷さんの表情にも、少しだけ安堵が窺えるようです。
…と、そう言えば僕らが萬画館に初めて来たときにあった、
寄せ書きが書かれたベニヤ板は…。
本郷「あの寄せ書きがされたベニヤ板ですね!
結局寄せ書きがいっぱいになったら新しい物に替えて…を繰り返し、
最終的には40枚くらいになったんです。」
井門「それだけ多くの人がメッセージを残していったってことですか?」
本郷「はい!」
震災直後に被災地に寄せられた様々な励ましの言葉。
僕も喋りを生業としていて、あんなにも“言葉の力”の強さを実感した事はないです。
石ノ森萬画館にはそれが手書きで、しかも世界中から集まった。
それだけここに寄せる思い、いや、石巻に寄せる思いが強かったんだろうな。
しかしこれだけのヒーローが復活したんだ。
その中でも本郷さんが一番好きなヒーローってなんだろう…。
本郷「ははは(笑)そうですね…。
やっぱり石巻のご当地ヒーロー、シージェッター海斗ですね!」
|
と言う訳で、外に展示してある海斗の前で一枚。
本郷「そう言えばそこのスロープに石ノ森先生の“手”のブロンズ像があるんですけど、
それは津波にも全く動じずに当時のまま、そこにあるんですよ!」
井門「これは先生の手の大きさ、そのままですか?」
本郷「はい!ぜひ握手していって下さい!」
震災当時、被災地はどこも町から色彩が消えていた。
それは石ノ森萬画館も然りである。
しかし2年の月日が経ち、ついにこの町にヒーロー達が戻ってきたのだ。
勿論石巻には町の中に石ノ森章太郎先生が作り上げたキャラクターの像が並ぶが、
せっかくだ、3月23日にリニューアルオープンを迎える萬画館に、是非足を運んで下さい!
続いて僕らが会いに行ったのは、高栄水産の代表・高橋征信さん。
|
松島で牡蠣の養殖を行う高橋さんを訪ねたのは、こちらも2年前の5月だった。
当時津波によって全滅した松島の養殖牡蠣だったが、
奇跡的に種牡蠣が残ったというNewsを耳にして突然お邪魔した2年前。
高橋さんはその時、種牡蠣をまた一から松島湾に戻す作業の真っただ中でした。
仲間を失い辛い状況の中で、涙を浮かべながら松島の牡蠣の復活を話してくれた高橋さん。
僕はあの時の高橋さんの表情がずっと忘れられなかったんだよなぁ。
この日は小雪が舞い散る寒い日でしたが、
高橋さんは2年ぶりに会う僕らを温かく迎えてくれました。
|
久しぶりの高橋さんは、相変わらず優しげな表情で、
でも松島の牡蠣の現状を話してくれる時には、
時折厳しい表情でお話しをしてくれました。
――震災の翌年、牡蠣の漁獲高は7割程度まで復活したのだそうです。
震災前の漁獲高に戻るのにはもう少し時間がかかるであろうものの、
やはり松島に牡蠣は育つ!と確信した高橋さんは、
牡蠣筏の数を2割ほど増やしました。順調に育てば漁獲は震災前の水準に戻るかもしれない…。
そんな風に考えていた矢先、昨年夏の猛暑です。
そして更に追い打ちをかける様に、海が穏やかで海水温がなかなか下がっていかない。
高橋「そのせいもあって、牡蠣はほとんど死んでしまいました。
通常だとインターネットでご注文戴いて発送出来るんですけど、
今年は来て貰った人にしか牡蠣を分ける事ができません…。」
泣きっ面に蜂とは…この事である。
結局牡蠣は例年の1割程度しか獲れなかった。
牡蠣が死んでしまった理由がもう一つある。
それが牡蠣筏や牡蠣につく虫である。
高橋「震災の津波で、陸地だけではなく海底もえぐれてしまったんですよ。
その波が引いていく時、海底にあった海藻も根こそぎ持っていかれたんですよね。」
井門「となると、松島の海底には今、海藻がほとんど生えてない?」
高橋「そうです。海藻ってのは偉くて、
外の海流に乗ってやってくる様々な物が入ってくるのを止めてくれるんです。
その中には牡蠣や牡蠣筏をダメにする虫の卵もある。
ただ、現在は海底に海藻が生えていないので…。」
井門「そのまま牡蠣や筏に害虫の卵がついてしまうのか…。」
高橋さんは僕らにその害虫被害に遭った牡蠣を画像で見せてくれた。
確かにその被害は尋常なものではない。
井門「でも高橋さん、量は獲れなかったとは言え、
味は…間違いないんですよね?」
高橋「はい!勿論!今食べていきますか?」
“自分の育てた牡蠣には絶対の自信を持っている。
量は獲れなかったけど、ここにある牡蠣の味は間違いない。”
口には出さなかったけど、高橋さんの表情はそんな風に言っている様に見えた。
ここ松島の牡蠣の特徴は、その身の大きさもあるだろう。
通常牡蠣の貝殻に対し、身は3分の2程度が良いとこだ。
ところが松島の牡蠣は殻を開けると、そのほとんどが身なのである(個体差はあるけど)。
せっかくなので、直火で焼いた牡蠣を戴くことにした。
火にかけて程なくすると、殻の隙間から“しゅー”っと湯気が出てくる。
すると辺りにふわ~っと磯の良い香りが漂ってくるのだ。
井門「うわ~!香ばしい良い香りがしてきました!!」
高橋「(手際良く剥くと)はいどうぞ!」
井門「(じゅるじゅるじゅる…)!!!!!!!!!!」
殻いっぱいの牡蠣は、間違いなく松島の海の味がした。
濃厚で、旨味がたっぷりで。
井門「この味は後から振り返った時に“もう一回!!”ってなる味だね?」
ミラクル「これは…間違いなく旨い!!」
横山「美味しいねぇ…。」
慶吾「俺、実家に送る!」
かくして慶吾と井門は松島の牡蠣を東京へ送ったとさ(笑)
だって大ぶりの殻付き牡蠣が15個~20個入って1000円なんですよ!
高橋「今年は数が獲れなかったですが、
松島の牡蠣は間違いなく旨いので、是非皆さんも食べに来てください。」
高橋さんはリスナーさんに向けて最後にそんな事を話してくれました。
皆さんも松島に行った際は、高栄水産にぜひ足を運んで下さい!
あっ、余談ですが高橋さん、お嫁さん募集ですってよ(笑)
|
高栄水産を後にした僕らは、車中ではしばらく牡蠣の話でもちきりだった。
YAJIKITAではこれまでも様々な土地の牡蠣を頂いてきたのだが、
産地が違うとこうまで味に個性が出るんだなぁ、と。
確かに今年は様々な事が重なって松島の牡蠣は厳しい状況だったが、
高橋さんはそれでも“ひとつひとつ対応していくしかないですから”と仰っていた。
そうして前に向かって頑張る人を、応援しないなんて嘘だ。
僕らに出来る事、これからも考えていきます。
んで、美味しい牡蠣を食べにまた必ず来ますからね!
会いたかった人に会いに行く旅。
続いては塩釜のコミュニティFM「ベイウェーブ」さんであります。
震災直後ベイウェーブのスタジオは津波で被災しました。
地震当時は数日放送が止まっていましたが、
機材を塩釜市役所に移動させ、災害FMとしても様々な情報を発信。
2年前に訪れた時はまさに市役所の一角にブースを設けて、
そこから番組を放送している状況でした。
その後、スタジオは2011年の12月に新しい場所へ移転。
僕らは当時お話を伺った横田善光さんにお会いする為に、
再びベイウェーブさんを訪ねました。
|
横田「実はこのスタジオがある建物も、津波で1階部分は飲まれたんです。」
井門「って言っても横田さん、ここ1階じゃないですか!?」
横田「はい(笑)
当初はスタジオを移転する時に“高台へ!”って話もあったんです。
でもやっぱりこの局の名前が“ベイウェーブ”でしょ?
海に関係している。
なんて言ったら良いか…海からは逃げられないなって思ったんです。
ですからこの場所でまた新たなスタートを切りました。」
局には機材も沢山あり、スタッフのデスクも、
綺麗なスタジオも勿論完備している。
あの市役所で臨時災害放送をされていた時の面影は、当然ながら無くなっていた。
横田「あの時に一緒にいらしていた氏家さんには震災当初もお世話になって(笑)」
井門「そんな事を仰ってましたね(笑)
一緒にアンテナを立てたんだー!なんて言ってましたっけ。」
|
思い出話に自然と笑みがこぼれる。
ただそんな話をしている中で、横田さんの顔も少しだけ曇る話が。
以前は横田さんが塩釜の町のガイドマップを作っていたのだが、
震災から2年が経ち、あの頃にあった店が少しずつではあるが無くなってしまったというのだ。
横田「あの時にマップに書いた店が、今は無かったりして・・・。
消さなきゃいけないのが残念なんですよね。」
井門「そうですか…。」
横田「それでもやっぱりここは鮨の町でもあります。
また多くの方にお鮨を食べに来て頂きたいですね!」
|
横田さんの言葉、色々と心に残りました。
同じ放送に携わる者同士、また必ず会いにきますね。
あっ、もういいよとか言わないで(笑)
最後の場所は七ヶ浜町中央公民館にある「生涯学習センター」。
YAJIKITAとお付き合い頂いている皆さんの中には覚えてらっしゃる方もいるかも?
そうです、こちらは僕らが昨年ボランティア活動に参加した場所。
ここでチームYAJIKITAの全員が、
ボランティアセンターの隣にある公民館に臨時図書館を作ったのです!
勿論僕らの他に職員の方や、参加されている他のボランティアの皆さんもいらっしゃいました。
図書館を作るチームは大体15人程度だったでしょうか。
作業時間は3時間ほどを、みんなで一生懸命に動きました。
――僕らが手にしている本が、この町の人たちの手に渡る。
子供達がまた絵本を読めるようになる。――
そんな事を考えながら動いていると、
まだまだ季節は寒い時期だったのですが、作業の中盤では皆汗まみれでした(笑)
井門「実はあの図書館がどうなったのか、ずっと気になってたんだよね。」
横山「ひょっとしてもう移動してしまった…とかは無いよね?」
ミラクル「実は今回生涯学習センターの鈴木さんに電話をかけた時に、
“え?本当にまたいらっしゃるんですか?”みたいなテンションだったんだよね…。」
井門「ま・まさか、図書館が本当に移動しちゃったから、
いま来られても困る…的な感じなのかも!?」
ミラクル「いや、鈴木さんはそんな感じでも無かったんだけど…。
取り敢えず行ってみようよ!」
|
僕らを変わらず笑顔で迎えてくれたのは、
七ヶ浜町教育委員会生涯学習課の鈴木歩さん。
僕はここでもちょっと感動したんです。
前に訪れた時は作業に従事する為、鈴木さんはずっとマスク姿だったんだ。
それが今回はちゃんとそのお顔を見る事が出来た。
しかも僕らの心配を吹き飛ばすくらいの笑顔で待っててくださった。
井門「鈴木さん、ご無沙汰しています!」
鈴木「皆さん、本当にまた来てくださって…本当に有り難うございます!」
どうやら本当に僕らの心配は杞憂だったようだ。
そんな事を鈴木さんに話すと…
鈴木「(笑)そんなわけないじゃないですか!
図書館もきっと皆さん、びっくりしますよ!あっ、ちゃんとありますからね!」
建物に一歩入るとあの時の事が思い出される。
朝のマッチングで図書館作業が割り当てられた時のこと。
チーム代表でボランティアの皆さんの前で挨拶したこと。
皆で“おらほのラジオ体操”をやったこと。
途中で飲んだお味噌汁があったかくて、物凄く旨かったこと。
一緒に図書館づくりをした他のボランティアさんと、徐々に息が合ってきたこと。
そして何より、作業が終わった後のなんとも言えない達成感。
図書館(軽運動場)へと続く廊下を歩きながら、色んな事を思い出す。
慶吾なんかも「あっ、この部屋から本を出してきたなぁ」なんて反応したりして。
そう、僕らにとってもあの時の事はちょっと特別な事になっているのです。
鈴木「皆さん、着きましたよ!どうぞ!」
|
目の前に広がった図書館は、あの頃のままでした。
いや、あの頃よりも数段綺麗になっていました。
当時はとにかく3万冊の本と本棚をここに並べるのに必死だったのが、
分かり易く分類されて手書きの案内書まで添えられて、
並んだ本達が喜んでいるようにも見えます。
井門「鈴木さん、いやぁ…なんか感動しています。
綺麗になってたんですね、しかもこんなに。」
鈴木「最初に皆さんに運んで頂いた後、
司書の方のアドバイスで利用し易いように並べ替えたりしたんです。」
井門「僕らが並べた時は絵本の場所をどうしようかとか、
取り敢えず同じ本を並べる事に必死で、
その後の使い易さまで思いが至らなかったもんなぁ…。」
鈴木「でも皆さんが並べてくれたあの日は、
七ヶ浜町としてもとても大切な日になったんですよ。」
鈴木さん曰く、3万冊の本を並べた後に新聞記者が取材に来たという。
しかもそれが記事になって新聞に載ったというのだ。
(今はその記事が拡大コピーされて、入口の図書コーナーの棚に貼られています)
鈴木「七ヶ浜町はメディアの取材もそんなに多くなかった場所でした。
ですからYAJIKITAの皆さんがいらっしゃった時、とても嬉しかったんです。
しかも皆さん、また来て頂けました。
私、吉武さんから連絡があった時、ほんとうに嬉しかったんです。」
|
実は鈴木さんだけではなく、
ボランティアセンターの竹中さんも僕らの事を覚えていてくれたんです。
って言うか生涯学習センターに着いてすぐにボランティアセンターに移動。
30分くらいお茶飲みながらお話ししたんだよなぁ。
現在は以前の様に毎日ボランティアの作業があるわけではなく、
月に1度か2度、週末に作業があるようです。
それでも集まってくるボランティアの皆さんは僕らと同じ様に、
“前に来て、七ヶ浜の事が気になってまた来た人たち”だそう。
これは七ヶ浜だけの事ではなくて、
やっぱり行くと気になるんです。また会いたくなる人が必ず出てくる。
だからやっぱり、皆さんにも行って欲しいなと心から思うんです。
ちなみに、3月16日土曜日七ヶ浜復興応援サポータープロジェクト主催の、
“メモリアルイベント”が行われます。
当日は…午前中に海岸の清掃、午後に七ヶ浜国際村ホールで
メモリアルコンサートが開かれますので詳細はHPを是非チェックして下さい!
|
―――――――――――――――――――――――――――
振り返ればこの旅は、僕らが“もう一度会いたかった人達に会いにいく旅”でした。
震災から2年が経つと、少しずつ前に進んでる場所、厳しい状況が続く場所、様々です。
今回は宮城県を旅しましたが、被災地は少なからずどこも同じ様な状況かとも思います。
正直、震災の報道は少なくなりました。
だからこそこうした状況は、実際に来てみないと分かりません。
「今だから出来る事がある」。
ずっと僕も言い続けていますが、
今回取材して思ったのは「また今だから出来る事が増えたんじゃないか」という事です。
どうでしょう?
もしも余裕がある方は、御自身でこの場所に来てみませんか?
1度来れば、また会いたくなる人の数が増えます。
(東北はそういう人たちが多いんだ。)
そして会いたい人が増えるって事は、被災地が気になっていくって事です。
皆さんも“会いたい人”“行きたい場所”を増やしませんか?
僕らは皆さんのそんな場所や人を増やす為に、
今年も復興応援SPをお届し続けます。
そうそう毎回恒例なんですけど、
被災地を訪れた初回の旅日記からの抜粋。
こんな言葉で締められています。
『笑顔を取り戻すには、人の笑顔が必要だ。
人の笑顔が増えるには、被災地に住む人だけでは足りない。(中略)
あなたの笑顔はきっと、被災地の皆さんの笑顔を取り戻す為の、大切な支援になるのだろう。
出来る範囲で構わない、続けていく事が何よりも大切なのだ。 』
あれから2年。
いま被災地の方々はですね(特に観光地では)、
外から訪れた人たちを笑顔にしようと本当に頑張っていらっしゃいます。
それは勿論、この場所を再び訪れてもらう為にです。
行きましょう、あの時の気持ちを忘れない為に。
震災の記憶を風化させない為に。
|