東京発どこ行くツアー 両国編|旅人:井門宗之
2013-04-11
ごっつぁんです!!
自分、JFN出身、旅人部屋、YAJI錦です。
あっ、そこのアナタ!読み方は「やじきん」じゃなくて、「やじにしき」でごんす。(ごんす?)
今まで自分、日本全国津々浦々をウラウラウラ~っと旅してきました。
毎回“次回はどんな場所を旅するのかな?”
“どんな人に会えるのかな?”と楽しみにしてるでやんす。(やんす?)
そしたらアナタ、今回は自分にゆかりの深い場所だって言うではありませぬか!(もう色々…)
アタシは知ってるでゲス。
この番組のPが学生時代にこの町でアルバイトをしていた事を。
なんでも国技館でお茶屋さんの小僧をやっていたとか…。
*ヤジキタ豆知識ですよ、皆さん!
そう、今回は東京発どこ行くツアーシリーズ!!!
探訪する町は…両国!!
という訳で今回もぬるっと始まった旅日記。
番組本編とは違う味わいをお酒でも飲みながらゆるりと、ぬるりとお付き合い下さい。
今回の旅のパートナーは…音の魔術師、D:ゴルノ海!!
この人の旅のスケジュール組みも名人芸、作家:親分富士!!
若手の映像担当は、カメラ:橋本!!(幕下で名字だけの四股名とかあるもんね?)
して、YAJI魂を背負った不撓不屈の旅人、横綱井門山!!
…とまぁ、こんな感じです。えぇ、えぇ。
さて今回旅するエリア、両国という町はもちろん相撲の場所が行われる「両国国技館」でお馴染です。
この国技館、どこにあるのかと言えば…そう、駅前にございまして。
駅の西口改札を抜けるとすぐ見えるという近さなんです。
駅前で相撲を取れば、“俺、国技館で相撲を取った事あるぜ!”と言え…ないね。
ただ国技館が駅前すぐの場所にあるというのは事実。
これ、意外とご存知無かったという方も多いかもしれません。
そしてもう一つ、JR両国駅前にあってひと際目を引く建物が、
江戸東京博物館でございます!
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江戸東京博物館、個人的に大好きな博物館なんだよなぁ。
ここに来ると江戸時代の人の暮らしが体感できるのと、
明治時代に入ってからの東京の変遷が実によく分かるんです。
井門Pもレポーター時代に生中継でお世話になりましたし、
ヤジキタでもこちらはお世話になっている場所。
両国の町を語る上でこちらは外せない場所という事で、
学芸員の田中祐二さんにゆっくりしっかり館内をご案内頂きました!
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江戸東京博物館が開館したのは1993年です。
計算すると、なんとめでたい!今年で開館20周年!
それだけ訪れるお客さんを飽きさせない努力をされている。
田中「展示されている錦絵なんかも光の加減で色彩が劣化してしまうので、
2カ月に一度は展示品の入れ替えを行っています。
ですのでいらっしゃる度に変化を楽しんで頂けると思っています!」
井門「僕らが今いるのが6階ですけど、
ここ…下の階から吹き抜けになってるんですよね?」
田中「そうですね、5階と6階が吹き抜けになってまして、
常設展示のゾーンになっているんですけど、5階から6階の高さに聳える橋、見えますか?」
井門「そりゃもう、あんな巨大な橋ですもん。
これはこの博物館のシンボルでもありますよね?」
田中「はい、江戸時代に実際に掛けられていたサイズ…勿論長さは半分なんですが、
高さや幅は当時の大きさを再現した日本橋です!」
これで、半分の長さです |
凄いですよね…博物館の中に日本橋だもん。
当時から日本橋は街道の起点となる重要な役割を担っていたため、
こちら江戸東京博物館でもシンボルとしてとても大切な役割を担っている、と。
そう、訪れたお客さんは、まずはこの橋を渡って江戸ゾーンへと入っていくのです!
田中「橋を渡って…、当時の町人地と武家屋敷のジオラマが見えますか!?」
井門「見えてきましたよ!物凄い大きさじゃないですか!?
しかも武家と町人でどんな住み分けがされていたのか、
これ分かり易い地図もありますね~!」
当時の区分図によると江戸城を中心に放射線状にほとんどが武家のエリア。
では町人がどこに暮らしていたのかと言うと、
埋め立て前の沿岸地域…ですから今の下町浅草・上野あたりから品川あたり。
狭いエリアの中に人口が密集していたのだから、
“袖触れ合うも多生の縁”なんて言葉が生まれたのも頷けます。
長屋も隣近所も共同体として機能しなければ、
江戸の町で気持ちよくは暮らせなかったんだろうなぁ。
このジオラマには小さな双眼鏡が用意されていて、
町で暮らす町人の表情までを見てとる事が出来るのであります。これは楽しい!
1つ1つ、細かく作られています |
日本橋を渡って右が町人地のジオラマ、
今度は左側、武家屋敷のジオラマですが…これが絢爛豪華!!
一つの大名屋敷の規模が凄過ぎる。
観光地にあるような寺社仏閣の大きさ…とでも言いましょうか。
ここに大名が暮らしていたのだから、江戸時代の身分階級制度というのも分かり易い。
豪華な門が再現されています |
田中「今度は階下に行きましょう。エスカレーターで5階に降りていきます。」
井門「博物館の展示を回るのにエスカレーターってのも、規模が大きい証拠ですよね。」
田中「5階は江戸ゾーン、東京ゾーンに分かれています。
ただ、時代を追って回る感じに展示がなっていますので、
時代の流れを展示を見ながら感じる事が出来るんです。
ですから私たちの博物館は“江戸東京博物館”と、
“江戸”と“東京”の間に“・”を入れてないんですよ。」
江戸から東京へ…時代は一続きであるという事が、
実は博物館の名前にしっかりと表されていたのであります。
この5階の常設展示には江戸と東京を彩る大きな建物が展示されている(勿論復元だが)。
一つが江戸時代の町人の娯楽であった歌舞伎の舞台。
芝居小屋・中村座だ!
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HPから一部抜粋すると…
『(略)中村座の正面部分を、原寸大(間口11間、奥行3間)で復元、
芝居小屋がもっとも華やかな装いをみせる、
毎年11月に行われる顔見世興行を想定して作成しています。
右手に掛かる絵看板は元禄期以来芝居絵を専業とする、
鳥居派の技を継承する九代目鳥居清光の筆によるものです。』
とある。
実はこの中村座の先には、歌舞伎の舞台を再現した「助六の舞台」もある。
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この二つの舞台の監修が故・中村勘三郎さんと、故・市川団十郎さんなのだ。
田中さんはポツリと、今年の20周年を記念して、
お二人をお呼びした式典をやりたかったんですけど…と悔しそうに漏らした。
江戸東京博物館で思わず2人の偉大な名優の仕事に触れ、その喪失を悼む。合掌。
その他にも館内は見どころ満載。
興味深かったのは当時の両国橋界隈を再現した巨大なジオラマだ。
『両国橋西詰』
川辺に人が集まっていたんですね |
江戸時代の両国は火除け地として橋の付近は広く土地が空いていた。
そりゃ、火除け地なんだから当然だ。
(ちなみに火除け地というのは火事が起きた時に延焼しないよう、
炎の勢いをそこで止める為に広く空けられた土地の事であります。)
ところが江戸の人々は逞しかった。
本来なら建物を建てちゃいけない場所に、
「仮設だから大丈夫でしょ?すぐ撤去するからさ。」ってんで、
歌舞伎の見世物小屋やらをがんがん建ててしまう。
するとそれに合わせて人が集まる→人の需要に合わせて次々と商売が始まる→建物が立つ…、
とまぁ、そんな感じでどんどん賑わっていきまして。
江戸時代は両国に来れば一日遊べる大娯楽地だったようなのです。
ここは当時の雰囲気をそのまま味わえる様なジオラマ。
なんとその人形の数も1500体はあるとか!
田中「隅田川の上の屋形船も良いですよね?」
井門「良いですね、川涼みをしながらお酒とか?」
田中「夏は暑さ凌ぎで川遊びをする町人も多かったようですよ。
そして屋形船に近付く船も再現しています。
これは屋形船で遊ぶお客さんに“なんか買ってくれろ~”と商売をする船です。」
井門「つくづく当時の江戸町民は逞しいですね!」
火事と喧嘩は江戸の華。
そんな言葉があったくらい、江戸時代のエネルギーは凄まじかったんだろう。
何かで読んだ記憶があるのだが、江戸時代の喧嘩は必ずしも力と力の勝負ばかりでは無かったそうな。
いかに口が達者か?吹っ掛けられた言葉に洒落を効いて返さなけりゃ、粋では無かった。
江戸っ子にとって、粋でない事は既に負けなのである。
当時は喧嘩も粋で勝負、だったようですぜ旦那。
今のご時世、喧嘩も華々しくなくなりましたからねぇ。
粋な言葉で返して周りからやんややんや言われる、粋な言葉を身に付けたいものです。
閑話休題。
田中さんの分かり易く面白い解説のもと、
YAJIKTA一行は江戸から東京へと駆け抜ける時空の旅を楽しんだ。
“江戸から東京へ”のランドマークは朝野新聞の社屋だ。
この新聞社の社屋は現在の銀座和光(銀座4丁目)の場所にあったらしい。
木造建築から石造り建築へ時代は変わる、その象徴的建物でもある。
時代は海外からの文化が流入し、劇的に変わった。
その過渡期でもある明治時代は、和と洋の文化が入り混じりなかなかに面白い。
田中「銀座煉瓦街を縮小したジオラマが展示してあるんですけど、
表通りはご覧の通り西洋風建築が並んでますよね?」
井門「えぇ…ちょっとした西部劇にでも出てきそうな。
鉄道馬車なんかも走ってたりガス燈があったり。
でもこれ、明治の初頭の再現ですよね?
江戸時代からそんなすぐに人の生活ってこんなに変わるんですね!」
田中「ですから、この模型は表通りの裏側も再現しているんです。
ちょっと裏もご覧ください。」
表は大正ロマン建築なのに、裏は長屋の風情です |
田中さんに促されて裏側を覗いてみると、
そこには江戸時代と変わらぬ長屋が並んでいるではありませんか!
そうなんです、明治時代は近代化が進んだとは言いますが、
そんなに劇的に人々の生活が欧風化するわけは無く。
町人達はそれまで通りの生活を続けていたと。
では何故、江戸や東京はこの様に劇的に町の形が変わり、区画整理が進んだのでしょう。
田中「やはり大きな火災、それに震災、そして戦争の影響が大きいでしょうね。」
井門「東京は過去に何度も焼け野原になってますもんね…。」
田中「皮肉な事ですが、その度に新しい都市計画が出来上がり、
いまの東京を形成していったとも言えるんですよね…。」
江戸東京博物館の東京ゾーンを進むと、
関東大震災や第2次世界大戦の傷跡を展示する場所に出てくる。
そして時代は東京オリンピックへ…。
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田中さんに案内して頂いた、およそ1時間のタイムトリップ。
終わる頃にはすっかり東京という町が好きになっていた。
多くの人が暮らし、多様な文化が育まれる東京。
僕は特に元々が東京の人間ではないので、この町への愛着はそんなに強くなかったかもしれない。
でも歴史を知ると、それが変わってくる。
この町が、東京への愛着が増していくのだ。
田中「もっとゆっくり回れれば、まだまだお話ししたい事はあるんですけど…。
ですので機会があれば、当館は何度でもいらっしゃって下さい。
きっとその度に新たな発見があるはずですから!」
井門「いや、こんなボリュームたっぷりで楽しめるなんて最高です!
田中さん、有り難うございました!!」
あれ?
まだ一箇所目なのに、旅日記のページ数…結構いってね?
いや、それだけ江戸東京博物館に見所が沢山あったって事だよ。
佐々木「江戸東京博物館だけで1本出来ちゃいそうですね!」
井門「ほんとだね。もう博物館と国技館で良いんじゃないの?」
親分「いやいや両国ってさ、江戸時代の偉人ゆかりの場所が沢山あるんだよね。
相撲だけじゃないんだよ、井門君。」
井門「へぇ~そうなんですね。相撲だけのイメージがありましたけど。」
親分「いや、相撲だけじゃないんだ。
あ…、ダケジャナイッ!リョウゴクッ!!」
(“ダケジャナイ、テイジン”のノリでお願いします。)
という訳で偉人達の足跡を探しにぶらりし始めたYAJIKITA一行。
ただ、知らない町を当てもなく歩くのも心もとない。
そんな時に強い味方になってくれるのが「街あるき案内処」の存在なのです。
これは観光客が訪れた時に街のお勧めエリアを教えてくれたり、
マップをくれたりする場所の事なのだが、
その案内処というのが、いわゆる“街の老舗”なのであります。
古くから街をよく知っている老舗が、墨田区の要請を受けて「街あるき案内処」を兼ねていると。
老舗にお願いするあたりが、流石江戸の風情を残す街「両国」という感じがする。
親分の先導のもと、京葉道路沿いを進んでいくと何やら良い佇まいのお茶屋さんが!
そうです、ここが「街あるき案内処」を兼ねる老舗のお茶屋、中田屋茶舗さん。
確かに入口には「街あるき案内処」のマークが貼られている。
「安政元年創業」という文字とのコントラストがなんとも味がある。
一歩店内に入れば、急須と茶葉の缶がびっしり並ぶ。
我々はこちらの大橋淑男さんにお話しを伺った。
…うん?
……なんですって??
大橋淑男さんですって?
読み方は…はいはい、おおはし・としおさんね?
…( ゚д゚)
(つд⊂)ゴシゴシ
……(;゚д゚)
(つд⊂)ゴシゴシ…
………((( ;゚Д゚)))エエッッッー―――――――――!!!!!!!
なんと漢字は違えど私の先生でもある大橋さんと同姓同名。
何だろう、若干背筋が伸びる想いだ(笑)
ところがいざお話を伺うと、江戸っ子の気風の良さが大橋さんから滲み出ているだよなぁ。
子供の頃から暮らす両国を愛してやまない様子が窺えるのです。
大橋「都内では少なくなりましたけど、
この辺りはまだまだ昔の風情を残す場所が多いですよ。」
井門「袖触れ合うも多生の縁、そんな気質が良い意味でまだ残ってるんでしょうね。」
大橋さんの名前を見て若干の緊張からスタートしていたのだけど(笑)、
実はインタビュー前にYAJIKITA一行はお茶を御馳走になっていて。
それはほんのり桜の香りがする日本茶でした。
この日は花冷えのする天気だったのですが、
その一杯でじんわりと温められて。
しかも帰り際にはお茶っ葉のお土産まで頂いたのです。
井門「そんな御丁寧に有り難うございました!」
大橋「いやぁ、良いんですよ。
でもアレですね、アナウンサーの方はやっぱり声が良いわ!はっはっはっ!」
リアルの大橋さんには中々褒められた事が無いので、
同姓同名の大橋さんに褒められて、井門のYAJI気スイッチは完全にON状態。
最終的には「両国、いい方が多いなぁ…」と呟きながら店を後にする井門Pでありましたとさ。
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井門「さっ!大橋さんに教えて貰った偉人の足跡、
しっかり見に行くよ!!ほらほら、気合い入れて!」
一旦YAJI気スイッチの入った井門の勢いは止められない…。
お店を出て京葉道路と清澄通りの交差点からぐいぐい中通りへ。
大通りを一歩中に入っただけで、風情はまるで別の物の様に変わる。
その変化に目を輝かせながら、まず向かったのは勝海舟生誕の地。
勝海舟は青年期までをこの墨田の町で過ごしたのだが、
その生誕の地には記念の碑が建てられているという。場所は両国公園内。
井門「勝先生と言えば江戸城の無血開城に貢献した英傑!
どんな跡地なのかな!?」
あ~…そうか、こんな感じになっちゃうね…。
そりゃそうだ、住居が残っているわけは無いもの。
でも確かにここで生まれた訳だから、
この場所にも立っていたかもしれないでしょ、歴史のロマンを感じるじゃないの!
えっ?次はこの公園の近くにあるって?
小学校の一角に?ふむふむ…芥川龍之介の文学碑じゃないですか!
何故ここに碑があるのかって言うと、えっ?
芥川龍之介がこの小学校に通っていたですって!?
それで杜子春の文が刻まれていたのですね。
おっ、グランドから子供達の声が聞こえるぞ!
こうやって幼き日の芥川も学校に通っていたんだよなぁ。
親分「“学校”って言葉で思い出したけど、
もうひとつこの近くにあるんだよね。
それこそ学校の教科書にも出てくるあの出来事にまつわる場所が!」
井門「大橋さんが言ってた、あの場所だ!」
吉良上野介義央邸跡。
ご存知、忠臣蔵でお馴染の吉良邸跡がここ両国の町にはあります。
いまは松阪町公園の中に一部が遺されているという形だが、
当時の吉良邸は現在の吉良邸跡のおよそ85倍はあったそうで。
えっ?規模ですか?
総坪数がおよそ2,550坪だったらしいですよ。
あ、ほら広すぎて引いちゃった…。だって気になるって言うからさぁ、んもうっ!
とは言えあの有名な吉良邸であります。
私もテンションが上がりMAXしてしまい、
“討ち入りでござる~!!”とおよそ35歳とは思えぬ入り方をした事は深く反省しております。
さて偉人詣でを続けるYAJIKITA一行。
続いては両国駅前から歩くこと10分くらい。
ある意味、この町のランドマークとも言えるお寺があります。それが回向院さん。
そもそもこちらは明暦の大火で亡くなった無縁仏を鎮魂する意味で建立されたお寺。
ここにも少し知られた方が眠っていると事で、
副住職の本多将敬さんにお話しを伺った。
気になるその有名人だが…。
本多「沢山いらっしゃるんですけど、例えばあの鼠小僧次郎吉さんのお墓もここにあります。
鼠小僧が処刑された時に、刑場から首を持ちだした人がいたんです。
そしてその首をこの回向院に持ってきたと。
恐らくは無縁仏を供養する回向院ならなんとかしてくれると思ったんでしょう。」
井門「では鼠小僧のお墓はまだあるんですか?」
本多「勿論です。昔から鼠小僧の御利益にあやかりたいと、
墓石の石を削り取って持ち帰る人が後を絶ちません。」
井門「でもそれじゃ、お墓が無くなってしまうじゃないですか!?」
本多「ははは。大丈夫です!
現在は削り取る用の石がありますので。皆さんもそちらを削っていただければ。」
という訳で一行は副住職の御案内で鼠小僧のお墓へ。
見れば確かに本墓の前に削り取る用の石が…。
最初は“いやいや、削っちゃいます?ほんと?”なんて言いあっていた我々でしたが、
最終的に親分に至っては、
その削った粉を財布の小銭入れの中に直接入れる、という荒技を…。
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本多「実はこの先に回向院では大きな行事がございまして…。」
井門「なんでしょう?」
本多「東日本大震災復幸支縁と題して善光寺出開帳を行うんです。」
この出開帳とは日本に古くから伝わる行事で、
遠くのお寺から仏像を持ってきてこちらのお寺で開帳するというもの。
今回は震災復興支援の一環で、長野の善光寺や陸前高田から秘仏が回向院にやって来るのだとか。
井門「これは頻繁に行われているものなのですか?」
本多「それが…戦後初めて行うので、
どうなる事か不安な気持ちも正直なところございます。」
井門「江戸時代などには行われていたんですよね?
どの位の人出があったんでしょう?」
本多「文献に残っているものとしては、
安永年間に行われた60日間の出開帳で…。
どの位の人が集まったと思われますか?
ちなみに当時の日本の人口は3000万人程度だったそうです。」
井門「えーっと…50万人とか?」
本多「1600万人だったそうです(笑)」
全人口のおよそ半分が回向院で行われた出開帳に訪れた計算だ。
当時の日本人が信心深かったとはいえ…この数は凄い。
現代ではいったいどの位の人達が集まるのか。
期間は4月27日~5月19日までですので、
GWに東京を訪れる方は是非両国へ!!
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この旅の最後に訪れた場所は、
東京でもここだけにしか無いという両国花火資料館。
こちらの鈴木克之さんにお話しを伺いました。
なんでも今年はかの家康公が駿府城で花火を見てから400年、という節目だそうで。
鈴木さんの花火話にも、まさに花が咲いた…と。
うん?
上手いこと言ったってドヤ顔してるんだろ?って?
えぇ、してますけど何か!?
鈴木さん、ありがとうございました |
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自分にとって学生時代の思い出の土地でもあった、両国。
ここに来ると、酒とびんつけ油とソラマメの皮と煙草の吸殻の匂いを思い出す。
個人的にはそんな町だった。
でもそれでこの町のイメージを決めるのは、早すぎた。
もっと若い頃にこの町の面白さに気付いていれば、
もっと頻繁にここに遊びに来たのにな…と、ちと後悔。
まだ両国には江戸時代の風情がそこかしこに残っています。
ひょっとしたら、その残り香はいずれ消えてしまうものなのかもしれません。
そんな貴重な江戸の風情、
ぜひ皆さんも体感していただければ、と思います!
東京どこ行く!?次は、どこ行く?