「永遠の0」公開企画!零戦パイロットの真実|旅人:吉村民
2013-12-13
YAJIKITA on the road 旅人の吉村 民です!
今回は映画 永遠の0 公開記念ということで、ゆかりの場所である鹿児島の鹿屋市を旅してきました。
まずはじめに…。 伝えるという仕事をしている私の夢の1つが特攻隊の方たちの想いを沢山の方たちに伝える、後世に伝えるということでした。
この気持ちを抱いたのは10年程前、初めて特攻隊の方の遺書を読んだ時です。
それまで、歴史が好きであったものの、
そして、どこで知ったのかはわかりませんが、
それは違うと知ったのは、知覧にある特攻隊員たちに母のように慕われていたトメさんが切り盛りをしていた富屋食堂にある軍の検閲を受けていない特攻隊の遺書を読んだときです。
そこに書かれていたのは、
兄弟や親戚を心配する気持ち
そして、自分は死んでしまうけど、未来の日本人が頑張ってくれるから大丈夫、
この時、
人に伝えるという仕事をしていながら
この想いを抱きつつ、何もしないで時間だけが過ぎていたのですが、
何に魅了されたかというと…、「人間性」です。
戦争で戦うということは、人を殺さなくてはならないということ。
そのような日々の経験から、誰よりも命の重さを知っている
戦争にかっこいい、とか美しいというような言葉を使うというのは、
そして、その人間性を今を生きる私たちが知り、
YAJIKITA on the roadで、
皆さんに
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まずは鹿児島に行く前に知識と気持ちの下準備ということで、
永遠の0の作者である
百田尚樹さんにインタビューをさせていただきました。
実は数年前に小説の「永遠の0」を読んで、心の底から感動をして以来、百田さんファンだった私。
本物の百田さんを前にして、ドキドキワクワクしすぎて、心臓が壊れてしまうかと思いました。
百田さんは優しく熱く想いを語ってくださいました。
完成した映画を観て感動されたという百田さん。
もう4回ほど観られたということです。
私も試写で観させていただきましたが、今まで観た映画の中で一番感動し、
そして、再び観たい!という気持ちになりました。
そして続いてお話を伺ったのは
フォトグラファージャーナリストで数々の元零戦搭乗員の方をインタビュー、
映画、永遠の0では時代考証をされ、NPO法人 零戦の会 会長の神立尚紀さんです。
神立さんは元零戦搭乗員の方たちが
どのような戦争経験をされたか、というのを細かく正確に教えてくださるだけではなく、人柄や交流など、その方たちの人間性までも
インタビューから感じ取り伝えてくださいました。
神立さんがインタビューをし、残してくださっているからこと、私たちが知ることが出来ると思うことも沢山ありました。
私もお話を聞き、初めて知ったこと、理解出来たことだらけでした。
百田さん、神立さんにお話を伺ったあとは、鹿児島の鹿屋市へ・・・。
まずは
908名の特攻隊員の方たちが飛び立った鹿屋航空基地を訪れました。
現在は海上自衛隊になっています。
敷地内にある鹿屋航空基地史料館には
旧海軍創設期から現在の海上自衛隊に至る海軍航空に関する資料が展示されています。
海上自衛隊の方たちがとても親切に案内、説明をしてくださいました。
明治時代からの日本海軍の歴史展示を抜けると
零戦が!
近くでコックピットの中が見れるようになっているのです!
翼の一部を動かしてくださったり、
操縦の仕方を一部教えていただいたり、、、と
零戦のかっこよさに目がキラキラしてしまいました。
この零戦は
錦江湾と吹上浜の海底から引き揚げられた2機が、ともに補う形で1機の零戦となったものです。
エンジンは横に展示されていたのですが、
エンジンをつければ、飛べるくらい、しっかり修復されているのだそうです。
当時、飛行兵はみんなの憧れだったと聞いたのですが、
それがよくわかりました。
零戦はとてもかっこよかったです。
続いては特攻の部屋へ。
こちらに入るとガラリと空気が変わります。
壁いっぱいに遺影がかかり、遺書や遺品が展示されています。
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遺影の最初はフィリピンの最初の特攻で亡くなられた関行男大尉でした。
関大尉は出撃前にある報道班員にこのように話をしていたそうです。
「僕なら体当たりせずとも敵空母の飛行甲板に五〇番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある。日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のために征くんじゃない。最愛の妻のために行くんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ、すばらしいだろう」
特攻隊の方たちが
このような感情を持っていたというのは全く知りませんでした。
関大尉は新婚さんだったそうです。
改めて、本当のことを知ってこそ、戦争の辛さや悲しさが見えてくるのだと思いました。
色々なことを考えさせられます。
みなさんも平和は当たり前!だとは思わずに、
見て、知っていきましょう。
続いては鹿屋海上自衛隊の敷地内を見せていただきました。
こちらの建物には昭和16年の2月に山本五十六連合艦隊司令長官、大西瀧治郎参謀長、源田実参謀が極秘会談(鹿屋会談)をした部屋があるそうです。
とても大事なお話をしただろう、場所が今でもそのまま残っているのですね。
続いては航空機を敵の攻撃から守るための格納庫、掩体壕(えんたいごう)を見せていただきました。
近くで見ると大きくて迫力のようなものを感じました。
鹿屋市には今でも沢山の戦跡が残っているということです。
続いては、こちらも多くの特攻隊が飛び立った、特別攻撃隊の基地として使用されていた串良海軍航空基地跡を訪れました。
今は慰霊塔が建っています。
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鹿屋市役所広報の田嶋さんがとても丁寧で親切に案内をしてくださいました。
当時、滑走路だったところが、
そのまままっすぐな道路になっていて、沿道には桜が植わっています。
彼らがどんな想いで飛び立っていったのかを考えると、
切ない気持ちになってしまいました。
続いては
串良海軍航空基地地下壕電信指令室です。
こちらは一般の方のご自宅の敷地内にあるのですが、
当時のまま、保存されています。
通信指令室とは
特攻隊の方たちが「敵艦に突入する」という最後の通信が送られてきた場所です。
通信が途絶えたときに、その方が突入した。とわかったのだと考えると、
胸がいっぱいになり、言葉が出てきませんでした。
今は何もありませんでしたが、
特攻隊の方たちの声にならない気持ちが沢山詰まっているようでした。
特攻隊の方たちが命をかけて戦い、その命が消える瞬間を聞いていた通信兵の方たちも辛かったと思います。
そして最後は桜花に乗る特攻隊員たちが、出発前にいた所を訪れました
今はとても、のどかな場所で、ここにそんなに辛い過去があるとはおもえません。
桜花とは大型の爆弾を搭載した小型の特攻兵器で、着陸できるようにつくられていません。人間が乗って操縦する爆弾ということです。
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55名の隊員が亡くなったということですが、
実は桜花は自力で敵艦まで飛んでいくことはできません。
敵艦の近くまでは一式陸攻攻撃機で運んでいくのです。
一式陸攻はアメリカ軍からはワンショットライターと呼ばれていて一撃で火を吹いて墜落してしまう様な攻撃機でした。
ここに搭乗していた人は7人。
桜花は、一式陸攻から切り離される前に撃墜されてしまったことが多かったということなので、桜花で55人の方が亡くなったと言われていますが、一式陸攻に乗っていた方もいれると、400人以上の方たちが亡くなっている、というのが現実です。そして、桜花の作戦はほぼ、成功はしなかったそうです。
詳しく聞けば聞くほど辛くなるのが第二次世界大戦。
胸がいっぱいになりますし、気持ちも暗くなります。なかなか言葉もでてきません。
でも、2度と戦争をしないようにするためには
どれだけ、悲惨なものだったのか、辛く悲しいものなのか、戦争を知らない私たちは
とことん、知らなければならないと思いました。
また、特攻隊の方たちの
祖国を、大切な人を守る、という気持ちで
命をかけて戦ってくださったことを、
しっかり受けとり、後世の日本に語り継いで行きたいと感じました。
今回のYAJIKITA on the roadでは
鹿児島鹿屋のみなさんの
優しさ、私たちの祖先の方たちの熱い想いに触れられる旅でした。
是非、皆さんも映画 永遠の0を観て、鹿児島鹿屋の戦跡を訪れて
改めて平和について考えてみてください!