震災から20年目の神戸|旅人:井門宗之

2015-01-22

 

「午前5時46分、ちょうどをお知らせします」

 

「黙とう。」

 

 

 

 

 

 

昨夜から少し雨が降ったのだろう。
地面はところどころぬかるんでいたが、
その地面が見えないほど多くの方で埋め尽くされた東遊園地。
2015年1月17日、ここで今年も「阪神淡路大震災1.17のつどい」が行われた。
僕がこの場所を訪れるのは8年ぶり。すっかりご無沙汰した事を心で詫びながら、
“その時間”に静かに手を合わせた。

 

1995年1月17日午前5時46分に発生した阪神淡路大震災。
6434人もの尊い命が奪われたこの震災は、神戸の街を破壊し尽くした。
あの時、きっと神戸の姿を見た人は思ったのではないだろうか。

 

「神戸はもうダメかもしれない…」

 

倒壊した建物、焼け尽された町並み、流された多くの涙。
神戸の人だけではない、誰もがあの映像を見て絶望したはずだ。
しかし、この街の人達はそれを乗り越えて、立ちあがったのだ。
手を取り合って、励まし合って。
支え合って、声掛け合って。

 

「がんばろう神戸」を旗印にして、夢中で駆けだしたのだ。

 

震災から20年の東遊園地では、今年の新成人の挨拶が行われた。
彼らは言う「この美しい神戸の街は…」と。
あの震災で被災された方々が、未来の為に必死で駆けだした20年前。
その一つの答え合わせが、彼らのこの言葉なのかもしれない。

 

黙とうを終えた僕の前には、数多くの竹灯ろうが並ぶ。
見上げるとまだ明けきらない神戸の空を、ロウソクの煙が霞ませている。
今回のYAJIKITAは震災から20年が経った、今の神戸を取材した。

 

 

 

 

 

 

 

 

8年前に神戸を訪れた時、とてもパワフルな方とお会いした。

 
その方の名前は伊東正和さん
現在は大正筋商店街振興組合の理事長を務めていらっしゃる伊東さんに、再会の機会を頂いた。
大正筋商店街は三ノ宮駅から電車で10分程度の新長田駅にある。

 

 

 

 

 

 

この辺りは特に震災の被害が大きかった場所だが、
今ではその傷跡を探すことが出来ないくらい整備され、綺麗な町並みが広がっている。

 

 

 

 

 


取材を行ったこの日、大正筋商店街でもイベントが行われていた。
東北から南三陸さんさん商店街の方々が訪れて特産品を紹介するブースを展開したり、
震災からこれまでの商店街の歩みをアニメで流していたり。
まだ早い時間にも関わらず、商店街は動きだしていた。
そんな中でひと際目立っていたのが伊東さんである。

 

 

 


大正筋商店街振興組合理事長 伊東正和さん

 

 

 

井門「伊東さん、8年ぶりなんですが…お久しぶりですって言っても良いですか…?」

 

伊東「もう、当たり前! 


1回目は出会いだけど、2回目から仲間(笑)」

 

 

今は綺麗に整備されたこの商店街も、震災で商店街の9割が焼けてしまった。
更に商店街としての機能がしっかりと再開するまで、震災から9年の月日がかかっている。

 

 

伊東「この地域は大きな被害を受けました。
商店街は特に火災も大きかったです。ただ商店街は(横の)繋がりがありました。
被害の大きさに比べて犠牲となった方が少なかったのは、
その繋がりが幸いしたのだと思っています。」

 

 

震災後、商店街の方々は手に手を添えて支え合ってきた。
様々なイベントも行い地域を元気づけようとしてきた。
その中の一つが、商店街の道に埋め込まれた手型である。

 

 

伊東「これは商店街に来て頂いた有名人の方の手形です。
数多くの方が応援に来てくださって、いまその数365枚あるんですよ!
なんで手型だと思います??
手のぬくもりって温かみがあるでしょ?
手を差し伸べるって意味もあるんです。
落ち込んでいる時、ぽんと肩に手を置かれて励まされたら元気出るじゃないですか!
思わず下を向いた時に、応援してくれる“誰かの手”がある。
それで手型にしているんです。」

 

 

 

 

 

 

また神戸出身の漫画家・横山光輝さんの作品を展示し、
復興のシンボルとする企画も行った。
商店街のすぐ近くにはビルの高さにすると5階分はありそうな、鉄人28号の像。

 

 

 


©光プロ/KOBE鉄人PROJECT 2015

 

 

 

更に商店街には横山光輝さんの代表作『三国志』にまつわるイベントも。
イベントには数多くのファンが詰めかけたという。

 

 

伊東「当初、鉄人の像の方は皆さん来て戴けていたんですけど、
震災の被害が大きかった商店街の奥の方にはあまり足を運ばれなかったんです。
そこでこっち側も沢山の方に来て欲しいという想いで、
三国志のモニュメントなどを展示しました。」

 

 

今はアニメや漫画がブームという事もあり、
横山光輝さんの作品が並ぶこの街に、海外からのお客さんも訪れるという。

 

 

 

 

 

 


伊東「震災から20年。
次の世代にまさに手を差し伸べて、震災の記憶を繋げていきたいです。
そうは言っても心の復興はもう少し、まだまだです。
“なんとかなったね”と笑顔が出るまで、復興はまだかな。」

 

 

最後に伊東さんが仰った言葉が印象的だ。
震災を経験された方が“なんとかなったね”と笑える日まで、
僕らももう少しその肩に手を添えていこう。
温かな手で、次の世代へ繋げていこうと思うのだ。

 

 

 

 

 

 

日本全国その土地土地に、ご当地を代表する企業やブランドがあるだろう。
震災前、関西で圧倒的なシェアを誇るソースメーカーがあった。 


オリバーソース株式会社である。

 

 

 

 

 

 

道満「震災から厳しい状況は今も続きますけど、やっと借金は返せました(笑)」

 

 

朗らかにそう話すのはオリバーソース株式会社の代表取締役社長、 


道満雅彦さんである。

 

 

 

 

 


オリバーソースの前身は老舗の醤油醸造メーカーだったが、
大正に入り外国人達が好んで使っていたウスターソースに着目。
自社製国産ウスターソースの製造を開始し、
後に「とんかつソース」や「どろソ-ス」で関西での地位を確固たるものにした。

 

 

道満「震災前はスーパーの売り場のほとんどをウチの製品が占めていました。
ところがあの震災で会社がほぼ全部ダメになりまして…。
震災後は業務用の商品を販売していたんですが、
2年半ほど経ってようやくスーパーに並べる商品を売り出す頃には、
違うメーカーさんの商品に替わられるようになってしまったんです。」

 

 

道満社長はしかし、あの震災で全てがダメになったからこそ…とも話す。

 

 

道満「商売に対して少し傲慢になっていやしなかっただろうか、そう思うんです。
震災でイチから始めなければならなくなったからこそ、今の会社がある様な気がします。
勿論、あの震災は大きな悲しみでもあります。
それは感じている上で、ウチの会社は(今は)前向きに考える様にしているんです。
だって過去の事を後ろ向きに考えてもしょうがないですもん!」

 

 

オリバーソースは震災後、社員一丸となって進み始めた。
道満社長も、震災後2週間で「もうこれは続けなければならない」と決意したのだ。

 

 

道満「震災後4カ月はライフラインがこなかったですからね~。
その場所では当然営業出来ませんので、自然な流れで今の場所に会社を移転しました。」

 

 

営業を続けようと思った理由が、もう一つある。
現在200ほどあるオリバーソースの商品ラインナップの中で、
震災前からある高級ラインが「クライマックス」だ。
≪最高のソース≫として作られていたこのソース、
実は震災直前の1月13日金曜日にも仕込まれていた。

 

 

道満「その仕込みを担当していたキーマンが、震災で亡くなりました。
ただ、彼の仕込んだソースの原液が10t生きてたんです。
その内5tは残念ながらダメになりましたが、5tは彼の遺志を継いで販売しようと。
まぁ、彼への供養もあって、熟成させまして。
10年経った2005年に1度、15年経った2010年に再び、そして今年です。
震災から20年経った2015年に残った全てを商品として発売しました。」

 

 

 

 

 

 

美しいガラス瓶に入れられたソースは、まるで化粧品の様に美しく並ぶ。
数量限定のセットの一つは、このソースを遺した方への霊前に供えた。

 

 

道満「20年経つ前はね、“20年なんて節目にならん!”って考えていたんですよ。
でもソースの原液の最後の一滴を使い切って、
“20年経って、もうこの震災とはケリをつけよう”と思ったんです。
私らはこれで震災から離れて、明日からようやく新たな1歩を踏み出すんです。」

 

 

 

 

 

 

震災から20年が経過し、神戸の街並みは美しく変化した。
道満社長は今の神戸を作ったのは人の気持ちだと言う。

 

――自分で立ち上がろうとする気持ちが大事。
その気持ちが、今の神戸を作ったんですよ。――

 

震災を経験し、それを乗り越えたオリバーソース。
ソースの味の深みが、あの震災を雄弁に語っている様にも思えてくる。

 

 

道満「あの大きなとんでもない震災があって、めちゃくちゃになって、
それでも皆で手を取り合って、そしてRebornがあったからこそ、 


オリバーソースは次の世代への語り部にならなくちゃいけないんです。」

 

 

あの震災は決して忘れはしない。でももう、振り返りはしない。
前にしかいない“次の世代”へ、想いのバトンを渡す為に。

 

 

 

 

 

 

港町神戸は、街を歩けばその近代的な風景が印象的だ。
震災後に建てられたビル群や昔から残る建物も、抜群のセンスで調和している。
そんな中、三宮駅からほど近い三宮センター街の目の前に特徴的なある地図が。

 

 

 

 

 

 

街並みを上空から俯瞰する様に描かれたこの地図は、
上から立体的に描かれている為に地形もはっきり読み取る事が出来、
もし震災で津波が発生した場合にどう避難すればいいのかを把握する事が出来る。 


この地図を描かれたのは、鳥瞰図絵師の青山大介さん
神戸波止場町TEN×TENでお話しを伺った。

 

 

 


青山大介さん

 

 

 

井門「鳥瞰図ってなかなか耳馴染みもない様な気がするんですが…、
どういった地図になるんですか??」

 

青山「あっ、確かに耳馴染みはないかもしれませんね(笑)
でも誰もが一度は目にしたことがあるはずですよ。
小学校の地図帳なんかには鳥瞰図絵が必ず載っていますからね。」

 

 

青山さんが鳥瞰図の世界に魅了されたのは、
鳥瞰図絵師である石原正さんの作品がきっかけだという。
以来様々な石原さんの作品を見て、その世界にのめり込んでいったそうだ。

 

 

青山「その石原さんが2005年に亡くなったんです。
その時に“これを引き継いでいきたい”って思ったんですよね。
幸い石原さんの本に鳥瞰図の描き方は書かれていたので、
それと自身のアレンジを加えながら作っていきました。」

 

 

 

 

 


こうして作り上げていった鳥瞰図は、いつしか沢山の方の目に止まるようになり、
神戸市の津波避難情報板(ハザードマップ)として活躍するまでになった。
御本人も震災を経験した青山さんは、いずれこの鳥瞰図を各地で役立てたいと願う。

 

 

青山「震災後、神戸は日本中からボランティアなどで手を差し伸べられました。
それに対して“恩返しの気持ちがある!”といって、
別の場所で災害があった時に率先して手を差し伸べた神戸を、
僕自身格好いいと思っていたんです。」

 

 

だからこそ、あの震災を忘れたくはないと言う青山さん。
日本で鳥瞰図を描く絵師の数は決して多くはないが、だからこそ続けていくという。

 

 

青山「鳥瞰図を描くのも大変です。
ヘリコプターをチャーターして上空から地形を見たり、
実際に歩いてビルの窓の数も調べたり。街路樹の種類、広葉樹なのか針葉樹なのか、
大きさもきっちり調べます。描きあげるのに時間は相当かかりますね。」

 

 

今は作品が街に設置されるまでになった青山さん。
その事を御自身はどう思っているんだろう?

 

 

青山「はい、あの看板の前に来ると“自分が描いたんだぞ~!”って思います(笑)
描き上げるのは大変ですけど、自分の中で街が出来上がっていくのは楽しいです!」

 

 

あっ、インタビューの終わりにふと作家の河合さんがこんな事を聞いた。

 

――ご自身を鳥瞰図の中に描いてはいないんですか?

 

どうやらね、いるみたいなんです(笑)
堤防の先にいて船に旗を振っているのが青山さん。
こっそり教えてくれた青山さんは、なんだかとても楽しそうでした。
いつか日本各地で、
青山さんがその土地の事を想って描き上げた鳥瞰図を見る日が訪れますように。

 

 

 

 

 

 

震災から20年。
前回YAJIKITAで訪れた時も言われたことなのだが、
震災を体験した世代が少しずつ減ってきているという。
(8年前が約3割、今回は約4割が震災を知らない世代とか)
震災後に生まれた世代は、あの震災に何を想うのか。
我々は大学生にもお話しを伺うべく、ノエビアスタジアム神戸に向かった。

 

 

 

 

 

 

ちょうどサッカーのチャリティマッチが行われていたこの日、
そのスタッフとして働いていたのが「117KOBEぼうさい委員会」の大学生だ。
お話しを伺ったのは2人の大学生。
神戸学院大学4年の田渕広樹さん、
兵庫県立大学1年の戸田咲さん。

 

 

 


田渕広樹さん


戸田咲さん

 

 

 

若者と年配の方が過去の災害の経験を踏まえた上で、
自分達で出来る事は何か?という防災意識の向上を目指して作られたのがこの委員会だ。

 

4年生とは言え震災の年はまだ2歳。
田渕さんは「震災の記憶はほとんどありません」と言う。
その上で20年という月日で復興出来た力は「神戸の誇り」であるとも。
静岡出身で震災後に生まれた戸田さんは田渕さんと、また違う印象を震災に持っている。

 

 

戸田「綺麗な神戸の景色を見ていると、
本当にここで震災があったのかな?って思ってしまいます…。」

 

 

神戸の街並みや夜景が好きだと話してくれた戸田さん。
震災時の風景は直接は知らない彼女も、ここで沢山の震災経験者からバトンを渡されたのだ。
だからこそこのバトンを「次の世代」に渡していきたいと願う。

 

 

戸田「私はあの悲しい災害を無駄にしない為に、ここに参加しました。
だからこそ私達よりももっと若い世代に、
自分達の活動に興味を持ってもらうにはどうすればいいのかを考えていきたいです。」

 

 

そんな彼らが防災に関して大事だと思うことは?

 

 

田渕「自治体のハザードマップの存在を知り、
自分が暮らしている地域がどんな災害に弱いのかを知る事が大切だと思います。」

 

戸田「地域作りが大切だと思います。
誰がどこに住んでいるのか、それを知る事でその後の行動が変わると思います。」

 

 

若い世代があの震災に想うのは記憶ではなく歴史なのかもしれない。
それでもその世代に繋いでいくのは、震災を記憶として持っている世代なのだ。
語り継いでいけば、彼らの様にまた先の世代に種を撒く人が現れる。
時間は全てを歴史にしていく、それは仕方のないことだ。
しかし繋いでいかなければ、それは歴史にすらならない。

 

――次の世代へ。

 

キラキラ輝く2人の大学生の笑顔を見ながら、
震災から20年が経った神戸で、強くその想いを胸に刻む。

 

 

 

 

 

 

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目の前には凪いだ海が広がっている。
ここは8年前にも訪れた「神戸港震災メモリアルパーク」。
あの時も思った事だが、ここに遺された震災の遺構を見ると、
震災の記憶を次の世代へ伝えることがいかに大切かを思い知らされる。

 

 

 

 

 

 

今回の取材で皆さんが仰っていた「次の世代」という言葉。
あの震災を経験し、紡ぐ言葉があるのであれば、想いのバトンは繋げていきたい。
20年前の1995年1月17日に何が起こり、
その後神戸の街がどんな歩みをしてきたのか…。
これを次の世代へ繋げる事こそが、
あの震災でお亡くなりになられた6434名の方への祈りになるのではないだろうか。
現在の神戸が美しくあればあるほど、そう思うのだ。