復興応援SP 歴史と自然だけじゃない東松島の旅|旅人:井門宗之

2015-03-06

 

東日本大震災から4年が経とうとしています。
番組の震災被災地に対する想いは、最初に取材に伺った2011年5月の時と変わりありません。
これからも心を寄せて、目を向けて。機会を見つけて、お伺いします。
実は取材を続けてこれたお陰で、我々はかけがえの無い「想い」を得る事が出来たのです。

 

――あの人にまた逢いたい。
――あの場所にまた戻りたい。

 

まるで「故郷へ抱く様な想い」です。
逢いたい人がいる限り、戻りたい場所がある限り、我々の旅は終わりません。
震災から5年目の東北に、これからもお邪魔させてください。
そして我々の旅の様子を聴いたリスナーさんが、少しでも被災地に心を寄せてくださいますように。
今週と来週は2週に渡って、いつもの震災復興応援の旅です。
今週旅をしたのは宮城県東松島市。東松島を訪れるのはこれで3度目になります。
最初は震災から1年が経った年、奥松島の民宿「かみの家」さんに、
更に翌年には「のりうどん」を食べに「萩乃井」さんにお邪魔しました。
でも勿論お伺いしたい場所は他にも沢山あります。
「東松島市と言えば全国的にも知られているユニークなキャラがいる…。」
という話、皆さんは聞いた事はないでしょうか?
今や全国規模の人気者がいる…という訳で、行ってきたのは陸前小野です!! 


ここにいるのが(いるって言うか…)カラフルなソックスモンキーの「おのくん」。
全て一点もののキャラクターは、そのカラフルさや愛嬌のある顔立ちから、
誕生からすぐにSNSを通じて全国に広まっていったと言います。
今でも地元のおかあさん達に手作業で作られているという「おのくん秘話」を伺いに、
小野駅前応急仮設住宅へと向かいました。

 

 

 

 

 

 

お話しは小野駅前郷プロジェクト企画広報担当の新城隼さんです。
この「おのくん」ですが、最初から生み出されたキャラクターではないんですね。
仮設ではそれまで様々な物を作っていたそうです。
それがある日、靴下を使った人形の存在を知り、そこから生まれたのが「おのくん」でした。

 

 

 

 

 

 

新城「この地域はコミュニティが2年くらい出来なかったんです。
それが“おのくん”のお陰で地域のおかあさん達のコミュニティが出来る様になりました。」

 

 

実は「おのくん」には名字と口癖がある。それが「めんどくしぇ」。

 

 

新城「2年くらい地域のおかあさん達も針仕事とかしたこと無かった訳ですよ。
それが“おのくん”作りで慣れない針仕事をやることになって。
誰かれともなく“この人形、めんどくしぇ~な~。”“もうめんどくしぇ人形だな。”
なんて言い始めて(笑) “おのくん”って名前が出来る前は、
めんどくしぇ人形って名前だったんですよ!」

 

 

そうして作られためんどくしぇ人形「おのくん」の輪はSNSを通じて全国に広がった。
地域のおかあさんが一つ一つ、チクチクと針仕事で手縫いした人形は、
「里親」の手によって全国を、いや、今や全世界を旅するようになった。

 

 

新城「なかなか手に入れる事が出来ない“おのくん”をやっと手にした里親の皆さんが、
有り難いことに世界中を旅させてくれているみたいです(笑)」

 

 

 

 

 

 

今も地域のおかあさん達が笑いながら、
時に「めんどくしぇ」と言いながら作る「おのくん」。
全てが違う柄、違う表情。手足の長さも、尻尾の長さだって全部違います。
でもだから良いんでしょうね。誰にとっても「自分だけのおのくん」になるんですから。
実は陸前小野駅を通る仙石線が今年の5月末に全線再開するんです!
人の流れが少しでも陸前小野に向くようにと、地域の方々は奮闘中。
東松島が「空のまち」なので、陸前小野駅を「空の駅」にしようと頑張っています!
「めんどくしぇ」事もたくさんあると思うんです、
でもどうか「おのくん」と共に笑顔で進んでいってください!
あっ、ちなみに僕もYAJIKITAスタッフも「おのくん」の「里親」になりました(笑)

 

 

 

 

 

 

実はまだこの時点で東松島の名産品を「のりうどん」しか知らなかった井門。
たまたま前日観たTVでサンドウィッチマンの伊達さんが、
これもたまたま萩乃井の「のりうどん」を食べているのを見て、
「これを超える名産は無いんじゃないんだろうか…」とまで考えだす始末。 


これじゃいかんと向かった先は小野市民センターであります。
実は取材当日、東松島市観光と物産のPR会が行われていまして…。
えぇ、お腹いっぱい試食してきたわけですよ、えぇ、えぇ。
その前に東松島のあれこれを教えてくださったのは、 


東松島あんてなショップ まちんどの番頭:太田将司さんです。

 

 

 

 

 

 

太田「東松島には大曲浜というところがあって、海苔が有名です。
ここの海苔は皇室献上品にもなったんですよ!」

 

 

なるほど、それで海苔うどんが名物になっていったんだっけ。
でもやっぱり「海苔」がメインになるんだろうか…。

 

 

太田「やはり牡蠣も有名ですね。
中でも東名地区という場所は、全国の牡蠣養殖家へ向けて種牡蠣を出荷するところですが、
いまではここでも牡蠣の養殖をしているんですよ!」

 

 

見れば作家の親分が外の出店に並んでいる。 


並んでいる人の先にあるのが…殻付き牡蠣!!しかも2個で100円!!
しっかりとこちらも戴きましたが、身が大きくてぷりっぷり。
海を丸ごと食べているかの様な気持にさせてくれる牡蠣なのです。

 

 

 

 

 

 

太田「PR会では他にも様々な名産を展示してますので、
ゆっくりご覧になってくださいね!」

 

そうしてお邪魔したPR会。
地元の方の熱気も凄かったですが、何よりも美味しい物の数が凄かった!!
お菓子のゾーンではホヤを使用したマドレーヌ、ロールケーキ!

 

 

 

 

 

 

果物ではブランドイチゴの「もういっこ」…旨い、旨過ぎて「もういっこ!」(笑)

 

 

 

 

 

 

お野菜も豊富で「野蒜納豆」は粒が大きくて、柔らかさも絶妙!
お米も地元で獲れるので、いただいた納豆ご飯は最高に美味しかったです!
(紙コップにご飯と納豆で納豆ご飯の組み合わせは斬新でした、笑)

 

 

 

 

 

 

東松島のキュウリも瑞々しかったし、やっぱり「のりうどん」も最高でした(笑)

 

 

こうしてすっかり東松島の名産を堪能した一行。
実はもう一つ、東松島で気になるワードが…。 


皆さん、科学地球儀ってご存知ですか?(ヒソヒソ)
直径1.7mの球体スクリーンに四方向からプロジェクターを照射して、 


あるデータを映し出すものなんですが…(ヒソヒソ) 


しかもその科学地球儀、日本にここ東松島にしかないんですってよ…(ヒソヒソ)
それが存在するのがディスカバリー・センターという施設。
元々は縫製工場の敷地だった場所に出来た施設なんですが、
ここに日本唯一の科学地球儀があるってんで、 


代表の橋本孝一さんにお話しを伺いました。

 

 

 

 

 

 

橋本さんは地元で建設や工事を請け負う「株式会社 橋本道路」を経営しており、
震災時は先頭に立って、瓦礫の撤去などの作業を社を挙げて行ったそうです。

 

 

橋本「あれは経験した者にしか分かりません。地獄でした…。」

 

 

震災は地元の子供達から笑顔を奪いました。
なんとかこの子たちの笑顔をもう一度見たい。
橋本さんがそんな事を思っていた矢先、ある研修で訪れたデンマークで運命の出会いをします。

 

 

橋本「個人投資家のマーチンさんという方が持っていた科学地球儀を見せてもらったんです。
そこに映し出される映像を見終わった時、一緒にいたお子さん達が良い顔しててね。
宮城の子供たちを笑顔にするにはコレだって思ったんです。」

 

 

一念発起した橋本さんは、個人で科学地球儀を購入。
この科学地球儀に映し出されるデータはアメリカのNOAAから送られてくるデータ。
本来は科学技術の研究施設に置かれる様な設備です。
(個人でこの地球儀を所有しているのは橋本さんとマーチンさんのみ)

 

 

橋本「その知的財産を所有する権利を持つ事が大変でした。」

 

 

そんな高いハードルを乗り越えて、ここに日本唯一の科学地球儀が設置されました。
百聞は一見にしかず、という事で我々も実際に科学地球儀を見せて頂くことに。
それが展示された部屋に入ると…

 

 

 

 

 

 

 

いやぁ、想像を遥かに超える美しさでした…。
僕らが見せて貰ったのは太陽や銀河系の映像、飛行機の航行ラインを示した映像、
震災時のエネルギー波がどう伝わっていったのかの映像等々ですが、
映像の解像度も素晴らしく、しばし映像にコメントする事も忘れてしまいました(笑)
聞けば400以上のコンテンツがあるとの事。
約30分の上映時間で1日に4回見られるとの事で、機会があれば是非体験してみてください。
聞けば橋本さんは震災遺児の為の活動も行われているそうで、
東松島の強い光となって、これからも子供たちを照らしていかれる事でしょう。

 

 

 

 

 

 

「まさか奥松島に縄文時代があったなんて…。」
取材を終えた我々はすっかり縄文時代の虜になっていた。
どちらかと言えば弥生人顔の親分ですら縄文の顔つきになっている。
ハナから縄文顔のテツヤにいたっては、服装までも縄文っぽく見えてしまう。
佐々木君に至っては「今度から貝殻は土を掘って埋めよう」とまで言う始末。
こうして21世紀に生きる我々を一気に縄文時代へとタイムスリップさせた施設が、 


奥松島縄文村歴史資料館だ。

 

 

 

 

 

 

24年前に建てられたこの施設は、リニューアルを経て今もここに縄文を伝えている。
そもそも何故にここに縄文時代を伝える資料館があるのか?話しはそこからだ。

 

 

菅原「この地に縄文時代の集落が存在したからです。」

 

 

今回我々に縄文の魅力をたっぷりとお話ししてくれたのが、 


こちらの館長菅原弘樹さんである。

 

 

 

 

 

 

菅原「縄文時代って、学校の教科書ではそんなに詳しくやりませんよね?
やっぱり“人物の名前”が登場してから詳しく学んでいきますから。
でも逆に縄文時代は今の時代に通ずることが沢山あるんですよ!
なんせ縄文時代は1万年も続いたんですから、
それは逆に“それだけ変わらなくても良かった”という事になりますよね。」

 

 

なるほど…なのであります。
1万年も続いた時代、人は満たされていたから変化しなくても良かった訳ですよ。

 

 

菅原「縄文時代には人々の争いはありませんでした。
小~中規模の集落で、人は助け合いながら生活をしていたんです。」

 

井門「集落同士の争いも無かったんですか?
物を取り合うなんて事も無かったんですか??」

 

菅原「はい。基本的には物々交換です。
この里浜のエリアでは海の幸が豊富に獲れました。
これを川を伝って、隣の山形県まで運んでいったという証拠も残っています。」

 

井門「それは…どんな??」

 

菅原「山形県のある地方で、海の魚の骨が出てきたり、
この地方ではその山形のエリアでしか採れない石を使った道具が出てきたり。」

 

 

 

 

 

 

既に、もう既に目から鱗なのです。
縄文時代当時、既に交易が行われていたなんて!
しかもその範囲は相当に広い範囲で行われていたという事実。
更に言えば、争いも起こらず物々交換で交易が行われていた。
やはり争いはその土地に付加価値を付けた瞬間から起こるのかもしれません。
通貨やブランドなどが関係無かったこの時代は、
まさに「足るを知る時代」だったんでしょう。

 

 

菅原「当時の集落を見れば分かるんですが、
村があって里山があって、30人~50人位が暮らすには十分だったんです。
生活にも色々工夫があって、栗の木も周りの雑草を取って管理していたんですよ。」

 

 

縄文人のイメージって皆さん、どうですか??
もっと野性的で荒々しいイメージを持っていた僕は、
聞けば聞くほどそれが覆っていったわけで…。
父さん、縄文人は非常に洗練されていた訳で…。
北海道の山奥のイメージが、少しずつ都心に近付いてきた訳で…(分かりにくい)
ああ、そうそう、貝塚ですよ、貝塚(大塚じゃないよ、貝塚だよ)。
この地域には里浜貝塚という日本最大級の集落跡があるんですが、
こちらではその貝塚をパネルに貼り付けてダイナミックに展示してあるんです!

 

 

 

 

 

 

菅原「それぞれが地層になっているんですけど、
貝だけじゃないんですよね。魚や獣の骨なんかも沢山出ている。
人骨なんかも出てくるんですけど、
それを考えると貝塚は決してゴミ捨て場ではないわけです。」

 

井門「どうしても貝塚っていうと、
“食べた物を捨てた場所”のイメージが強いですけど、そんな事はないんですね?」

 

菅原「縄文人は全ての物を無駄なく使いました。 


彼らは物作りリサイクルの達人です。
そもそも彼らにはゴミっていう概念は無かったでしょうね。 


人骨も出てくるという所から、貝塚は“送りの場”であったと考えられます。」

 

 

縄文人がどんな祭祀を行い、どんな思想で暮らしていたのかは残念ながら分からない。
(でも“お祭り”的な行事はあったようです!)
しかし住居跡の近くから幼児が埋葬された跡が出る事も多いそうだ。
生まれてすぐに亡くなった魂が、新しい命となって還ってくる事を望んだ現れとか…。

 

 

菅原「縄文時代は貝塚の存在のお陰で、
庶民が何を食べてどんな姿をしていたのかが分かります。
しかし弥生時代や奈良・平安なんかもそうですけど、
偉い人が何を食べてたのかは資料として残る場合もありますが、
庶民が何を食べてどんな暮らしをしていたのかが分からないんです。 


貝塚は情報のタイムカプセルなんですよ!」

 

 

菅原館長のお話しに、YAJIKITA一行の目は輝いていた…。

 

 

 

 

 

 

菅原「これ、奇跡の土偶って呼んでるんですけど、何故か分かりますか?」

 

井門「えっと…分かりません、どうしてですか?」

 

菅原「小学校の社会科見学で貝塚に子供達が来るんですけど、 


ある年の5月1日に小学生がこの土偶の首から下を発見したんです。」

 

井門「貝塚から普通に出てくるんですね(笑)」

 

菅原「驚くのはここからです。その翌年の同じく5月1日、 


別の小学生がこの土偶の頭を発見したんですよ!」

 

一同「おお~~~!!!!!!」

 

菅原「恐らく2300年前の物だと思われますが、
頭と胴体がちょうど1年の間隔を空けて発見されたんです!」

 

一同「まさに奇跡の土偶!!

 

 

 

 

 

 

館長のお話しも物凄く面白いのだけど、
こちらの資料館には説明書きがほとんど無いのも面白い。
イラストで展示されているのがとても分かり易いのです。内装もお洒落ですし。
しかし、注目は館内の展示品だけに止まりません! 


やはりこちらに来たら実際に里浜貝塚を見に行かないと。
ってな訳で車で3~4分の場所にある里浜貝塚へ!!

 

少し小高い場所に、畝の様に地面に行く筋も伸びるのが貝塚跡。
実際にその上に行くと地表に貝殻がびっしりと。
少し離れた場所には海も見えるので、
あそこで獲った魚介の骨などをこの場所に置いたのでしょう。

 

が…が、しかし…

 

風が強ぇっ!!!




 

 

 

もうね、小さい子なら飛ばされるレベルですよ。
僕らYAJIKITAは大きい子が多いから良いけど、それでもちょっと浮くレベル。
まさかの井門Pから「もう帰ろう!」発言まで飛び出す始末。
すると間髪入れずに少し離れた場所にいた館長から驚きの発言が!

 

 

菅原「建物ありますから、こちらへどうぞ~。」

 

 

最初からそっちで良いじゃんっ!!
…という訳で強風と寒さの為に鼻の頭を真っ赤にした一行、 


里浜貝塚貝層観察館という施設へ移動。
こちらも貝層の断面をど~んと壁の様に展示してある場所なんですが、
縄文人達が色んな物を食べていた事がこれを見るとよく分かります。
中にはフグの層なんてのもある。

 

 

菅原「フグはよく食べていましたね。
季節になると囲い込み漁で大量のフグを捕っていたんでしょう。」

 

井門「なんでもそうですけど、“最初に食べた人”は偉いですねぇ…。」

 

菅原「そうですね(笑)“あそこのオジサン、昨日フグの肝を旨い旨いって食べてたけど、
肝は食べちゃいけなかったんだね…”みたいな事もあったでしょうし。
でもフグだけじゃなくて、縄文人はイカもカニもウニも食べてましたからね。
今の魚介食文化は縄文人のお墨付きなんですよ(笑)」

 

 

 

 

 

 

奥松島で束の間、縄文時代にタイムスリップ出来る場所。
縄文人に想いを馳せれば、知らなかった今に続くルーツが見えてきます。
菅原館長、興味深いお話しありがとうございました!

 

 

里浜貝塚で散々「風が強い」なんて言ってましたが、
まさかその弊害がここで出てくるとは…。
今回の取材では遊覧船に乗って日本三大渓の嵯峨渓を見よう!なんて話していたのですが、
生憎の強風の為、遊覧船が欠航。美しい景色を実際には見る事が叶わなかったのですが、
遊覧船の船長にお話しを伺う事が出来ました。 


奥松島遊覧船船長の桜井哲さんです。
船が出航出来ないので遊覧船案内所でお話しを伺ったのですが、
伺っている最中もドアを鳴らすほどの強風が外で吹いています。

 

 

桜井「この時期はこういう事はよくあります。
天候に左右されてしまうのはもう仕方ないですね。」

 

 

桜井さんは遊覧船の船長をやる前は養殖業を営んでいたそうだ。
まさにこの海の事をよく知っている方なのである。
今回はまさかの、パンフレットを眺めながらの解説になってしまいましたが、
通常ですと1時間のコースでゆっくりと奥松島の景色を楽しめるとの事。
御自身で船を操りながらも、やはりお気に入りのポイントはあるようで…。

 

 

 

 

 

 

桜井「高さ40m程の屏風岩ってのがありましてね、
それがダーッと2kmくらい続くんです。それは圧巻ですよ!」

 

 

まさに自然がおりなす大迫力の景色でしょう。
日本三大渓の一つ、嵯峨渓。
今回は見ることが出来なかったけど、次の旅の目的がこれで出来ました。
今度こそ桜井さんが船長を務める船に乗せてください!

 

 

 

 

 

 

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震災から4年。
今回は「これまでの歩み」に続く「これからの未来」を見せていただいた様な気がします。
それらを全て抱えながらも、変わらない日常を愛おしく過ごしている皆さんがいて。
勿論、前に進んだり頑張ったりってのは、人それぞれのペースがあって、
まだまだ前に進めない方が多くいらっしゃるのも、事実です。
だからこそ、ここでもう一度、東北に心を寄せて欲しいのです。

 

東北の美しい景色を、美味しい食べ物を、ご自身の目で舌で味わって、
改めて東北のことをご自分のことにしてみませんか?
きっと何かが変わる筈です、何かを変えられる筈です。
「被災地の為に何かをする!」そんな大袈裟なことじゃなくて良いんです。
頑張ってきたお店の名前を一つだけでも覚えておく、
あの地域の旬が何かを一つだけでも覚えておく、それだけでも良いんです。
毎日とも毎週とも毎月とも言わない。
誰かの話で、どこかの雑誌で、あるいはTVやラジオで「東北」と目にしたとき、耳にしたとき、
ふと「自分の知っている東北を想い出す事が出来る」それだけで良いんです。

 

『想う事が何よりも大切。』
これは僕がこれまでの取材を通して実感した事。

 

どうかこれから先も、少しでも多くの想いが東北に寄せられますように。
その為にYAJIKITAはこれからも東北にお邪魔します!