東京発どこいくツアー 縁起のいい町・永福町編|旅人:井門宗之

2016-02-04

僕が札幌から東京へ引っ越してきたのは1998年3月だから、今からおよそ18年前だ。

上京してきた時の自分の気持ちは、実はあまりよく覚えていなくて。

「これから始まる新生活に想いを馳せて!」とか「大学への不安」とか、

そういった事はあまり考えていなかった気がする。

新生活の為に家電を買いに行っても、大学を見に行っても、

物凄い高揚感みたいなものは無かったんじゃなかろうか。うん。

あれだ、要はきっと何も考えていなかったんだと思う(笑)

二浪して大学に合格したので本人はちょっと燃え尽き気味で、

しかもよりによって上京する直前に彼女が出来たので、

「遠距離マジ寂しい」って気持ちの方が大きかった様な気もする。

と、ここまで書いてて自分のダメさっぷりに恥ずかしくなってしまうのだけど、

20歳の井門青年は実際にそうだったのです。

だからもし、新入生のサークル勧誘で「アナ研」に出会わなければ、

本当にどうしようもない学生生活を送っていた様な気もするし、違う道に進んでいたかなとも思う。

そうなるとこうやってラジオで喋っていなかっただろうし、

この旅日記だって書いていなかったわけで。人生は選択なんだって、心から思うのです。

 

でもよく考えてみれば、明治大学に合格していなければ「アナ研」にも入っていないし、

違う大学を選んでいたら、初めて暮らした町も永福町じゃなかっただろう。

人間万事塞翁が馬なのだ。

 

永福町に住んでから6年間の話は、それこそ想い出が山の如しで、

数え上げたらキリがないのだけど、とにかく町の名前が良いなと思ったのが第一印象でした。

明大前の隣の駅で急行停車駅。渋谷も新宿も15分程度で行けてしまう立地の良さ。

なのになんだかほのぼのとしていて、地方出身者にとっても馴染み易かった。

僕が暮らしていたのは駅の北口の方で、駅から徒歩6分の築40年くらいのアパート。

窓の鍵はネジ式だし、トイレの流しは紐を引っ張って水を流すタイプ。水流が激しかった。

ネズミは出るわ、Gは出るわ、良いことなかったのに、6年暮らした。

家賃が安かったのと、バンド仲間が横並びでこのアパートに暮らしていたからってのが大きい。

 

…ってそういう話をしていると今回の旅日記がいつまで経っても進まないんだけど(笑)

それくらい永福町には思い入れがあるのです。

と言う訳で今回の旅は「東京発どこ行くツアー!永福町編」

よく考えてみたら、何故この町の名前が「永福町」なのかも知らないし、

住んでいた時から看板で目にしていた「郷土博物館」も行ったことがありません。

 

はっ!!!

俺、永福町のこと、なんも知らねぇ…。

と言う訳でまずは永福町のあれこれを知るべく、商店街をぶらり。

 

 

 

 

 

 

 

永福町と言えば駅前のラーメン屋さん大勝軒がなんと言っても有名です。

もうね、駅を降りたら煮干しの良い匂いが漂ってくるんだから(笑)

大きな丼に2玉分くらいの麺がたっぷりと入っていてね、

ラードの膜が張られているので最後までスープで火傷しちゃうくらい熱々。

メンマにチャーシュー、ナルトに長ネギ、それに煮干しの効いたスープが美味しくて。

学生にとっては安くないラーメンだったので、たまの贅沢だったんだけど…通ったなぁ。

 

本編でも触れていたけど、稲毛屋さんの蒲焼も憧れで(笑)

もう無くなっちゃった定食屋さんとか、なんだかとても懐かしい。

まるで昨日まで暮らしていたみたいな気分になってくる。

 

 

親分「電柱が地下化したのは知ってる?」

 

 

 

 

 

 

 

 

あぁ、そう言えば!!

やけに道が広くなったような気がするなぁ…と思っていたら、そういう事だったんですね。

その辺りのお話は地域の憩いのスペース「永福北ろ~ど街の駅」にて。

 

 

お話は北口商店街の会長櫻井義晋さん

この北口商店街は井の頭通りから方南通りまでの、約800mもの長さの商店街。

商店街の会員さんは180軒という大きな商店街です。

聞けば電柱の地下化は構想10年、10億円以上の予算を投じて行われたとか。

 

 

櫻井「その工事が一昨年終了しまして、

800mの長さに渡って電柱の地下化が完了しました。」

 

 

 

 

 

 

 

 

しかもですよ、こういった商店街は杉並区でここしかないんですって!

これは元町民としても誇らしい!(笑)

井門「あっ、そうそう、僕も6年間この町で暮らしたんですよ。」

 

 

櫻井「そうでしたか!

名前が縁起が良いので、名前で来ちゃったって方が多いんです(笑)」

 

 

それは分かる気がするなぁ。

いつ帰ってきても、駅名を見ると運気が上がる気がしたもん(笑)

櫻井さんは昭和22年から永福町にいらっしゃるそうですが、

新しい世代も沢山町に入ってきている中で地域交流に力を注いでいらっしゃるとか。

そう言えば夏祭りは盛大にやりますもんね。

 

 

櫻井「駅前の井の頭通りを渡ったところに提灯をぶら下げてね。

祭りはとても活発ですよ!子供達も喜んで神輿なんかに参加するんですけど、

町内会で貸し出す半纏が足りなくなるくらいですからね!(笑)」

 

 

永福町は確かに地域の繋がりが強い町なのかもしれません。

だからアパートがボロでも(笑)、6年間も住んでいられたのかなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

その永福町で僕が暮らし始めた時と同じ時期にオープンしたピッツェリアがあります。

その名もラ・ピッコラ・ターヴォラ

イタリア語で「小さなテーブル(食卓)」と言う意味のこちらのお店。

店内に入ると大勢のお客さんの楽しそうな声が「うわあん」と反響している。

小さな食卓という名前には「家族の団らん」をイメージしたとか。

 

 

 

 

 

 

 

 

橋爪「ナポリのレストランってわいわいしているので、

それを大切にこのお店でも再現出来ればと思ったんです。」

 

 

お話は専務取締役の橋爪勇人さん

1998年の7月にオープンした本格的なナポリピッツァのお店。

当時ナポリピッツァを専門に出すお店は都内にも2軒程しかなかったそうです。

 

 

橋爪「今なら電話一本で何でも揃いますけど、

当時は直接イタリアに買い付けに行ってましたからね(笑)」

 

 

そもそもはイタリア料理教室をやっていたそうで。

社長であるお父様がナポリに行って本格的なナポリピッツァを見てこれをやろうとなった。

様々な御苦労の末に、本場のナポリっ子も認める名店へと成長していったのであります。

道を橋爪さん親子が作ったからこそ、

今のナポリピッツァブームがあると言っても過言ではないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

そもそもナポリピッツァは1889年に誕生した伝統ある食べ物。

そんな歴史あるピッツァの伝統を守ろう、後世に残していこう、

という事で真のナポリピッツァ協会という団体が誕生します。

勿論こちらのお店は認定店。むしろ橋爪さんは最早選ぶ側のお方。

 

 

橋爪「真のナポリピッツァの規定はシンプルです。

塩・小麦粉・酵母・水、この4つしか使っちゃいけない。

薪釜で焼かなければいけない。

昔からの味を表現出来ているのかが大切なんです。」

 

 

ラ・ピッコラ・ターヴォラのピッツァ職人は生粋のナポリっ子。

まだ26歳と若いですが、気難しそうな表情はまさに職人そのもの。

聞けばなんと真のナポリピッツァ協会の副会長の甥っ子さんだとか…。

そりゃ、生まれた時から本物の味しか知らない生粋の職人さんな訳です。

 

 

橋爪「お寿司と一緒で同じ材料で作っても、

作る職人が違えば味が全く変わってくるんです!」

 

 

こうしてどんどん期待が膨らむ中、

ついに登場したマルゲリータがこちら!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

見た目が既に「旨い!」と主張している(笑)

およそ30cmの大きなピッツァがじゅうじゅうと音を立てて目の前に…。

いっただっきまーすっ!!

 

うっまーーーーーーいっっ!!






 

 

 

 

もうね、すぐに旨い!

口に入れた瞬間の小麦粉の香り、チーズのとろけ具合、トマトとバジルのコントラスト、

そして生地の塩加減、全てのバランスが見事と言うしかありません!

ピッツァを食べて見事って言うなんて、なかなかありませんよ!

橋爪さん、学生時代に憧れ続けたピッツァの味、やっぱり間違いなかった!!

 

 

橋爪「それは良かったです(笑)

お店は永福町の方々に本当に支えられています。

ピッツァもそうですけど、本格的なナポリ料理もありますので、是非いらしてください!」

 

 

 

 

 

 

 

 

井門P「学生時代の憧れの味…本当に美味しかったなぁ…。」

 

ゴル「学生時代は食うや食わずの生活だったのに、

今じゃ買い物は成城石井しか使いませんもんねぇ。」

 

親分「セレブだねぇ~!

あの頃の気持ちは…、もう、忘れてしまったのですね…?」

 

ゴル「ドテラを着て商店街の安いお惣菜を買っていた井門さんは、どこへ…?」

 

井門P「嫌な言い方すんなよ!

今も全然セレブじゃないわい!」

 

ゴル「ほうなん(方南)ですか?

 

 

ってなショートコントを挟みつつ、一行は商店街を方南通りへ。

この辺りに上京してから毎年初詣は欠かした事がない神社があります。

その名も大宮八幡宮

 

 

 

 

 

 

 

 

あれなんですよ、幟には「東京のヘソ」なんて書かれていてね。

僕ぁてっきり東京の真ん中にあるからそう呼ばれているのかと思っていたけど、

実はそうじゃなかったんです。

その辺りの詳しいお話しを典仕補の田村仁志さんにお伺いしました。

 

 

井門P「ヘソって事は東京都のほぼ真ん中に位置しているからなんですか?」

 

田村「いえ、実はそうじゃないんです。

東京都の重心の起点を大宮八幡宮にすると、

ちょうどバランスが取れる…という事でヘソなんです!」

 

 

(゚ロ゚)!!!!

そういう事だったのですか!!

東京都の人口やらビルやら色んな物が上にあるとして、

それを下から支えた時にちょうど大宮八幡の所でバランスが取れる!

だからこその「東京のヘソ」だったわけなんです。

しかも驚くのはそれだけじゃあありません。

 

 

田村「23区では当神社3番目の広さとなっております。」

 

 

エェ━━━━━━ヽ(゚Д゚)ノ━━━━━━ !!!!

神社で話を聴いているのに、驚き方が軽いわい。

いやいや、これは知りませんでした!

なんでも1番目は明治神宮、2番目が靖国神社、3番目が大宮八幡宮だとか。

それもその筈、かつては武蔵の国の三大宮と呼ばれ、

秩父神社、氷川神社、大宮八幡宮と並び称されていたそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

田村「創建は953年前、応神天皇とその御両親の三柱の神様が祀られています。

ですから子育て八幡様としても有名なんですよ。」

 

 

ちなみに我が家の愚息、初宮参りも七五三も大宮八幡宮でございまして。

お陰様で健やかにスクスクと生意気に(笑)育っております。

田村さん曰く、近年は芸能人の方々もよくお参りにいらっしゃるとか。

 

 

田村「この場所自体、古くから祭祀を行っていたと言われております。

周りには遺跡も多く残っていますので、ここを神様の場所としていた歴史は長いのかと…。」

 

 

知らず知らずではありましたが、

そういった神社で15年近くもお参りをさせてもらっていたと思うと、

今の自分が存在するのも大宮八幡宮のお陰なのかなと。

由緒正しき大宮八幡宮、東京にいらっしゃった際は、

明治神宮も靖国神社も良いですけど、こちらにもお参りにいらしてくださいな!

 

 

 

 

 

 

 

 

大宮八幡宮から善福寺川の緑地を歩き、

最後にお邪魔したのが杉並区立郷土博物館

住んでいた頃から名前は知っていたんだけど、結局一度も来ず仕舞い。

平成元年に完成したというこちらの施設は、杉並区や永福一帯にまつわる資料が豊富で、

館長の塚原悟さんのお話しも非常に興味深い事だらけでした。

 

塚原「杉並区というのは3つの川に挟まれた場所なんです。

一つは神田川、もう一つは善福寺川、そして妙法寺川

旧石器時代からこの辺りは人が暮らしていたんですが、

見つかった遺跡はそれぞれの川の近くなんですね。

水があると言う事は緑もあり、日当たりも良かったんでしょう。」

 

 

 

 

 

 

 

 

なんとこのエリアには3万5千年前から人が暮らしていたと。

そしてその暮らしやすさというのは近代に入ってからも変わらずだったようで…。

 

 

塚原「関東大震災で都心が壊滅状態になった時、

永福に住んでいた地主さん達が広告を打って人を集めたんですね。

“緑が多くて暮らしやすい”って。

そうしてまたこの辺りに人が増えていったんです。」

 

 

しかし太平洋戦争における東京大空襲で永福町はその殆どを焼失してしまう。

 

 

塚原「今の明大の所に陸軍の火薬庫があったんです。

そこを米軍に狙われて、空襲でほとんどを焼いてしまいました。

かつては井の頭線の明大前も“火薬庫前”っていう駅名だったんですよ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

博物館の敷地内には杉並区の文化財にも指定される古民家が移築されている。

なんとこの古民家、1780年代~1800年頃に作られた物だそうで、

更にいうとこの建物自体、昭和50年頃まで実際に人が生活していたそうな!

いやぁ…冬は寒かっただろうなぁ…。

中には語り部のおじいちゃん達がいて、囲炉裏に火をくべていました。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

僕はこの町で夢を追って、この町で夢を叶えました。

この町に暮らしている時にかけがえの無い友達や、妻との出会いがありました。

 

20代前半の大学生の頃。

ラジオのパーソナリティーに憧れて、サークルで練習して、沢山音楽聴いて。

そんな自分が今回のロケでラジオの全国放送の為に町のレポートをしている。

最高のスタッフが原稿を書いて、マイクやカメラを向けてくれる。

そこに向かって、あの頃の自分では紡げなかった言葉をひとつひとつ紡いでいく。

 

僕はね、実はちょっとだけ泣きそうだったんだ(笑)

よく歩いた商店街を、プロのラジオパーソナリティーとして歩いている。

 

東京での僕の一番土台を作ってくれた町、永福町。

今なら大きな声で言えます!

6年間、本当に有り難うございました!

 

なんだか最終回みたいですけど、

次週は再び井門P想い出の町、御茶ノ水です!(笑)

いや、なんだか終わるみたいなラインナップだけど、終わらないからね!!