復興応援SP 新しいまちを目指す石巻|旅人:井門宗之

2014-07-18

 

前回の池袋の旅で宮城のアンテナショップをお邪魔した一行。
YAJIKITAメンバーの心にはしかし「実際に宮城に行きたい!」という想いがあった。
しかも今年は何故かチームYAJIKITAのトレンドワードに「女川丼」が入ったり、
僕自身も下北沢で、お馴染「高政」の高橋正樹さんとお会いしたり、
なんせ宮城が熱いのであります。

 

 

井門P「よし!“夏休みは東北で!”をキーワードにして、
宮城に行こう!おかせいで女川丼食べよう!」

 

一同「お~っ!!!!」
(そっちがメインかい!)

 

ってな訳で東北の魅力をあますところなくお伝えする為に、 


更に言えば「忘れないで」をやっぱり合言葉に、
今週と来週は宮城の取材模様をたっぷりお伝えしようと思う訳です。
何度も足を運んでいる中で、やっぱり情報が少なくなりつつある被災地の現状。
なんとか僕らの放送を聴いたリスナーさんにも足を運んで戴けるように、
YAJIKITAでは地方ロケ初参戦の永尾Dも気合い十分なわけです。
(永尾さんは別番組で何度も何度も東北の取材を行っている心強い味方)

 

実際皆さんいかがですか?
震災から3年4カ月で何がどう変化したか…、
正直報道も少なくなったと感じる方も多いはずです。
もちろんマイナスの側面だけじゃなく、
前に向かって歩みを強くしている場所も沢山あります。
今回僕らが取材に行ったの石巻と女川はそんな町の一つ。
勿論、復興までは一筋縄でいかない部分も多々ありますが、
それでもここで暮らす方々は“前へ!”という想いで力強く頑張っているのです。

 

まず今回は石巻編から。
オープニングは震災直後に訪れた「石ノ森萬画館」です。
仙石線石巻駅から10分程度、旧北上川の中州に位置する石ノ森萬画館。
ここからの景色も随分と変わりました。今は「輝く人」というオブジェも。

 

 

 

 

 

 

井門「震災当初の風景と随分変わりましたね。」

 

吉武「そうだね。あの頃は川の両側は瓦礫が積み上げられていたし、
当時は規制線も張られていて自衛隊の重機が沢山いたもんね。」

 

 

ここに来ると思いだす。
当時作業されていた自衛隊の方にかけられた言葉。

 

――「どうか、この現状を伝えてください。」

 

あれから3年4カ月。
僕らはちゃんと現状を伝えられているだろうか?
でも、だからこそ萬画館でオープニングが録れて良かった。気持ちを新たにする。

 

 

 

 

 

 

今回の取材で僕らがまず向かったのが、
石巻市街地より車で20分程の場所にある、 


宮城県慶長使節船ミュージアム:サン・ファン館」。

 

 

1613年(慶長18年)、仙台藩主伊達政宗の命を受け、
支倉常長ら慶長遣欧使節団はヨーロッパへ向けて旅立ちました。
その一行を乗せ、太平洋を往復したのが木造洋式帆船「サン・ファン・バウティスタ号」。
その復元船を係留しているのが
「宮城県慶長使節船ミュージアム サン・ファン館」なのです。

 

 

東日本大震災の影響で、長らく休館をしていましたが、
慶長遣欧使節出帆400年を迎える昨年の11月、宮城県復興のシンボルとして再開。

 

 

この慶長遣欧使節、
伊達政宗が支倉常長に命じてヨーロッパに行かせた使節団です。
では何故遠いヨーロッパの地まで遣わされたのか??
「伊達政宗は東北に独立国を作りたかったんだよ」という説がなんとなく有力でしたよね。
海外との交易を独自に行う事により、幕府に対抗する力をつけたかったから、と。
でもどうやらその説は違っていたようです。それは後々に説明するとして…、

 

 

まずこちらの施設、とにかく面白いんです!
子供連れにぴったりの広場があったり、
資料展示ブースには伊達政宗や支倉常長のロボットがあったり(精巧で少し怖い、笑)。
こんな施設が近くにあったらしょっちゅう遊びに来ちゃうなぁ、というくらい。

 

 

早く営業再開してほしいと願う地元の方々が大勢いたんでしょう。
昨年11月の2年8カ月ぶりの営業再開時には、本当に多くの方が集まったそうです。

 

 

永尾「その時ぼくも取材に来てたんだけどさ、
天気はよくて船がキラキラしてて最高だったんだよ。 


しかもそのイベントでは大鍋で無料パエリアを作って振舞っていたんだ。」

 

髙橋「凄い賑わいだったんですよ~!」

 

 

そう言って嬉しそうに笑ったのは、 


サン・ファン館の企画広報課の髙橋翔子さん
髙橋さんも含め、サン・ファン館で働く方々には、
2013年に再オープンする事に大きな意味があったのだと言います。

 

 

髙橋「館長がずっと言っている事なんですけど、
実は慶長遣欧使節を派遣する2年前、1611年に、
東日本大震災と同じクラスの地震がここ東北を襲ったと文献に残っているんです。」

 

 

井門「震災からちょうど400年前ですね?」

 

 

髙橋「そうなんです。
そして2年後の1613年に、伊達政宗公はヨーロッパへ向けて使節団を派遣します。」

 

 

井門「こちらの再オープンのちょうど400年前ですね。」

 

 

髙橋「かつて使節団の派遣は政宗の野心からではないか?と言われていましたが、
それは実は違うのではないか…と。」

 

 

井門「と言いますと?」

 

 

髙橋「日本の小さな藩が自ら船を作ってその船で海外と貿易をする、
これが上手くいけばそこで暮らす人のこの上ない励みになると思うんです。」

 

 

井門「そうか…、政宗にとって使節団の派遣は、
人の心に輝きを取り戻させる為の復興プロジェクトの一環だったんですね!?」

 

 

髙橋「そうなんです。ですから我々も慶長遣欧使節団の派遣から400年後に、
どうしても施設を再オープンさせたかったんです!」

 

 

 

 

 

 

――東日本大震災と同規模の地震が、今から400年前にこの地を襲っていたという事実。
恐らくは今よりももっと復興への道のりは大変なものだったかもしれません。

 

ヨーロッパへ向け「サン・ファン・バウティスタ号」を出帆させた伊達政宗の想いとは…。
やはりそこには「震災復興のシンボル」的要素があったのかと思います。
藩の人々の笑顔を取り戻す為、復興への光とする為。

 

 

そしてその「復興のシンボル」を係留しているこちらの施設も、400年後に被災。
「運命」という言葉では簡単に括れないかもしれませんが、
やはりサン・ファン・バウティスタ号が出帆した400年後に営業を再開する事が、
大きな意味を持っていたのだと思います。

 

 

残念ながら当時の遣欧使節団は幕府のキリスト教禁教の影響もあり、
ヨーロッパ交易の念願を果たす事が出来ませんでしたが(支倉は7年もヨーロッパにいた)、
今のサン・ファン・バウティスタ号は、多くの人の心と心をしっかりと繋いでいます。

 

 

髙橋「中も見学出来るのでご覧になってください!」

 

 

という訳で、当時片道90日間もかけて太平洋を横断した船の内部へ。

 

 

井門「この中にどれくらいの人が乗っていたんですか?」

 

 

髙橋「支倉などの日本人が140名程度、スペイン人などが40名程度、 


合わせて180がこの船に乗船してました。」

 

 

井門「正直、相当狭くなったでしょうね…(笑)」

 

 

 

 

 

 

井門「この大きな棒はなんですか??」

 

 

髙橋「これが船の操縦をする舵です。
当時の舵はこういう形なんですよ。舵輪の形になるのはもう少し後の時代です。
あのワンピースで出てくるゴーイング・メリー号ありますよね?
あの船の舵の形はサン・ファン・バウティスタ号と同じです(ドヤァ)」

 

 

井門「髙橋さん…ワンピース、読み込んでますね?(笑)」

 

 

髙橋「えぇ!(キッパリ)」

 

 

 

 

 

 

井門「あれ?あそこにある人形は…当時の船員ですか??」

 

 

髙橋「はい、食事を摂っている所ですね。
船の中では乾燥させたお米や漬物など長期保存出来るものを食べていた様です。
また当時の船旅で恐れられた壊血病にこの船の乗組員が罹らなかったのは、 


栄養豊富な仙台味噌のお陰とも言われています!」

 

 

 

 

 

 

井門「でもこれだけの人数の食事を作るのも大変だったでしょうね?」

 

 

髙橋「船で一番怖いのは火事です。
ですから煮炊きする竃は風下に作られていたり、様々な工夫はしてあったみたいです。
とは言え小さな竃で180人分の食事を作る訳ですから、
常に火はついていたようです。」

 

髙橋「この船にはスペイン人の宣教師ルイス・ソテロと、
スペイン提督のビスカイノが乗っていたのですが、仲が悪かったみたいです。」

 

 

井門「こんな狭い中でスペイン人同士が仲悪いって、
どんだけ空気悪いんですか!?(笑)」

 

 

 

 

 

 

甲板に出ると船の船首辺りに「獅子頭」が付いている。
これは当時の設計図には付いていなかったのだが、
復元する際に日本人の心として新たに取り付けたのだとか。

 

 

 

 

 

 

当時この船に乗っていた日本人はどんな想いを胸に秘めていたのだろう。
その胸に、復興への想いがあった事を願う。
そこから400年――今、この施設で働く皆さんの胸にあるのは、
この船を震災復興のシンボルとしたいという想いだ。

 

三陸の海の方を向きながら、凛と佇むその雄姿。
その姿に、胸を熱くせずにはいられない。

 

 

 

 

 

 

そう言えばこの旅に出る前、永尾Dからこんなメールが届いていた。
――石巻に行くなら「いまむら」でご飯食べよう!――

 

聞けば若き料理人の熱い想いが詰まった日本料理のお店だという。
石巻と言えば海の幸が豊かなこと、更に農産物も豊かなことで知られている。
そこにあってYAJIKITAが誇る食通、永尾Dが唸るのだから、まず間違いない!
我々は一旦お店で取材させていただいてから、夜はいまむらで食事をする事にした。

 

石巻の中心街にある「四季彩食いまむら」。 
お洒落な佇まいにこちらの期待が膨らんでいく。

 

 

 

 

 


お話しを伺ったのは御主人の今村正輝さん
千葉出身であり、東京の料亭などで日本料理の修行をされていた今村さんは、
震災直後からボランティアで石巻に入った。

 

地元の方や仲間との結びつきを強くしていった今村さんは、
ボランティアが終了した2012年3月には「もう石巻に店を開こう」と決心していたという。
石巻は料理人として最高の環境である“食材の宝庫”という事も勿論あったのだろう。
*素敵なパートーナーとの出会いもあったみたいですよ、コノコノ。

 

 

今村「でもこっちに拠点がない県外出身者に、
なかなか銀行もお金を貸してくれなくて…。お店のOPENまでに時間がかかりました。」

 

 

そこでも力を貸してくれたのは、
ボランティアを通じて仲良くなった地元の方や仲間達だ。
店内は仲間の手伝いもあり、全て自分達の手で作り上げた。
そうして待ちに待ったお店のOPENは2013年4月26日。
地元の食材をふんだんに使った日本料理の店、
「四季彩食 いまむら」が石巻に産声を上げたのである。

 

 

今村「日々、勉強させていただいてます。」

 

 

 

 

 

 

真摯な眼差しでそう話す、今村さん。
この人が作る料理が美味しくない訳がない!
収録を終えて一旦ホテルに戻った我々は、予約の時間を待った。

 

夜の「四季菜食 いまむら」は表情も少し違う。
凛としていながらも、店内から少し聞こえる賑やかな声に、ワクワクしてくるのだ。
――いまむらの料理にやっとありつける!――
そわそわしている我々を笑顔で迎えてくれたのは、
昼のインタビュー時とは違う“料理人の顔”の今村さん。
「先程は有り難うございました!」と言う声もどこか凛としていて、“おっ?”と思わせる。

 

カウンターに通された我々は、
そんな今村さんの作る料理の数々に幸せな溜め息をつかざるを得なかったわけです。

 

 

まずお通しから粋でね。地元の農家さんが作った、朝採れ野菜を蒸したもの、
カツオの南蛮漬け、ししとうとジャコの油煮の3種が彩りよく並びます。
野菜の力強い味わいに、
「あぁ、もうここは旨い物しか出さないだろうなぁ」と期待が膨らむわけですよ。
しかもその隣にはお猪口で供された一番出汁…。

 

 

 

 

 

 

永尾「ぼくね、前に来た時にこのお出汁が旨くて、何度もお代りしたんだ(笑)」

 

 

はい、今回もこの人、何度もお代りしてましたとも(笑)
でもその気持ちは物凄くよく分かるんです。
丁寧に取られた出汁の旨味がやんわりと口に広がって、
この出汁で作った料理の“旨い予感”を倍増させていく。

 

 

そして、そこから始まる素晴らしい料理の数々…・。
まずはお造りです。このお造りもこの日は全て石巻のもの。
金華アジ、ヒラメ、ホタテ、スミイカ、初鰹。
勿論、山葵や生姜のすりおろしといった定番も添えられていますが、
他にもそこに添えられていたのは、岩塩、大葉のソース、自家製の酢味噌。
この酢味噌が絶品でね、スミイカにこれをたっぷりとつけたら…んもうっ!

 

 

 

 

 

続いては一行が震えた“お代りしたくなる味”!!
トウモロコシの茶碗蒸しの上にホタテ、ウニ、オクラ、土佐醤油のジュレ、海ブドウ。

 

 

 

 

 

 

天麩羅も凄かった!!野菜の味が濃いのなんの。
新生姜の肉巻き、地元農家さんのピーマン、ナス、サツマイモ、
そしてウニをハンペンで包んで新海苔で巻いたもの…。

 

 

 

 

 

 

贅沢に時間が過ぎていく中で、
靴を脱いでスリッパでいるリラックス感が心地よさをどんどん増していきます。
器のどれもが可愛いし、料理を上手に引き立てている。
食事をしながらそこに目を落とすのも楽しいです。

 

 

今村「地物のホヤと三つ葉の天麩羅にユカリを振りかけた物です。
ホヤの匂いが苦手な方でもいけますよ!」

 

永尾「ぼく、ちょっとホヤは苦手なんだけど…どれどれ。
うん…これは…(静かに親指を立てる)」

 

 

 

 

 

 

焼物は穴子と仙台牛のステーキを。

 

 

 

 

 

 

こちらも仕事がしっかりとされていました。
白焼きした穴子に山葵と昆布の佃煮を乗せて、海苔に巻いて頂くんです!
この穴子を食べている最中、今村さんの様にIターンで石巻に移り住んだという女性が、
嬉しそうにこの穴子の素晴らしさを説明してくれる。
石巻の食材の素晴らしさを説明出来るのが嬉しくて仕方ないってな風に。
それが見ていて本当に心地よいのです。

 

仙台牛のステーキの付け合わせは、
茄子にフォアグラと味噌を合わせた物を乗せて焼いたもの。

 

 

井門「この茄子とお肉、同時にいっちゃって良いですか??」

 

今村「合わせても美味しいですよ!」

 

井門「では…いっただっきまーす!!

 

パクっ…

 

…うわぁ…

 

もう…これは…走り出したくなる味です…。」

 

 

 

 

 

 

さらに締めは土鍋ご飯。
僕らがセレクトしたのは焼いた鮎を舞茸と一緒に炊き込んだ炊き込みご飯。
1杯目は普通に頂いて、2杯目に出汁を注いでひつまぶしの様にして食べるんです!
そこにいた全員が、唸る、悶える、そして、走り出したくなる(笑)
えぇ、これ、夢中で食べ過ぎて写真を撮るの忘れました!

 

最後に出てきたのは繊細なデザート。
永尾さんが南瓜のムース、僕がイチゴとピンクグレープフルーツのソルベ、
ミラクルさんとテツヤが桃のホッペというデザート。

 

全てに今村さんの心がこもった料理の数々。
こんな幸せな満腹感ってあるのでしょうか(笑)
永尾Dが「どうしても!」と言った理由がよく分かりました。
石巻に来たら必ずまた!今村さん、スタッフの皆さん、御馳走様でした!!

 

我々が宿泊も含めてお世話になったのが、石巻市街地より車で40分… 


くじら料理の民宿・瑞幸さんです。

 

実は石巻は国内有数の捕鯨基地としても知られており、「鯨大和煮」などが有名。
津波の被害を受け鯨缶詰の工場は全壊し、大きな缶詰のデザインの貯蔵タンクが流れ、
石巻の被災のシンボルのように報じられた時期もありました。

 

そんな石巻の伝統の食文化でもあるくじら料理が自慢の宿が、
くじら料理の民宿 瑞幸さん。

 

 

 

 

 

 

ご主人甲谷泰成さんは高政の髙橋さんの先輩というではありませんか(笑)
(実はこちらに来る前に高政さんに寄ったんです。そのお話しは次回。)
高台にあるこちらの宿、駐車場からの眺めが絶景でした。
眼下に広がる三陸の海。

 

 

 

 

 

 

甲谷「震災の時は、ここから海底が顔を覗かせているのが見えました。」

 

 

潮が引いて海底が顔を覗かせる…。
東北沿岸を回っていると必ず聞こえてくる震災時の現象だ。
それぐらい津波の力が大きかったという事だろう。
以前岩手沿岸を取材した際は10mの水深がある場所ですら、底が見えたというのだから。

 

 

甲谷「ここは民宿という事もあったので、
ガスもプロパンでしたし、水もありました。
多くの方に震災時はこちらに避難していただいたんです。」

 

井門「あの日は寒かったですから、
ここで温かい物が食べられたのは心強かったでしょうね。」

 

甲谷「凄く覚えてる事があって…
夜に情報を得ようと車にワンセグを見に行ったんです。
当然ここから見下ろす湾は静かで、なんの灯りも見えません。
だからなのか、外に出て空を眺めると星が物凄く綺麗だったんですよね…。 


その綺麗星空の事をやけにはっきり覚えています。」

 

 

地震の影響は建物や駐車場を取り囲む柵にもあったようで、
酷い所だと1m程度落ち込んだ柵もあったという。

 

甲谷さんはとても笑顔の素敵な方で、
話しを聴いているだけで心がホッとする。
きっと甲谷さんがここで温かい料理を出してくれるだけで、
ここに避難していた方々の心もほぐれただろう。
震災後、営業も少しずつ再開し、
いまでは再び石巻自慢の鯨料理を食べさせてくれるようになった。

 

 

甲谷「親父が元々調査捕鯨船に乗っていたこともあって、
鯨の肉も日本船舶から仕入れています。
なのでなかなか味わう事の出来ない希少部位も提供出来るんですよ!」

 

 

いまむらもそうだったが、
瑞幸の鯨料理の数々も…溜め息が出る程の味でした…。
ではでは、ここでもその美味の数々を。

 

まずは紅白お造り。
ミンククジラの赤みと皮のサンドイッチは赤みの肉厚さと脂の風味が…むぅ。

 

 

 

 

 

 

続いて超希少部位オノミとウネス!
絶対に都内じゃ食べられない部位…その脂身は、もはや霜降りの牛肉!

 

 

 

 

 

 

クジラベーコンもこちらのはちょっと違う。
なんと塩漬けにしていないのだ!

 

 

 

 

 

 


クジラのサエズリ(舌)をボイルしたという珍しい物も!

 

 

 

 

 

 

そして絶品の竜田揚げ。

 

 

 

 

 

 

テツヤ「もう…美味し過ぎて…」

 

永尾「ここの鯨料理は鯨料理界でもテッペンだからね(笑)
この味を覚えたら…他のは食べられないぞ~!」

 

甲谷「ははは(笑)有り難うございます!」

 

 

和やかに時間は過ぎていって、
宿自慢のクジラ料理を堪能した僕らは甲谷さんを花火に誘った。

 

ちょうど永尾Dが「取材先で貰ってさ~」と、
国産線香花火や手持ち花火を持ってきていたのだ。
東北の夏の入口に花火も素敵ではありませんか。
甲谷さん、少し照れながらも奥さんと2人の娘さんも誘ってきてくれました。
三陸の海を眺めながら、静かに瞬く線香花火。
その美しさに僕らも「うわぁ…!」なんて歓声を上げたりして。

 

耳を澄ますと聞こえるのは虫の声くらいで。
静かな、どこまでも静かな世界で、火花がチッチッチッと鳴っている。

 

震災から3年4カ月。
花火をする娘さんの笑顔を見守る甲谷さんの表情は、どこまでも柔らかかった。

 

翌朝の瑞幸の朝食も素晴らしかった。
何から何まで満たされた一行に甲谷さんがこんな事を…

 

 

甲谷「何故ですかね…初めて皆さんにお会いしたのに、
初めてな気がしないんですよ(笑)」

 

永尾「ぼくらが図々しいからじゃないですか?(笑)」

 

井門「どこに行っても常連みたいな顔してるもんね(笑)」

 

 

三陸の海を見下ろすと、牡蠣の筏が浮かんでいる。
震災前に比べて半分というが、それでも命はまた、この海で確かに育まれている。

 

 

 

 

 

 

この旅の最後に向かったのは、東日本大震災の震源に最も近い神社。 


牡鹿半島の先端の沖合にある島「金華山・黄金山神社」です。
島までの船も昨年5月、日曜のみ鮎川港より定期便が復活。
取材した日も沢山の方が船に乗り金華山を目指していました。

 

 

 

 

 

 

 

この金華山、標高445mの山で、 


恐山・出羽三山と並ぶ、奥州三大霊場一つです。
かつての参拝者は、島に一歩踏み入れた瞬間から草履を履き替えたと言いますが、
実は金華山黄金山神社に3年続けて参拝すれば、
一生をお金に困らないと言い伝えられています!

 

 

吉武「今回3回お参りすれば、困らないんじゃないでゲスか?へへへ。」

 

井門「3年続けてっつってんだろ、強欲め!」

 

吉武「へへへ。ダメでゲスか。へへ。」

 

 

そんなやり取りをしながら、
一路神社を目指して山道を登っていったのですが…。
島という不便な立地もマイナスに作用して、震災の傷跡はまだまだ至る所に残っています。
震災の影響もさることながら、その年の台風による大雨の影響で土砂崩れした場所も。
更に参道はまだまだ地面がぼこぼこの状態で、
この風景は震災直後のあの風景を思い出してしまいます。

 

 

 

 

 

 

 

テツヤ「あっ!鹿だっ!」

 

 

 

 

 

 

境内には神様の使いでもある鹿(野生)が参拝客から餌を貰ったりしている。
山の上の神社は空気も凛として、神聖な印象。 


僕らは神社の特別室で権禰宜の須藤清子さんにお話を伺った。

 

 

井門「こちら特別室…ですか?
なんだか旅館の様な雰囲気ですね??」

 

須藤「はい、場所的な性質上、参拝者が宿泊出来るようになっています。
御祈祷もさせて頂いて1泊9000円です。」

 

 

海を越えて山を登り、ようやく辿りつく黄金山神社。
1200年以上の歴史を有するこの神社、今ではエンジン付きの船であっと言うに来られるが、
手漕ぎの船の時代はそれはそれは大変な祈りの道だったに違いない。

 

 

須藤「海を渡るのは天候次第ですからね…。
昔は今よりももっともっと、参拝が困難な場所だったんです。
ですから3年続けてお参りに来ると“一生お金に困らない”と言われるんですよ。」

 

 

そんな金華山黄金山神社だが、
前述の通り震源に最も近い場所である。
いったいどんな影響があったんだろう…。

 

 

須藤「震災の一番の影響は、島全体1.5m沈んだことです。」

 

井門「だから古い桟橋が沈んだ様に見えたんですね…。
当時は何人の方がこちらにいらっしゃったんですか?」

 

須藤「職員が20人、この島にいらっしゃった方が20人、
合わせて40人がおりました。
ただここが宿泊施設でもあるので、水も食料もありましたし、
元々が島なので電気も自家発電出来ますし、ガスもプロパンでした。
ですからある意味で救われた部分もあります。」

 

 

当時島にたまたまNHKの方がいらっしゃったという。
その方が地震のエネルギーで強烈に潮が引いた瞬間の写真を撮っていた。

 

 

須藤「こちらがその写真です。
牡鹿半島まで海底が見えていて、まるでモーセの十戒のようです…。」

 

 

 

 

 

 

地震に続き、台風による大雨で島はまた地形を変えた。
その傷跡はまだまだあちこちに残る。

 

 

須藤「こんな状態ですから、いらっしゃる方にはご不便をおかけするかと思います。
それでも全国から多くの方々にお越し頂き…感謝しております。」

 

須藤さんのお話しを伺った後、
我々も本殿やその他のお社をお参りした。
境内を更に階段で登っていくと現れる本殿。その佇まいの美しさ。

 

 

 

 

 

 

井門「これで1回参拝したわけだから、あと2回だね。
でもこれだけで何か良い事がありそうな予感(笑)」

 

吉武「また来たい場所が増えたね。」

 

 

 

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また来たい場所、
また会いたい人、
東北に来るたびにその数が増えていく。

 

違う季節にこの景色を見てみたい。
またこの人の話を聞きに来たい。

 

街のシンボルとして街と共に船出をした、サン・ファン・バウティスタ号。

 

三陸の味にホレ抜いてこの街に移住した、いまむらの御主人。

 

ここに来なきゃ絶対に食べられない、くじら料理の瑞幸。

 

そして震源に最も近い場所で神を祀る、金華山黄金山神社。

 

ここにあるものの力と、いる人の力を信じて進む人の力強さ。

 

皆さんも訪れてみませんか?

 

あなたの笑い声を、この街の彩りに。
この街の笑顔を、更に増やすために。