震災から3年、忘れないで…岩手編|旅人:井門宗之
2014-03-06
東日本大震災で東北は、日本は、様々なものを失った。
かけがえのない命は勿論、文化、建物、本当に様々だ。
そこから3年の月日が流れ、再び被災地には重機の音が響く様になった。
出口の見えなかった復旧・復興から、徐々にではあるが光が見えてきた。
もちろんまだまだ復旧も進まない場所も沢山存在する。
何も終わっていない事も充分過ぎるほど分かっている。
しかし何かが変わり始めた場所も同じ様に沢山存在するのです。
岩手県、沿岸地域。
震災による津波で甚大な被害を受けたこの地域にも、
YAJIKITAは何度かお世話になりました。
震災前の取材を合わせると、どれくらいの回数の旅を重ねているだろう。
今回のYAJIKITAは震災から3年が経とうとしているこの地を訪れました。
悲しい話も聴きました、笑顔になる様な話も聴きました。
だからこそ、始めに断言します。
これからもこの番組は被災地を訪れ続けます。
その声を、その風景を、沢山の方に届けていきます。
放送を聴いた皆さん、どうかここに載せてある写真を見ながら、
そして出来れば過去の旅日記もご覧になりながら、東北に想いを馳せて頂ければ幸いです。
旅のスタートは釜石駅前でした。
来月の4月5日には三陸鉄道の釜石駅も再オープンする訳で、
ここにも地元の方にとっての光が宿っていました。
そう言えば望月社長も「利用客の中でも学生さんが喜ばれる」って仰ってたっけ。
通学の足が復活するわけですから、それは喜びもひとしおだろうなぁ。
実はですね、釜石に来たらこの人に会いたいって人がいるわけですよ。
何度もお会いしていて、FM岩手のスタジオでも一緒に喋ったりして。
東京のスタジオにも来てくれた事のあるこの方!
FM岩手釜石支局のアナウンサー:阿部志穂さんです!
阿部さんとは前から「一緒に岩手の為に何かしましょう!」って言ってたんだ。
今回はやっと約束が果たせました(遅くなってごめんなさい)。
阿部さんには釜石の現状を伺うべく、色んな場所をご案内して戴いたんですが、
まず待ち合わせ場所がお洒落!
震災の3か月後に立ち上がった、「かまいしキッチンカープロジェクト」。
そのプラットホームとして出来上がったのが「大町ほほえむスクエア」。たこ焼き、和食やカフェなど7台のキッチンカーが日替わりで販売しているとか。
阿部「晴れていれば最高に気持ち良いんですよ~!」
そうなのであります。
我々が取材に訪れた日程は沿岸部としては珍しい大雪に見舞われた時。
湿った雪に濡れながらの取材だったのですが、
確かに晴れていればここは気持ちいいだろうなぁ。
阿部「こちら飲食スペースが少し嵩上げされているんです。
でも高さが上がった事により、キッチンカーの窓の高さと丁度良くなってるんですよ。」
井門「これから東北も暖かくなってくるから、
ここで夜空を見ながらお酒…なんてのも気持ちいいんだろうなぁ。」
天気には恵まれなかったけど、
でもそのお陰でまた来たくなる場所が増えました。
東北はいつもそう(笑)「また来たい!」って気持ちになる。
お近くの方は昨年6月に誕生したこの新たな釜石の顔、利用してみてください!
阿部「次は災害復興公営住宅に移動しましょう。」
釜石の中心部から車で15分程度だろうか。
平田地区というエリアに着くと、目の前には新しい災害復興公営住宅が。
井門「でもここまで来るのが大変でしたよね?」
阿部「そうなんです。道幅も狭かったり整備が遅れていたり。
でもこれから道路の幅を広げる工事などが進む予定ですよ!」
井門「早く工事が進むと良いですね…。
そういった事が進んでいかなければ、
究極のところ暮らしている方々には本当の意味での復興は訪れないわけですもんね…。
ちなみに釜石では現在どのくらいの方が仮設住宅で暮らしているんですか?」
阿部「はい、5161人の方がまだ仮設住宅で暮らしていらっしゃいます。
(2014年2月15日取材時)」
ちなみにこちらの災害復興公営住宅は元々釜石商業高校だった場所。
建物自体も7階建て126世帯が入居出来るのですが、
先程書いたとおりで少し不便な場所にある為、まだ3分の1が空いている状況とか。
何とか住みやすい環境が作られることを祈るしかありません。
ここで我々は阿部さんが喋っているFM岩手釜石支局のあるシープラザ釜石へ。
シープラザ釜石もそうだなぁ、3回目になりますかね。
前回はとにかく寒くて、こちらに入っているユニ○ロでヒートテックを買い込んだっけ(笑)
なんだか懐かしいなぁ。
そんな事を阿部さんに話すと「懐かしいって言って貰えると嬉しいです!」と仰る。
いやいや、そんな風に言って貰えるのも嬉しいんです。
何度もお邪魔していると、帰って来た感もあって…。
そうそう、僕もこちらで阿部さんから逆取材を受けました!
もしかしたら聴いて頂けたでしょうか??
岩手には別件でバスツアーでも来ようと思ってます。
とにかく出来る限り、思いつく楽しい事は形にしたい。
それが皆さんの元気に繋がるのなら、何かお手伝いしたいのです。
こちらのスタジオ、ちょっとサテライトっぽくもあって。
リスナーさんも頻繁に訪れるみたいですよ!
岩手の皆さん!これからも釜石支局の応援、お願いしますね!
阿部「実は今日、会って欲しい方がいるんです。」
井門「なんだ志穂?お父さんに会って欲しい人って…ま…まさか!!」
阿部「えぇ、私の大事な人…って違います!」
井門「ノリツッコミを有り難う(笑)
で、どなたでしょうか?」
阿部「室浜で牡蠣の養殖業を営んでいる佐々木健一さんです。」
室浜は釜石から車で20分位のところにある場所です。
そこで牡蠣の養殖を営んでいる佐々木さん。
この佐々木さん、とっても大きな、器の大きな海の男という印象でした。
阿部さんがケンちゃん、ケンちゃんと慕っているのもすぐ分かると言うか。
震災で大きな悲しみを経験されている佐々木さん。
それでも“この釜石の海と共に生きていくんだ”という決意がある。
佐々木「震災後、1年は実は内陸の方で瓦礫撤去や建築業で働いていたんです。
牡蠣を離れて。でも海を見る度に戻りたい想いが強くなりまして…。」
井門「でもどうしてまた戻ってきたんですか?」
佐々木「自分の中ではまた戻ってこようという気持ちがそもそもあったんですよ。
でも女房が反対するだろうな、と。
ただやっぱり自分は牡蠣をやるんだって気持ちは変わらなかったんです。」
井門「なにかきっかけはあったんですか?」
佐々木「沈没した自分の漁船がたまたま見つかったのも大きかったかもしれません。
修理すればまだ使える状態だったので。」
井門「佐々木さんの牡蠣の味はどんな味なんですか?」
佐々木「(笑)やっぱり味が濃いっていうか…。
牡蠣が獲れなかった時期もスーパーにはそれこそ色んな産地の牡蠣が並んでましたけど、
やっぱり自分のとこの牡蠣がもう一度食べたいなって思いましたよ。」
力強く、真っすぐな想いを語ってくださった佐々木さん。
現在はたった2人が室浜で養殖を行っているという。
愛を込めて育てた牡蠣が去年ようやく出荷された、その想いはいかほどだろう?
佐々木さんの牡蠣はブランド牡蠣としていまは都内でも食べられる場所があるそうだ。
どんな味がするんですか?佐々木さんの牡蠣は?
という僕の質問にみるみる笑顔になった佐々木さんの顔が、やっぱり忘れられない(笑)
ご自身が震災を乗り越えて再び出荷する事が出来た牡蠣に、絶対の自信を持っているのだ。
今回釜石で佐々木さんの牡蠣を食べる事は出来なかったけれど、
これもまた釜石に戻ってくる楽しみの一つだ!
佐々木さんが育てた「かまいし桜牡蠣」。
もうね、取材でお話しを伺いながらスタッフ全員「食べたーい!」って悶絶してたんだから。
佐々木さん、絶対に食べに戻ってきますからね!
井門「阿部さん。今回はまたお会い出来て嬉しかったです。
釜石の御案内もして戴いて有り難うございました!」
阿部「実際に来てみないと状況は分からないと思います。
とにかく来て戴きたいです。震災当初より復活しているところもあります!
美味しい物もいっぱいありますから、是非いらっしゃってください!」
阿部さんには笑われてしまったけど、
本当にまた行きますからね。ヤジキタ。
そうだなぁ、今度は少し気候が良い時期に(笑)
また阿部さんと美味しいお酒を飲みたいもの。
それまで元気で、岩手のリスナーさんに向けて番組を届けて下さいね!
*阿部さんが活躍する『釜石やっぺしFM』は毎週水曜日の15時~OA中です!
阿部さん、今回も本当に有り難うございました!
阿部さんと別れた我々は上閉伊郡大槌町の吉里吉里という地区へ。
すぐ目の前が海というこの町も、津波で町の3分の2が被害を受けた。
いまも更地になっている場所は多く、海から2kmほど離れていても、
遮るものがないので海の様子がよく分かる…。
実はこの場所に震災直後にいち早く仮設食堂をオープンさせた女性達がいるのです。
浜の元気なお母さん達という事で、さっそく向かう事に!
このお店の外観が凄く良いんです。
何とも元気が出る鮮やかな緑。
お店に行くとお母さん達は雪下ろしの作業中で、
でも声をかけると元気に挨拶をしてくださいました!
お店の名前は「よってったんせぇ」。
吉里吉里の言葉で「寄っていってください」という意味だ。
手作り感で溢れる空間はとても居心地がよく、
取材時がちょうどお昼時だったのも手伝ってあっという間に満席に。
お店の一角を借りて事務局の芳賀カンナさんにお話しを伺いました。
芳賀「もともとは女性が集まってマリンマザーズきりきりってのをやってたんです。
港に揚がるワカメの茎とか芯の部分が廃棄処分されるのを見て、
なんとか利用出来ないかってところからスタートしたんですけど。」
三陸で獲れるワカメは絶品である。
それを利用して加工食品を作っていたのが「マリンマザーズきりきり」だった。
しかしそれも震災の津波で加工場が流されてしまい、一時期ストップすることに。
芳賀「でもたまたまウチにワカメが15キロ残っていたんです。
それでもう一度始める事にしたんです。
いまお店がある場所は震災前は商店街でした。当時の写真も飾ってあるんですけど、
なんせこの辺りは私達が子供の頃から遊びまわってた場所です。
だからこそ、この場所でお店をやる事に意義があると思って、
ここに“よってったんせぇ”をオープンさせたんです。」
井門「町の方の反応はどうでしたか?」
芳賀「はい。まずそれまでは必要じゃないものも含めて“貰うだけ”だったんですけど、
お店をオープンさせた事によって、
自分のお財布からお金を出して何かを買う喜びは大きかったみたいです。」
芳賀さんはこうも仰っていました。
“今年は目に見える復興が始まった。”と。
3年が経った現状をどういう風にお感じですか?の問いには、
“確かに速度は遅いかもしれませんけど、
戦後何十年もかけて作ってきたものを数年では作れないと思っていますから。”とも。
この言葉はとても強く僕の心に残っています。
ひょっとしたら震災から3年の月日が経つからこそ出てくる言葉かもしれません。
一度破壊し尽くされてしまったものを(それは地域の絆も含めて)取り戻していくには、
時間がかかるのは仕方の無いことだと。
でも誰かがやらなきゃいけない。
それなら、私達がやってやろうじゃない!という気概が芳賀さんにはあるのです。
震災後、胃袋から町の人達を元気にしてきた「よってったんせぇ」。
こちら自慢のワカメらーめんを僕もいただきました!
このインパクト、どうですか!?
澄んだスープにこれでもかってくらいの三陸ワカメ!
頂きます~!!っとワカメと麺をすすると、
もうワカメの歯ごたえが凄いのなんの!!
いただいたのはセットだったんですが、
ワカメの漬物やオニギリに入ったワカメ味噌も素晴らしく旨かった!!
井門「芳賀さん、なんでメニューがこんなに安いんですか?
ラーメンもカレーも300円ですよ!びっくりします。」
芳賀「ここは前に商店街だった場所です。子供達が元気に遊びまわっていました。
そんな子供達がおやつ代わりに食べられる様に、この価格にしているんですよ(笑)」
芳賀さん…いや、よってったんせぇの皆さんの優しさですよね。
これからもこの優しさと力強さで、町を元気にしてってください!
続いては宮古市の田老町へ。
こちらは吉里吉里から車でおよそ1時間ほどの場所にあります。
震災当時この地区には最強の防潮堤とも呼ばれた、
高さ10mの防潮堤が建てられていました。
なぜそれだけの高さの防潮堤があったのかというと、歴史がそうさせたのです。
この地区は明治と昭和の2度、大きな津波に襲われた歴史を持ちます。
それを受けて昭和に入り、かなりの年月を費やし(間に大戦もあった為)、
長さ2600m、高さ10mもの防潮堤を築きました。
しかしこれだけの高さをもってしても、あの時の津波には敵わなかったのです。
ここでお話しを伺ったのは、
宮古観光協会・学ぶ防災ガイドの佐々木利香子さん。
待ち合わせは震災遺構となる事が決まっている「たろう観光ホテル」の前でした。
このホテルが…津波の恐ろしさをこれでもかと言うほど教えてくれました。
3階の高さまで津波が押し寄せたため、そこまでの鉄骨はむき出し。
すぐ目の前が海という事もありますが、一体どれぐらいの力で襲いかかってきたのか…。
佐々木さんは防災ガイドとして、あの時に何があったのか?
そしてそこで何を学んだのかを訪れた人達に伝える仕事をしていらっしゃいます。
佐々木「実はこのホテルの社長さんがあの日、
ホテルの6階から津波の映像を撮影していたんです。
防災ガイドの一環として、それを資料映像として、
まさにここの6階の部屋で希望者にお見せしてもいるんです。」
本当なら我々も6階でその記録を見せていただく筈だったのですが、
あいにくこの時、田老地区が停電してしまい見る事は叶いませんでした。
それでも6階の部屋までは上がらせて頂いたわけですが…。
佐々木「当たり前の事が当たり前でなくなったんですよ、あの震災の時は。
それをここで暮らす誰もが痛感したんです。」
長い歴史の中で何度も大きな津波に襲われた、田老地区。
この田老にはこんな言葉があるといいます。
それが…
佐々木「津波てんでんこ、いのちてんでんこなんですよ。」
これは“地震が来たらまず自分の命を守れ”という事。
“自分の命を守る為に、それぞれがちゃんと避難する”という事。
確かにあれだけの大きな地震に襲われたら、まず自分の家族を心配します。
だけど、それぞれが防災意識をちゃんと持っていれば、
そうです、“地震がきたら、まず避難!”
“避難する事さえ決めておけば、その先で必ず家族とは会える!”という意識があれば、
命を守ることは出来るはずなのです。
佐々木「親からは口酸っぱく言われていた筈なのに、
あの震災の時はそれが活かされませんでした。多くの方の命が失われてしまった。
だからこそ、それをいま生きている私たちが伝えていかないと。」
この田老の町も復興計画が進んでいる。
佐々木さんが笑顔で話してくださった、段々畑のようになるんですよ!という言葉。
工事が進んでいけば、田老の町に外から入って来た時に、
そこに立ち並ぶ綺麗な建物や自然の風景に驚くようになるのだろう。
津波によって壊滅的な被害を受けた町が、こんなにも綺麗になったんだって、
また僕らも訪れた時に驚かされるのだろう。
もう少しだけ時間はかかりそうだが、その姿は、この目で見たいと思う。
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あの震災から3年。
被災地以外にお住まいの方は、どんな想いを持たれているだろう。
そして今回の放送を聴いて、どんな事を思われたでしょうか…。
僕はやはり今回も多くの方々が仰っていた、
“来てください”という言葉に集約されている気がするのです。
今までとは違う、目に見えて復興が始まりつつある東北の姿を見に、
そして行ける場所がまた少しずつ増えてきた被災地の今を知りに。
僕も色んな方に足を運んで戴きたいのです。
――自分の力だけでは何も出来ないかもしれない。
そんな風に思う方も多いと思います。
でもあなたが訪れる事が、どれだけ被災地の方の笑顔を増やすことになるか。
地元自慢の美味しい物を戴いて、あなたが美味しい!というだけで、
どれだけ皆さんが幸せな気持ちになるか。
これから東北は春を迎えます。
東北の方の笑顔を増やすことも立派な支援。
少しずつ暖かくなっていく東北に、皆さんも行ってみませんか?
あなたが出来る支援が、きっとそこにはあるはずです。