池波正太郎生誕90年 ゆかりの地を訪ねて編|旅人:井門宗之
2013-05-08
――ニューグランドでドライマティーニでもやろうや――
うん、この台詞で旅日記を書き始めるのも2度目。
なんでまた、この台詞から始めるのかと言いますと、
今回の旅が池波正太郎さんにまつわるものだからなのです!
えっ?だからって何で「ニューグランドで…」ってなるんだって?
いえね、このダンディズム漂う台詞、池波さんのエッセイの中で出てくるわけですよ。
目的も決めずにふらりと旅をしていてね、
同行する人に「次はどこに行きましょうか?」と聞かれるわけだ、池波さんが。
すると「そうだな、ハマにでも行こうか。
時間があったらニューグランドでドライマティーニでもやろうや」と返してくる。
格好良いんだよなぁ…この切り返し。
若い頃に読んで随分井門青年の心に刺さりましたもの。
えっ?なになに?なにが刺さったの?って?
んもぅ、仕方ないなぁ…。理由は大まかに次の通りです。
○ホテルのバーが旅の選択肢の一つにするりと入っている。
○ニューグランドのドライマティーニが美味い事を知っている。
○「やろうや」の「や」にホテルのバーなんだけど気安い感じを漂わせて、
同行人に店の敷居の高さを感じさせていない。
まさにダンディズム!
なかなかこういう「粋な男の生き方」を教えてくれる人が周りに少なかったので、
僕は若い頃、池波さんのエッセイを読み漁りました。
「食卓の情景」なんかはもはやアタクシのバイブルと言っても過言ではないのです。
で、そんな池波正太郎さん、実は今年生誕90年なんですね。
もちろん、御存命であれば…ですけど。
僕はこのYAJIKITAでいつか「池波正太郎」にまつわる旅がしたかった。
実は昔ヤジキタでも「池波正太郎の世界を紐解く、東京下町散歩……」と題して、
旅をした事もあるんです!が、生誕90年のタイミングで是非もう一度!
とゴリ押して…じゃなかった、熱意を会議で伝えて、旅人は私、井門宗之。
作家はこちらも大の池波フリーク、親分コバヤシが担当して旅を行う運びとなったのです。
ちなみに言うと、親分はロケの数日前 井門Pに、
「今度のロケ、楽しみ過ぎてどうにかなっちゃいそう……」
という恐怖メールを送りつけてくるぐらい。
今回のロケへの意気込みは十分なのであります。
池波正太郎さん。
言わずもがなですが、司馬遼太郎さん、藤沢周平さんらと共に、
時代小説の人気作家として一時代を築いた方です。
代表作は『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』などなど。
小説だけじゃなくて食や映画にまつわるエッセイも数多く残されています。
僕が池波作品と出会ったのは時代小説ではなく、
実は食のエッセイからだったのですが、そういう方も少なくないでしょう。
今回の旅はそんな池波さんの生誕90年にちなみ、
改めて池波正太郎という人はどんな人だったのか?
その足跡を辿りながら輪郭をはっきりさせていく旅にしました。
旅の出発地点は浅草、待乳山聖天宮。
何を隠そうこの界隈は、池波さんが幼少期を過ごした場所。
なので池波さんの書いたエッセイには、
「大川(隅田川)の水と待乳山聖天宮はわたしの心のふるさとの様なものだ」
なんて記されているのです。
勿論、今では高い建物も増えて昔の風情は薄れてしまいましたが、
下町ならではのなんとも言えない空気はしっかりと流れているわけで。
その空気を胸いっぱいに吸ってから、池波正太郎の足跡をたどる旅へ!
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まずは池波正太郎記念文庫へ。
池波さんの蔵書に当時の舞台の脚本、
さらには書斎を再現したものなど貴重な資料が展示された文学館なのですが、
こちら台東区立中央図書館内にあるんです。
区の施設だから当然、入場は無料。
鶴松「本来なら記念館になるんでしょうけど、
池波さんは大袈裟な事が嫌いな人でした。
それで作家なんだから図書館の中にこういう施設があっても良いんじゃないかって、
図書館の中に作っちゃったんです」
こう話してくださったのは長年に渡り池波さんの仕事を手伝っていた、
鶴松房治さん。
池波さんとの出会いは、鶴松さんが新国劇の制作にいた頃だという。
時は昭和40年代、池波さんは当時「鬼平」を世に出す人気作家の一人。
初めて見た時の池波さんの存在感は、それはもう物凄かったそうで…。
鶴松「当時の大スター、辰巳柳太郎さんや島田正吾さんと渡り合うわけですから、
その猛烈な姿はまるで火の玉のようでした(笑)」
僕も池波さんの様々な本を読み進めていく中で、
どうも池波正太郎という人は“怖い人”というイメージがあったのだが、むむ、やはり。
鶴松「いえいえ。色んな方が池波さんを評する時に使う言葉なんですけど、
池波さんは生粋の下町っ子なんです。せっかちだから、すぐカッとする(笑)
だけど必要以上に周りに気を遣う方でしたよ」
池波さんが書かれた作品は、小説とエッセイを合わせるとその数1000以上にのぼる。
それだけ膨大な量の作品を書いていたにも関わらず、
どの作品も締め切りの一週間前には必ず出来ていた。
これは未だに各出版社の伝説になっているという(笑)
でもそれも一緒に仕事をする人への気遣いなのかもしれない。いや、きっとそうだろう。
物語なんかもそうやって、計画的に緻密に書かれていたんだろうなぁ。
鶴松さん、ありがとうございました |
鶴松「池波正太郎という人は、実はひらめきで書く作家なんです。
その代わり書き出しがひらめいたら、すぐに書く。
池波さんは“勘の働き”を非常に大切にしていました。
御本人がよく言っていた言葉で“自分は作家という職人だ”という言葉があります。
だからこそ、一瞬のひらめきで作品を作っていったんだと思います」
ひらめきで書く作家…鶴松さんのこの言葉には驚かされました。
でもだからこそ気分を変える為に一日に何度も着替えたり、
旅に出たり、週に何度も試写会に出掛けたり、
外から刺激を受ける事を大切にしたんでしょうね。
記念館の中にはそんな池波さんの書斎を再現した展示も。
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鶴松「時代小説なんかを書く先生だから和室をイメージされる方も多いですけど、
実は洋室なんです。板間に机を置いてそこで仕事をした。
池波さん、和室だとすぐに寝っ転がっちゃうからダメだって言って(笑)」
書棚に置かれたピースの缶が、なんとも良い。
展示品の中には仕事中愛聴していたジャズのカセットテープなども。
数々の名作は、その創作の場の細部に渡る作家のこだわりが生み出したもの。
井門「改めて、池波作品の魅力はどこにあると思われますか?」
鶴松「池波さんは“楽しい”“読みやすい”“分かり易い”を念頭に置いていたと思うんです。
作品を読んでみると分かるんですが、池波さんは“歴史”“文明”“宗教”を書いてない。
ただ人の生き様を書いている。
だから池波さんの本って難しくないでしょ?(笑)
時代は違えども、基本的な人の営みを押さえて書いている。
池波さんの魅力はそこにあると思いますよ」
そう!
そうなんです。
池波さんの作品には小難しい所が一切ない。
その代わり登場人物それぞれの躍動感が物凄い。
人を魅力的に書かせる天才なのではないかと思ってしまう。
親分「俺も鬼平を読んでいて、何度号泣したことか……」
鶴松さんへのインタビュー中もずっと展示品を見てうずうずしていた親分。
それはさておき(さておくのか…)、
池波ファンは是非、池波正太郎記念文庫へ!
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サリー「今回のロケは親分と井門さんにお任せな感じになっちゃってますけど、
でも、鶴松さんや2人の話を聞いてると、凄く池波さんの作品が読みたくなりますね!」
井門「ふふふ。サリーよ、次は池波さんの食にまつわるエッセイと深い繋がりがあるお店。
ここに行けば食のエッセイも読みたくなってくるよ」
ってな訳で続いて向かったのは「池波正太郎の銀座日記」にも登場する、
銀座の日本料理店「いまむら」さん。
こちらで2代目の今村英太郎さん、
女将の今村幹根子さんにお話しを伺う事が出来ました。
実は池波さんが亡くなる前、最後に食べたのがここ「いまむら」の料理だったと言います。
それほど先代の今村英雄さんと池波さんの繋がりが強かったという事でしょう。
まずは女将さんに当時のお話を伺いました。
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井門「池波先生の本にも、先代がいた“花ぶさ”の話がよく出てきますもんね。
先代と池波さんはその頃からの深い繋がりがある。
女将さんからご覧になって、池波さんはどんな方でしたか?」
今村(幹)「えぇ、私どもにはとても優しい方でしたよ。
出版社の方の中には“恐い”と仰る方もいらっしゃいましたけど(笑)
この店を主人(先代)が出す時も、色んなアドバイスを頂きました。
“誰でも入れる様な店にしなさい”って。
ですから店の名前も――ただの「いまむら」で良いんじゃないか?――って」
店の名付け親でもある池波さん。
店内にはそんな池波さんの貴重な書や絵などが飾られている。
まるで2代目の働きぶりを見守るかのように。
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暖簾の文字とエッセイ『食卓の情景』の表紙絵は、池波先生の直筆 |
お店は今年で開店して25年という。
となると平成元年開店だから…池波さんが亡くなったのが平成2年で……。
今村(幹)「はい、先生がお店で食事をする事はほとんどありませんでした。
先生が入院したっていうニュースは、朝たまたまラジオで聞いたんですよ。
もう驚いてしまって。病院にはまず私がお見舞いに行ったんです」
井門「お会い出来たんですか?」
今村(幹)「えぇ、部屋に奥様がいらっしゃって。
でも中に入ったら怒られちゃって、ふふ(笑)
“誰に聞いたんだ!!来るんじゃない!”って」
井門「えっ!?怒られたんですか?」
今村(幹)「入院したって事は誰にも言ってなかったんでしょうね。
驚かれたのと、心配かけたくなかったんだと思いますよ」
とは言え大作家の入院は当時大きなニュースになった。
本人はすぐに退院すると話していたようだが、なかなか連絡もこない。
今村(幹)「少し経ってから主人がお見舞いに行ったんです。
男2人でしばらく話をしていたみたいで。
池波先生は“みなさん元気でやってるのかい?”なんて気にかけてくださったみたいです。
それで帰り際に主人が何か食べたい物はありませんか?って聞いたんですよ。
そしたら“魚を”…って仰るので、
今度は“焼いたのと煮たのとどちらが良いですか?”って聞いてみたら、
“どっちも”っておっしゃって(笑)奥様も嬉しかったと思います」
そんなやり取りがあって「いまむら」の先代英雄さんは翌日築地へ走る。
時期的には甘鯛と金目鯛だったので、甘鯛は塩焼きに、
金目は煮付けにして持っていったという。
今村(幹)「もうあまりお召し上がりにはなれなかったみたいですけどね……」
今では先代も故人となってしまったが、
現在は2代目の英太郎さんがしっかりと暖簾を守っている。
この英太郎さんの名付け親も、なんと池波正太郎その人だというではないか!
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井門「池波先生がいらっしゃった当時の事は覚えてます?」
今村(英)「えぇ…優しい方でしたけど、
子供の頃、池波先生が店にいると店の雰囲気がピリっとしてましたよ。
子供心にそれは何となく感じていました」
井門「英太郎さん、随分と可愛がられたんじゃないですか?」
今村(英)「そうですね…可愛がってもらったと思います。
でも池波先生、シャイな方だから子供の僕と上手く話せないんです(笑)」
井門「池波先生が今の英太郎さんの姿を見たら、なんておっしゃるでしょうね?」
今村(英)「今の姿を見たら…怒られるんじゃないかな(笑)
でもこの店は池波先生と親父が守ってきたお店ですから、
その名を汚さないようにしたいですね!」
銀座という一等地で25年も暖簾を守るお店「いまむら」。
親分と僕も必ずお店を訪れる事を約束して、いまむらを後にしました。
続いて訪れたのは、池波先生が定宿として利用した山の上ホテル。
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ロビーに飾られている絵は、池波先生の作品 |
こちらでお話を伺ったのは、取締役副総支配人の川口仁志さんです。
この日は池波さんが実際に泊まっていた部屋が埋まっていて入る事が出来なかったんですが、
同じタイプの部屋でインタビューをさせていただきました。
もうですね、池波ファンの私と親分は部屋に入っただけで大興奮ですよ。
親分なんか必要以上に写真撮っちゃって(笑)。
いやぁ、でも憧れの山の上ホテルですからね。
僕なんかはこの下の、“山の下大学”(笑)に通っていたんだけど、
当時は「いつかここに泊まってみたいなぁ」みたいな事ばっかり考えていたし。
だからこそ“どんな部屋なんだろう?”感が凄かった。うん。
その期待感を持って、ゆっくりと中へ。
…洗練って言葉しか出てこなかったなぁ。
歴史のあるホテルで、それこそ一流のホテルマン達が細部に渡って整えた部屋ですよ。
これからお客さんを迎える部屋はね、何だか空気も綺麗に感じるほどだった。
これが誇りなのかなぁ、でもそれが緊張感となってお客さんに返ってくる感じではない。
そのバランスが素晴らしいのであります。
川口「こちらの部屋は畳の部屋にベッド、我々が和室と呼んでいる部屋なんですけど、
こういう部屋が10室ほどあるんです。館内全体ですと洋室の方が多いです。
池波先生は面白くて、当時一月に一回のペースでお泊りになられたんですが、
時代小説を書く時は洋室、
絵を描く時は和室をお取りになっていました。
和室は文机があるのですが、画材などを広げるのに使い勝手が良かったようです」
実はこの川口さん、只者ではございません。
いやそりゃそもそも副総支配人なんだから只者では無いんですけど…。
池波さんが山の上ホテルに滞在中に、
よく神田界隈に外食に連れ出していたと言うではありませんか!
井門「先生とのエピソードで一番記憶に残っているものはなんですか?」
川口「いや、僕は池波先生にも言ったんだけど、
本をほとんど読まないんですよ。だから池波先生の本も読んだ事がなかった(笑)
でも先生は、まぁ他の方にもそうなんでしょうけど、
御自身の新刊が出るとその本をくださるんですよね」
井門「でも…読まれないんですよね??」
川口「はい(笑)それでその事で冷や汗をかいた出来事があるんです」
――神田界隈で先生と外食される様になってからの事。
川口さんは食事の席でよく池波さんに“食事の作法”とか、
まぁ例えば“蕎麦の食い方”なんかを質問していたそうなんです。
池波さんも、その質問にちゃんと答えてくれていた。
ある日のこと、いつもの様に食事をしながら川口さんが色んな質問を池波さんにしていると……。
池波「君は本当に、本を読まないんだな」
と言われるではありませんか。
言葉の真意が分からず、その時は曖昧な返事をしていた川口さん。
後日、何の気なしに池波先生から頂いたエッセイをパラパラ捲って、冷や汗が出たそうな。
川口「僕が料理屋でしていた質問、
ほとんど池波先生の本に書いてあったんですよね(笑)」
このお話には僕らも笑ってしまったけど、
でも池波さんは気に入らない人と何度も食事に行くわけもなく。
そのエピソードがあった後も川口さんとの交友は続くのだから、
一重にそれは川口さんの人柄のなせるワザだろうと思う。
なんせ川口さん、当代一の売れっ子作家だろうがなんだろうが、
他の宿泊客と全く変わらずに(贔屓もせず)接客していたってんだから。
池波さんの言葉を借りるなら、この方も職人なのかもしれないですね。
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川口さんに貴重なお話を伺った我々は、
池波さんが愛した「天ぷら 山の上」にもお邪魔。
(とは言え本当にちょっとだけ店内を見せて戴いただけですが…)
サリー「天ぷら食べたいっす」
テツヤ「ボクも……」
親分「君たちはまず“いもや”からにしなさい。」
*“いもや”とは駿河台にある学生向けの天ぷら屋さん。
井門Pも親分も若い頃に何度もお世話になった“コスパの高い”お店である。
――池波正太郎ゆかりの地を訪ねる旅。
ここまで訪れたどの場所も、池波作品には必ずと言って良いほど出てくる。
そしてその風情は、何十年も前のエッセイの中に書かれたそのままを残している。
いや、それを守り続けるのは並大抵の努力ではないはずだ。
ちなみに今回は行かなかったが、
銀座の洋食店「煉瓦亭」も池波さんのエッセイに出てくる風情を今も守る名店だ。
東京に観光で訪れた際にはぜひ足を運んでみてください。
ポークカツレツ、ハヤシライス、オムライス…、もう何を食べても最高です。
親分「池波さんのエッセイには甘味処も出てくるよね」
井門「神田界隈と言えば…あの“ぜんざい”のお店ですか?」
甘味処「竹むら」。
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今回の旅の最後に向かったのは、池波さんがこよなく愛した甘味処だ。
まさに池波作品に出てきそうな佇まいのお店は、
池波さんが山の上ホテルに泊まっている時の外食定番コースの一つでもあったらしい。
お話を伺ったのは御主人の堀田喜久雄さん。
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堀田「ウチにいらっしゃる時は、まずその前に“まつや”さんでお蕎麦、
そうですねお銚子の一本も召し上がった後でしょう。
少しお顔を赤くして(笑)ここで粟ぜんざいを食べて、
お土産に揚げ饅頭を買って山の上ホテルに戻るってコースだったみたいですよ」
井門「どんなお客さんだったんですか?」
堀田「最初は池波先生だなんて知らなかったんですよ(笑)
御本人も何も仰らないですし。その内、池波先生をご存知の方に教えてもらって」
井門「でも池波先生の本に書かれた時はさすがに御本人も言ったんじゃないんですか?」
堀田「いえ、何も(笑)」
ここが池波ダンディズム。
お店側に変に気を遣わせない様に、自分の素姓は明かさないのであります。
それでもここに来る時はちゃんと粟の旬の時期に来る。
粟の旬は11月半ば~6月初旬だそうで、まぁ最初は寒い時期ですね。
だから店に来る時は、黒っぽいコートに帽子を被ってやって来る。
その姿が印象的だったとか。
僕らYAJIKITA一行もそんな池波さんが愛した粟ぜんざい、頂きました。
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粟ぜんざいに関してはもう何も言う事はないです。
上品な甘さと粟の食感は絶品の一言(言ってんじゃん)。
このあっさりとした甘さは、確かに飲んだ帰りに食べたくなる味だ。
「竹むら」に池波さんが足繁く通った理由もよく分かる。
でも味の他に、お店で働く人達の雰囲気もあったと思います。
堀田さんも含めてきっと「竹むら」の人達は、
池波正太郎を“必要以上に池波正太郎”として扱わなかったんじゃないかなぁ。
そしてそれはきっと“いまむら”も“山の上”もそうなのだ。
“自らの仕事をきちんとする、その上で接客”
池波正太郎に愛されたお店や人に共通するのはここではないだろうか。
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大好きな作家の大好きな作品に出てくる場所を巡る旅。
その全てがワクワクして仕方無かった、今回の旅。
身勝手を承知で言わせて頂ければ、もっともっと色んな場所を巡りたかったのです。
だって池波さんが愛した店は、まだ東京には沢山残っているんだもの。
そう、まだまだ池波さんに愛された味を守り抜く店が、都内には沢山あるのだ。
その味、皆さんも探しにきてみませんか?
今回の旅を聴いてくださったリスナーさんが、
一人でも多く池波作品に触れて戴けますように。
よーし、俺もニューグランドのドライマティーニをいつか必ず味わうぞー!!
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