中越大震災からの復興、10年目の新潟|旅人:井門宗之
2014-08-27
崩れた山肌に覗く赤土。
倒壊した多くの家屋。
ヘリに運ばれる牛の映像。
鮮明に記憶に残っている方も多いのではないでしょうか。
10年前の10月23日、新潟県中越地方を襲った中越大震災。
僕自身、震災から1ヶ月後に被災地を訪れ、
YAJIKITAでも震災から1年後の中越を訪れている。
あれから10年が経ち、その間には様々なことが起こった。
中越地方はその10年で、いったいどんな変化を遂げてきたんだろう。
そしてそこに暮らす人達の気持ちはどんな風に変化してきたのだろう…?
今回のYAJIKITAはそんな事を想いながらの取材。
その旅の始まりは地震の震央に建てられた「震央メモリアルパーク」からだ。
震央メモリアルパークは長岡市川口にある。
山の中腹にあるそこには、震災から1年後に建てられた柱が。
ここに記されているのは地元の小中学生のメッセージ。
「義援金で本を買いました!」
「笑顔でがんばります!」などの言葉には、震災からまだ1年の温度が宿っている。
考えてみれば震災時に中学生だったとして、それから10年。
もう立派な大人になっている計算だ。
若い世代は震災から10年でどんな事を思っているのだろう。
そして10年前にお邪魔したあの場所は、今はどんな姿なのだろう?
まず向かったのは小千谷であります。
小千谷市「錦鯉の里」。
YAJIKITAで訪れた当時は、ようやく鯉の品評会が再開した年だった。
ここでお話しを伺ったのは平沢勝佳さん。
知らなかった錦鯉の生態について、色々驚かされることに…。
平沢「こちらの施設にはおよそ100種類いると言われる錦鯉のうち、
20種類がいます。錦鯉の価値はその系統=血統と体型、これで決まるんですよ。」
体型…これはただ大きければ良いというわけではありません。
中には成長の過程で曲がって(!?)しまう個体もあるとのこと。
でも、大きさも気になりますよね?
こちらで一番大きな鯉はどのくらいのサイズなんでしょうか??
平沢「最大で1m3cm、重さはおよそ20kgです。」
キタコレ。
3歳になろうという我が子よりも大きいし重い…。
では錦鯉の寿命はどのくらいなんでしょう?
平沢「川や池にいる黒い鯉、あれで50年~60年です。
錦鯉はそれよりも少し短い。20年~30年くらいです。
ここにいる鯉で一番年上は35歳です。」
ほほう…。
となると小谷○輔と同じ年齢という事になるな。
アイツを今度から錦鯉と呼んでやろうか…。
それはさておき、館内には実際に錦鯉が優雅に泳ぐプールがある。
ここで泳ぐ沢山の鯉たち。その美しさ。
平沢「錦鯉は泳ぐ宝石とも呼ばれますからね~。」
ちなみにいま現在養殖される錦鯉は8割が海外輸出向けとのこと。
ヨーロッパで非常に人気の高いペットなのだという。
平沢「日本人にはない感覚なんですけど、
外国人のお客さんが来ると、このプールの鯉に触るんですよね(笑)
あっ、ほらあそこに外国人の女性がいますけど…触ってるでしょ?」
井門「あっ、ほんとだ!餌に近寄ってくる錦鯉をなんとも親しげに撫でている…。」
河合「わ・私も触ってみていいですか?」
平沢「あっ、どうぞどうぞ!」
河合「(餌を放り投げつつ)エイ!あっ、凄い!寄ってきた~!
(錦鯉の頭を撫でつつ)可愛い~♪」
河合さんの少女劇場を堪能したところで…(笑)
そもそも小千谷は農業の盛んな地域。
大変な労働環境の中で楽しみとして生き物を愛でる文化が育ったのだとか。
そして池の鯉は冬場の大切なタンパク源でもあった。
小千谷の人々にとって鯉の存在は持ちつ持たれつの関係といっても過言ではない。
この関係はこれから先も変わらずに続くだろう。
小千谷の人達が丹精込めて育てた立派な鯉、見に来ませんか?
平沢「ぜひ、観光に来て頂きたいですね!」
井門「前に行った山古志の牛の角突き。
もうね、すっごい迫力なんだよ!モーって鳴かないんだから!
何て言うの??ブオォオオオオオオォォォ!って鳴くの!」
テツヤ「それ、もはや怪獣じゃないですか!?」
井門「だって1t越えるんだよ!?
牛っていうか、怪獣でしょ、それは。」
井門が熱弁を揮う牛の角突きとは、いわゆる闘牛であります。
山古志の牛の角突きは、一説には1000年の歴史を誇るとも言われており、
国の重要無形民俗文化財にも指定されるほどなのだ。
闘牛場までのスロープにはリニューアルされ山古志闘牛場メモリアルギャラリーが。
写真とプレートで綴る山古志闘牛の歴史がここで分かる様になっている。
山古志闘牛会会長の松井治二さんにお話しを伺った。
御年80歳にもなる会長、物凄くお元気だ。
なんせ作家の河合さんをナンパしようとしている…(笑)
そして放たれる言葉のどれもが熱い。
松井「常に夢を持って、実現させる!これですよ。
ただ夢を持ってるだけじゃだめなんだ。実現させなきゃ。」
恐らく山古志闘牛も震災後に大変な状況だったのだろう。
いや実際に取材させていただいた9年前、確かに大変な状況だったのだ。
せっかく育てた牛もその多くが死んでしまったのだから。
松井「先の見えない中で、仮設暮らしの中で牛を飼ってね。
想いは一つですよ。死んでしまった牛の為にもやるんだ!ってね。
伝統文化を守る為にやるのではない。
やりたいからやるんです!」
勿論、その背景には山古志闘牛の歴史を重んじる心がおありなのだろう。
しかしそれ以上に、山古志で生きる男達の本能が、
山古志闘牛を再生させてきたのだ。
松井「牛からは、生きる事を教えて貰ってますから。」
そう言ってカラカラと笑う会長が眩しい。
取材に訪れた日も勿論闘牛が行われていたのだが、
勢子(せこ)と呼ばれる牛を引く男衆の熱気も凄まじい。
何より、実際に戦う牛(南部牛)の迫力、大きさ、猛々しいことこの上ない。
季節は限られているが、割と見る機会は増えている牛の角突き。
まだ見た事がないという方、是非その迫力を体感してみてください!
牛の迫力に慄いた一行、続いても哺乳類と戯れる…というが。
アルパカ牧場。
震災後、復興支援になればとアメリカから山古志へアルパカが3頭贈られた。
調べてみればアルパカはウシ目ラクダ科の動物。
牛なら山古志!の精神で飼育し始めたところ、これがとても飼い易い。
アルパカ牧場自体は2009年11月からのオープンなのだが、
現在は60頭あまりのアルパカが山古志にいるという。
こちらも明るくお話ししてくれたのが、アルパカ牧場の青木勝さん。
麦わら帽がとてもお似合いな方だ。
青木「ぼくは元々、村役場の人間なの。
震災後の山古志の人達は、3年の間、長岡で避難生活を送ってたんだ。
でもまた山古志に戻ってきた。
きっとそれはここが楽しいからなんだよなぁ(笑)」
もちろんかつての人口が全て戻ったわけではない。
でもここでの生活はスローライフそのものだという。
青木「見ての通りここは森林にしても、
農業にしても規模がそれほど大きくはないんです。
だから基幹産業ってのがないんだな。
う~ん、産物ねぇ…産物は人間かな?(笑)
ここにいる人達が面白いんだよ!」
元々が山古志は過疎の村だったわけで、
人口が戻らない限りは10年経っても復興の経過途中と呼ぶしかない。
でもその中で、暮らしている人が明るくなるように、
こうして楽しく努力している人達が多いのも特徴なのだ。
青木「いまね、アルパカ米ってのを作ってるの。
牛の糞でたい肥を作って米を作ってたんだけど、
同じウシ目のアルパカの糞でも出来るんじゃないかって…。
有機米としていま作ってるんですよ!」
アルパカのTシャツを着たおじさんが、
本物のアルパカを目の前にして、アルパカ米の話に目を輝かせている。
まだ収獲を見ぬアルパカ米、でもなんとなくだけど、絶対に美味しい気がします(笑)
山古志の未来に思いを馳せた時、
そこにアルパカが思い浮かぶって、なんとも平和で良いじゃないですか。
青木さん、アルパカ米の味の感想、また教えてくださいね!
青木さんとお別れした後は山古志の中枢でもある、
山古志復興交流館おらたるへ。
山の暮らし再生機構 地域復興支援員竹内春華さんにお話しを伺った。
山古志は震災以降、若い力で何か出来ないかを模索し続けてきた。
それは現在進行形でそうなのだ。
その中で地元の若者(20代~30代)が知恵を絞り、やまこし住民会議を開いている。
そんな中で村おこしの一つとして完成したのが、やまこしバーガーだ。
竹内「元々は地元の小中学生が作った山古志牛の肉団子がベースなんです。
それを改良して手軽に食べられる物は無いかって考えて。」
井門「出来上がったのがバーガーだった?」
竹内「1年ぐらいの試行錯誤の後に完成しました。
地産地消を考えた時にバンズも山古志の米を使った米粉パンにしようと思ったんです。
でもパンを作る場所がなくて(笑)
結局バンズをお米にしてライスバーガーにしました!」
こうして工夫に工夫を重ねて出来たのが「やまこしバーガー」であります。
ソースにも工夫があって、特製の「かぐら南蛮」を使ったソースが旨い!
井門「これは旨いっ!」
竹内「旨いですか!!旨いですか!!」
井門「竹内さん、声がデカい(笑)」
竹内「はっ!!! 失礼しました…(照)」
バーガーの他にもう一つの村おこしの食べ物が。
それがご当地唐辛子「かぐら南蛮」を使った「山古志伽哩」。
カレー好きの井門としてはカレーと聞いちゃ黙っちゃいられない!
早速そちらも頂くことに。
井門「あっ、緑色のカレーなんですね!?」
竹内「はい、かぐら南蛮を使っているのでこの色になるんです。」
井門「ではいっただっきまーす!(mgmg)
あっ、辛さが爽やかで旨いっすね!!」
竹内「う・旨いですかっ!?旨いですかっ!!」
井門「だから竹内さん、声がデカいって(笑)」
竹内「す…すみません(照)」
僕がこれまで被災地の取材を重ねてきて感じた事は、
その土地の食べ物が美味い事=その土地への求心力だという事。
それは東北の町もそうなんですよね。
美味しい食べ物屋さんがあれば、
人は車で他県からでも遊びに訪れる。
苦労して足を運んだ人の口コミの影響力は絶大だ。それは更なる人を集客する事に繋がる。
中にはそのままその地に根を生やした人だっているのだ。
始めは採算度外視でも良い(その分、一定期間は他で補てんすれば良いのだから)。
話題作りから始めて、まずは人を集める。
(女川の海鮮丼がその盛りの凄さから「竜宮城」と呼ばれ全国から人が訪れている様に。)
そしてそこで暮らしている人達は何よりも楽しそうにする。
青木さんが仰っていた、山古志の産物は人間、という言葉が光る。
竹内さん達の若い力があれば、山古志はもっともっと面白くなる。
そんな山古志を見に、そして遊びに、また来ますからね!
実は今回の旅で一つだけ不安だった事があった。
それが、ある意味この旅の肝にもなる「長岡まつり大花火大会」だ。
もともとは昭和20年8月1日の長岡空襲のあった時刻に合わせて、
慰霊の花火を打ち上げたのが始まり。
今年は中越大震災から10年という節目であるのと、
開催日の2日、3日が土日ということもあり大勢のお客さんで賑わうとのこと。
とは言え、折角新潟取材と花火大会の日程が被るのだから、
どうしてもこの映像は押さえておきたい。
そして同行D:音の匠としては「花火の音」はこの旅にマストだと鼻息も荒い…。
山古志では竹内さんや職員の方にも混雑せずに綺麗に観る事が出来るという、
素敵なポイントを伺いつつ(有り難うございます!)、
我々が選んだ鑑賞ポイントは…東山ファミリーランド。
キャンプ場やスキー場を併設する広大な場所なのだが、
どうやらここから花火大会の全景が見えるというのです!
河合「信濃川に沿って結構な広さで行われますから、
遠くからの方が全景は押さえられて良いと思います。」
長岡の花火大会は日本三大花火大会の一つ。
その混雑ぶりは尋常ではないと聞いていた。
会場の近くで見るとなると終了後の混雑に巻き込まれる可能性も高い。
土日開催、中越大震災から10年という節目の年。
「今年は何があってもおかしくないからね。」
そんな言葉を色んな場所で聴いてきた。
そしてそれら全てを考慮しつつ、
選んだ場所が東山ファミリーランドだったというわけである。
音の匠の運転のもと、我々は花火大会が始まる3時間前から東山に陣取っていた。
3時間前というと少々やり過ぎな感じもあるかもしれない。
「今年は何があってもおかしくないからね。」
ただ全てはこの言葉である。
何があっても大丈夫な様に、こちらも万全の態勢で臨むのだ。
別に早い時間から現場に陣取ってビールで乾杯しようなどという事ではない…の…だ。
我々が目指す場所の途中にはBBQ場もあり、この日はやはり大変な混雑。
その先も道のあちこちに車が停まっている。
「今年は何があってもおかしくないからね。」
そんな言葉が呪詛の様に頭をよぎりながら、匠は只管、山の上を目指す。
目指す場所はかなりの広さの芝生エリア。
ちょっとした野外フェスが出来そうな規模の場所だ。
既に集まっている人はテーブルを出したり、お酒を飲んだり、ゆったり楽しそう。
河合「あっ、ほら!
あそこにいる人達、スチールのカメラマンじゃないですか??」
テツヤ「ああ、間違いないですね!」
井門「やっぱりここは絶景のエリアなんだよ!」
匠「(動画サイトをチェックしつつ)ここでこの音なら申し分ないな…。ゴニョゴニョ」
それにしても気持ち良い場所なんですよね~。
広い芝生エリアには心地よい風が流れ、日が陰ってくると少し涼しさも感じる。
我々もコンビニで飲み物や食べ物を買い込み(ビ・ビールなんて買ってないんだからね!)、
花火が始まるまで芝生の上でごろごろする事に。
プシュッ!!
…あっ、今の音は気にしないでください。
しばらくすると井門のtwitter宛に新潟のリスナーさんからメッセージが。
「県南はいま豪雨です。この雨雲がそちらにいかない様にお祈りしてます!」
そのメッセージを読んだ瞬間、我々の脳裏には大荒れの岩手ロケが浮かんだ。
あのロケで雨女から雪女へと称号が格上げされた人物が、、、
このロケにも来ていたのだ…。河合さんである。
――前回のYAJIKITA会議にて。
永尾「長岡の花火大会に河合さんなんか連れてっちゃったら…。」
親分「そうだ
よ!雨で中止とか…なくはないよ!」
河合「えぇ~、そんな事ないですよぉ~♪」
――「今年は何があってもおかしくないからね。」
そんな思いで河合さんと空の様子を見ると…遠くから黒雲が!!!
匠「河合さんっ!ほら、あのペット、どっかやってくださいよ!」
井門「もう~、河合さん、ロケにペット連れてきちゃだめ!」
もはや雨雲=ペット。
更に…
匠「あの河合雲、なんとかしてっ!」
雨雲=河合雲とまで呼ばれる始末。
もはや彗星に自分の名前が付くレベルではあるまいか。
いやむしろ妖術使いの類…(河合さんごめんなさい)
しかし我々の不安はどこへやら、結局雨に降られることもなく、
いよいよ日本三大花火大会は幕を開けた!!
河合「始まりましたね!うわ~綺麗!」
井門「遠いですけど、ここからだと綺麗に見えますね!」
テツヤ「確かにここからスチールが押さえる理由が分かります。
少し小さいですけど、しっかり撮れてますよ!」
我々がその花火にキャッキャしている、まさにその時。
井門の横でガンマイクを装備していた音の匠の様子が徐々におかしくなる。
匠「うーん…。
っかしいなぁ…。
あれ~、どうしてなんだろう…。」
苛立ちを隠せない様子の音の匠。
彼のヘッドホンからはどんな音が聞こえているんだろう…。
井門「匠、大丈夫?音、録れてる?」
匠「いやぁ…井門さん、ダメです。
これじゃとてもじゃないけどダメだ。
僕のプライドが許さない。
山、下りても良いですか?」
音の匠、下山宣言であります。
そこからの匠は早かった。
機材を畳み、夜の闇もどこ吹く風、真っすぐに車を目指し、
自分でハンドルを握ると見事なハンドルさばきであれよあれよと市街地へ。
花火大会は既に始まっているので、町の中は逆に閑散としている。
走った事が無い街を、花火の音がする方へどんどん進む匠。
テツヤ「地図、多分こっちで良いと思うんですけど…」
匠「分かんないけど、とにかく音のする方へ!」
この時の匠の表情を僕は一生忘れないと思う。
音への強烈な渇望が五感を研ぎ澄まし、
そしてついには奇跡が起こったのだ!
匠「よしっ、ここを右に曲がってみよう!」
(右折)
花火「どーん!!!!!!」
知らない街で、花火大会の真っ最中で交通規制もかかる中、
それにも引っ掛からず、目の前に現れた大輪の花。
そう、匠は音への執着だけで奇跡を起こしたのだ。
そこからの匠も早かった。
機材を車から出すと、テツヤを連れ立って猛ダッシュ!
後ろから付いていく井門&河合を置き去りに(笑)、
どんどん会場の方へと走っていく。
ついに彼らを見失った井門&河合、苦笑いしながら彼らの帰りを待つことに。
とはいえ、僕らも会場のすぐ近くまで行く事が出来て、
それはそれは大迫力の花火を間近で見ることが出来たんです。
河合「佐々木さん達、ちゃんと録音出来ましたかねぇ…。」
匠とテツヤを見失ってしばらく。
僕らの目の前では復興祈願の花火「フェニックス」が打ち上げられた。
横一列で打ち上げられるフェニックス。
その数も大きさも、とにかく圧巻なのです。
そしてそこに込められた10年の想い。
それを感じながら花火を見上げていると、自然と頬を涙が伝わってくる。
子供の頃から今まで沢山の花火を見てきたけども、
つーっと涙が流れてくる花火を見たのは初めてでした。
フェニックスの時間が終わってもまだまだ花火は終わらず。
次々に大きな花火が打ち上げられます。
周りからもその一つ一つが上がる度に大きな歓声が。
東京ではこんなに大きな花火を間近で見る機会はありません。
花火の音がこんなにもお腹に響くものだったなんて。
これだけの音、ゴルちゃんはちゃんと録れたのかなぁ。
そう思って、ふと手元のスマホでtwitterを立ち上げてみる。
ごるっちさん@gorucchi3 40秒 良い音、録れた!!!!!!! |
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良かった、良かったね、匠…。
本編でも聴いていただけたかと思います(聴けなかった方はポッドキャストを是非!)
音の匠がその嗅覚のみで収録した渾身の音。
その場にいる様な臨場感を味わえたのではないでしょうか。
こうして無事に収録も出来、
我々はこの日の宿である山古志へと向かったのですが…。
車の中は花火大会を実況する地元のコミュニティFM、
会場を離れるにつれて花火は少しずつ輪郭を小さくしていきます。
街灯も少なくなり、往来する車の数も減ってきた頃、
ラジオからはクライマックスを告げる言葉が。
匠「少し停めてみましょうか?」
匠の一言で我々は田園の真ん中に車を停めた。
振り返ると、遠くで打ち上がるクライマックスの花火。
蛙や虫の鳴き声がうるさい位に響くなか、
夜空を見上げるとそこに広がるのは満点の星空。
祈りの数だけ瞬く星たちと、遠くで打ち上がる祈りの花火。
なんとも胸を打つ光景に、我々はしばらく立ち尽くしたのでした。
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中越大震災から10年、
その歩みを皆さんはどんな風にお感じになったでしょうか?
この10年の間に我々は大きな震災や災害を経験しました。
ともすれば東日本大震災の発生以降、
中越大震災の記憶はどこか薄れてしまっていたように思います。
でもインタビューした方のお話しにもあった通り、
ここで暮らす方々はこの10年、様々な努力をしながら、
なんとかこの場所が再び輝ける様に前に進んできました。
その歩みは決して早いものではないかもしれません。
でもそこにあったのは確かな力強さです。
その力強い10年の歩みの先にある今の中越を、ぜひ訪れてみてください。
努力の先にある笑顔は、きっとどんなものよりも輝いて見えるはずだから。