震災から5年~町づくりが進む南三陸町~|旅人:井門宗之
2016-03-11
東京駅から新幹線でくりこま高原駅までおよそ2時間。
そこからレンタカーを借りて南三陸町までおよそ1時間。
東京からおよそ3時間で到着する町が、宮城県本吉郡南三陸町。
東日本大震災による津波で、甚大な被害を受けた町だ。
南三陸町と聞くと、防災対策庁舎やホテル観洋を思い出す方もいるだろうし、
三陸の豊かな海の幸を思い浮かべる方もいるだろう。
震災直後は津波で町の7割の建物が流されてしまった為に、
南三陸町と言えばあの津波後の姿を思い浮かべる方もいるかもしれない。
では震災から5年後の、今の南三陸町を思い浮かべる事は出来るだろうか?
――報道が減ってしまい、今の東北被災地の姿は分からない…。
――既に建物などが建って町も元通りなのでは…?
そんな風に考える方のほうが、ひょっとしたら多いのかもしれない。
今回の旅は震災から5年後の南三陸町。
取材してきたのは、町の姿と、人の心。
南三陸町は言わずと知れた世界三大漁場である三陸の海を有する海産資源の宝庫だ。
この町にはその豊かな海の幸をふんだんに使い(しかも自分で養殖もし)、
南三陸を訪れる人をもてなす民宿がいくつもある。
今回の旅でお邪魔したのがそんな民宿の一つ『下道荘』。
お話を伺った菅原由輝さんは2代目の若旦那さんで、
その三陸の海の幸を調理する腕利きの料理人でもある。
実際に僕らも下道荘自慢の料理を頂きましたが、
あぁ…もうこの旅日記を書きながら思い出してお腹が空いちゃう(笑)
テーブルの上に並んだ料理の数々は、三陸の海で獲れた新鮮な魚介が中心。
海のお仕事もされる菅原さん御一家が、自分達で育て、手塩に掛けた海の幸なのだ。
菅原「元々民宿もやっていたのですが、津波で1階部分は潰れてしまいました。
でも運良く漁船は無傷で、エンジンもかかったんですよね。。。」
家族で話し合い、何とか民宿を再開させようと土地を探し、
今の場所に「下道荘」が再オープンしたのは、震災から1年も経たない2012年2月。
民宿の再開に地元の方々は本当に喜んでくれたと言う。
菅原「当時は皆で集まって食事をする場所も無かったですから。」
いま民宿を利用するのは平日が90%業者の方、
休みの日になると地元の方々の宴会で賑わうそうだ。
取材に訪れた日は金曜の夜で、丁度我々の隣の部屋では楽しそうな声が響いていた。
また入口のロビーにいると、仕事を終えた業者の方々が次々と帰ってくる。
――「ただいまー!何時にご飯にして!」
――「お帰りなさい、御苦労さま!」
この風景も今の下道荘の、当たり前の日常なのだ。
そうそう、玄関を入るとロビーも広くて。
入ると右側に大きな靴箱があって、
その上には『一期一縁』と書かれた一枚板が掛けられている。
応接スペースの横には三陸の乾物が並ぶお土産コーナーがあって、
何とも落ち着く空気がここには流れている。
朝になれば自然と人が集まり、思い思いに寛ぎの時間を過ごす。
きっと若旦那を始め、宿の皆さんのお人柄がこの柔らかな空気を作り出すんだろう。
実はこちらの宿は、番組スタッフの永尾氏から「良い宿があるんだよ!」と聞き、
お伺いした宿。永尾氏の言う通り、料理も雰囲気も素晴らしかったです。
震災から5年、勿論まだまだの部分はあると思いますが、菅原さんは仰います。
菅原「2年後には海水浴場が戻ります。
夏の賑わいが戻れば、また変わってくると思います!」
――東北に来て欲しいです!
そんな風にも仰っていた菅原さん。
南三陸の地の物にこだわり抜いた料理と、宿の優しさに触れてみて欲しい。
初めて訪れたのに、ついつい「ただいま!」と言いたくなる宿が、南三陸で待っています。
下道荘でお世話になった翌朝、
我々は語り部バスに乗るべく「ホテル観洋」へと向かった。
ホテル観洋は震災後に町民の方々の避難所にもなった場所だが、
ホテル自体も勿論被害を受けている。
伊藤「観洋のフロント部分は階で言うと5階部分で海から30mの所にあります。
ここは津波の被害はありませんでしたが、下にある露天風呂と部屋は被害を受けました。」
そう話してくださったのは、
ホテル観洋の従業員で、語り部でもある伊藤俊さん。
この語り部バス自体がスタートしたのは、2012年2月からだそうだ。
伊藤「最初はボランティアの方や視察の為の道案内から始まりました。
その内に町の様子なども語る様になり…えぇ、お客様はお一人でもお乗せしますよ。
利用者は累計ですが…もう30万人を超えると思います。」
南三陸町も他の沿岸地域と同様、毎日のように風景が変わっていく場所。
町は2年前から盛り土がされ、その高さも4m~10mにもなるとか。
伊藤「時間はかからないと言われているんですけど…、かかりそうですね…。」
海を眺めながらそう話す伊藤さん。
ホテル観洋、ロビー奥のカフェ。
大きく取られた窓からは南三陸の海を一望する事が出来る。
海に浮かぶのは養殖の浮き。
今の季節はワカメやホタテ、牡蠣にホヤが旬だ。
朝から漁師さんの姿もちらほら見える三陸の海を眺めていると、
まだ早いにも関わらず、ロビーで賑わうお客さんの声が聞こえてきた。
明るく大きなシャンデリア、笑い声の響くフロア。
きっとこの風景も、震災から少しずつ取り戻してきた風景なのだろう。
着実に、少しずつ、時間をかけながら。
何故なら、南三陸町はあの震災によって、町を丸ごと失った町なのだから…。
AM8:40頃、観光バスを使った語り部バスが出発した。
この日のお客さんは比較的幅広い年齢層で、全員で29名。
約1時間の語り部バス…正式名称「震災を風化させないための語り部バス」が、
伊藤さんの穏やかな語り口で始まる。
――こうして皆さんに南三陸に来て頂くと、前に進む力になります。
伊藤さんはこの町で生まれ、この町で育った。
当日はホテルにいたので助かったが、自宅は津波に飲まれた。
幸い御家族は無事だったが、今もまだ仮設住宅での暮らしは続いていると言う。
伊藤「あの震災の次の日、3月12日です。
海から綺麗な日の出が上がったんですよね…。
この日の出を見て"これから頑張って生きなきゃな"と思いました。」
そう話しながら3月12日の日の出の写真を掲げる伊藤さん。
伊藤「まさか自分が災害に遭うなんて思いませんから。
いま現在南三陸町では3つの災害公営住宅が建っていますが、
まだ仮設住宅に人口の6割が暮らしているんです。
間違いなく復興は進んでいますが、人の気持ちも復興させなきゃいけません。
時が経てば、課題も変わっていきます…。」
バスの中は時に「はっ」と息を飲む空気感や、
ある特定の感情を大勢で共有する時に生まれる独特の空気感が生まれる。
戸倉小学校や戸倉中学校の前にバスが止まった時もそうだった。
とは言え、既に戸倉小学校はここには無い。
津波の被害を受けた小学校は更地となり、その場所には5m程の盛土がされている。
伊藤「今は何もない場所にかつて何があったのかを伝えるのも大切な事だと思っています。
ここには震災前、戸倉小学校がありました。
そして小学校の裏には立派な体育館があったんです。
"立派な"と言ったのは、実は完成したのが2011年3月1日だったからです。」
南三陸を襲った津波の高さはおよそ20mとも言われる。
あの日は金曜日で小学校の授業もあった筈だ。では多くの生徒達はどうしたのだろう。
伊藤「あの震災の2日前にも大きな地震があったのを覚えていらっしゃいますか?
それを受けて先生達が校長先生と相談して、
そもそも設けていた避難場所を変えて、より高台に避難場所を設定したんです。
更に3月10日は避難訓練の日でした。だからこそ当日、全員が助かったんです。」
伊藤さんは言う、震災直後は悲しい話やセンセーショナルな話ばかりが取り上げられた。
それも大切かもしれないが、こうして190名近くの命が助かったという、
未来に繋がる話も大切ではないでしょうか、と。
伊藤「あの日から時間が経てば経つ程、
次の世代に伝える事が大事だと感じます。すなわち、何より"命"が大事だと。」
小学校の生徒達が避難したのは、高台約20mの所にある五十鈴神社だった。
ここに集まったのは小学校の児童だけではなく、お年寄りや大人たちも含めた約190名。
覚えていらっしゃるだろうか、震災当日は冷え込みが厳しく、東北では雪も降った。
寒さが厳しくなる中、集まった戸倉小学校の生徒達は、
少しでも周りが元気になる様にと、卒業式で歌う筈だった歌を歌ったという。
伊藤「だからこそ、大人たちも頑張れたんだと思います。」
一方で高台にあっても、津波の被害に遭ったのが戸倉中学校だ。
海抜およそ15mの高台にあるにも関わらず、
巨大な津波の被害によりここでも11名の方の尊い命が奪われた。
伊藤「ここに逃げた人からの話を聞くと、
この中学校のすぐ近くに川が流れているんですけど、
あの大きな津波が水流となってその川を遡っていったんですね。
それが引く時に今度は大きな波となって引いていったものだから、
皆さん仰るのは"山から津波がきた"って…。」
今も校舎に掛けられている時計は、震災直後で止まったままだ。
そしてこの中学校自体も、今は時が止まっている。2年前に、廃校になったのだ。
伊藤「立派な計画があって、立派な建物が出来ても、
人がいなければどうしようもありません。今は人が出て行ってしまう事が深刻です。」
語り部バスはかつての市街地の中へと入っていく。
国道は通されているが、右も左も、うず高く積み上げられた盛土で、
ともすればどっちが海なのかも分からなくなってしまう程だ。
伊藤「ここは志津川地区と言って、町で一番賑わっていた場所です。
それが震災時は灰色になり、今は盛土で茶色になっていて、
どこに何があるか分からなくなっています。」
そんな中で大きく建物として残っているのが『高野会館』だ。
勿論近くで見れば津波の傷跡はそこかしこに残されているが、
建物としては震災前の場所にそのまましっかりと建っている。
伊藤「ここは結婚式場で、町でも様々な行事で使われていました。
震災の日も年に一度のお年寄りの芸能大会が開かれていて、
地震発生後は従業員の誘導のもと、多くの方が屋上に避難し助かったんです。」
――しかし…。
伊藤「高野会館の目の前、今は盛土がされて何も無くなっていますが、
ここには志津川病院という大きな病院がありました。
そちらは津波で74名の方が亡くなっています。
今は何も無くなってしまった場所に元々何があったのか?
それを伝えないと、亡くなった命も無かった事になってしまいます。
やはりこうして現地に来ないと、感じる事は出来ません。」
かつての町の賑わい、あった筈の建物、亡くなった命の話…。
語り部バスに乗り合わせた29名が、そこに想いを馳せているのが伝わってくる。
黙々と作業を進める重機の音を、耳に感じながら。
バスはやがて盛土の間、工事現場の中を抜けて進む。
町の形が日々変わっていく中で、こうしないと行けなくなったのが、防災対策庁舎だ。
この場所にバスが近づき始めた時、伊藤さんが更に真摯に話し始めた。
伊藤「どんな事も時が経てば人の心は変わっていくものです。
被災地に来て記念撮影をされて行く方も多くいらっしゃいますし、
今日見ている景色は今日限り、まだまだ変わるという意味で残すことも意義のある事です。
南三陸で暮らす方々の中にも色んな意見があると思いますが、
私は、防災対策庁舎の前では、記念撮影してほしくありません。」
伊藤さんの最後の一行は、我々に向けて言うというよりも、
何か自分の心に誓っているようにも聞こえた。
南三陸町の方々にとって、特別な想いが込められた建物、それが防災対策庁舎なのだ。
バスから降り赤い鉄骨の建物に近付いていく。
当時の建物の写真を掲げながら、伊藤さんは話し始める。
伊藤「当たり前の事って失う事はないと思ってました。
今はその当たり前が大切なんだと実感します。」
津波が町を襲った時、この防災庁舎の屋上に50名以上の方が上っていたという。
その屋上に立てられたアンテナ。
その周りに多くの方が集まり、手を繋いでいた。生きる為に。
伊藤「辛くても伝え続けなければなりません。
でないと、そこで亡くなった命も無かった事になってしまいます。」
きっとこの言葉こそ、語り部として伊藤さんが大切に想っている事なのだろう。
赤い鉄骨がむき出しの庁舎を前に話す伊藤さんの言葉は、
ひと言、ひと言を絞り出すようだった。
防災対策庁舎を後にした語り部バスは、およそ1時間の行程を終え、ホテルへ。
最後に伊藤さんはこう話してくれた。
伊藤「いつか皆様にも変わった南三陸の町を見て、
"良かったね!"と言ってもらいたいです。
どうか、自然災害で命をなくさないでください。今日は有り難うございました。」
語り部バスを降りてから、改めて我々は伊藤さんと共に高野会館へ。
本来は立ち入り禁止だが、特別に許可を得て中に入らせてもらった。
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1階のロビーは、天井が落ちてコンクリートがむき出しに |
津波の被害を受けた3階の式場ホール |
3階から4階(屋上)に上がる階段の踊り場に残っている水の跡 |
高野会館に留まり、この屋上へ避難した327名の方が助かりました |
この旅の最後に訪れたのは、波伝谷地区という場所。
ここもあの地震による津波で壊滅的な被害を受けた場所だ。
今も重機の音が響き、更地が多いこの土地に、美味しいコーヒーを飲ませてくれる店がある。
それが「ちょこっと」。
御主人の成澤英子さんは元々は違う場所に「ほったて小屋」というお店を開いていた。
しかし一昨年、かさ上げの影響でやむなく閉店。
その後、この場所に新たに「ちょこっと」としてお店を再開させた。
木の温もりを感じるログハウス風のお店は、天井も高く、暖炉が店内を優しく温める。
成澤「お店に使っている木は徳島で加工したもので、
梁や土台には南三陸の木を使っています。
えっ?前のお店は本当にほったて小屋だったんですよ(笑)
メニューなんかも地元の人のリクエストに応えていく内にどんどん増えちゃって!
でも今は日替わりのAセットと週替わりのBセット、
後はコーヒーや夜にはお酒も出して営業してます。」
因みにお店の店名である「ちょこっと」とは、
5人いるお孫さんの内の「ちよはちゃん」と「ことはちゃん」から取ったのだとか。
震災後からこれまで、成澤さんの想う事とは…。
成澤「今は次々に変わってしまうでしょ?
めまぐるしく変わっている。だから街全体の"図"が見えないですね。
震災から1年目は瓦礫が片付けば…と思って、
2年目の時は不安でこれからどうなるのかって思って、
3年目でようやく整備が始まって、4年目に盛土がされてきて、5年目に定まってきた。
治まる所に治まるのかなぁ、という気はしています。」
かつての南三陸は賑やかで自然が綺麗な町だった。
それが震災で町全体が全く違うものになってしまった。
震災はまた、人の心も壊していったと成澤さんは話す。
成澤「私もまだ仮設に住んでますけど、本宅を作ろうと思っても、
資材が足りないしその資材も高騰しているでしょ?
大工さんも数が足りないし、そうこうする内に消費税は上がるし…。
最初に出した見積もりからぐーんと高くなってるんですから。」
新しい家を建てようにも、それを阻むいくつもの要因が存在する。
更に南三陸町には現在、鉄道が無い(それに替わるBRTが運行している)。
町政の思惑もあるのだろうが、
鉄道が無い為に大きな病院に行く事もままならないお年寄りもいるという。
変わりゆく町、変化していく人の心。
そんな中で「ちょこっと」の存在は大きいのではないだろうか。
人が集まる場所を作る事。
人が気軽に集まれる場所である事。
そしてそこに気さくな御主人と美味しいコーヒーがあれば、言う事はない。
成澤さんともインタビューでなく、ついついお話になってしまった。
あっ、だったら是非自慢のコーヒーも飲んでみたいなぁ…。
という事でちゃっかりスタッフ全員で美味しいコーヒーを頂きました。
寒さの残る東北の海沿い。
その中にあって、暖炉の温もりと香り高いコーヒーが、
こんなにも心をほぐしていく。
笑顔の多い成澤さんに「成澤さん、何だか楽しそうですね。」と言うと…
――何度も死ぬ思いしたんだもん。楽しまなくっちゃ。
それでも前に進んでいく人の想いが詰まった「ちょこっと」。
いやいや、「ちょこっと」ではなく、思わず「長居」してしまう筈です。
震災から5年。
何度も言うが年月の節目は復興の区切りにはならない。
今日も被災地では多くの作業員の方が重機を操縦し、
未だ仮設住宅で暮らしている方々も数多く存在する。
町がかつての賑わいを取り戻すまで、まだまだの場所もあれば、
福島の様に県外で避難生活を送る方が4万人以上もいる場所もある。
震災から5年。
この"節目"を機に、一気に報道が少なくなるのかもしれない。
ここから先は10年、15年、20年…という扱いになるのかもしれない。
確かに女川の高橋さんは仰っていた。
「俺達はあんな悲しい事は忘れたいんですよ。」と。これは自分もそう思う。
でもそこにどんな町があって、どんな人がいて、今そこがどんな風になっているのか、
これはずっと気にし続けていて欲しいのです。
5年経ったからこそ、出来る事は増えたし、行ける場所も増えた。
だからこそ4年目や3年目には出来なかった事が出来る筈なのだ。
今の東北を、東日本大震災で大きな被害を受けたあの町を、訪れてみませんか?
行けば必ず何かに出会えます。ひょっとしたら、一生の友達に出会えるかもしれません。
人は宝、それは東北を訪れる、あなたにも当て嵌まる事です。
あなたが東北を訪れて、そこで見た景色、食べた物、出会った人の事を、
また誰かに伝える事で、東北を軸にした繋がりが大きくなっていくのです。
あなた自身が、東北の方々にとっての「宝」になり得るかもしれないのです。
YAJIKITA時代から言い続けてきました。
東北にはまだまだ伝えたい景色、聴いて欲しい音があります。
それはKIKI-TABIでも変わらずに伝え続けていきます。
5年は"節目"の年じゃなく、また新たな年の始まりです。
これからも番組を通して、東北を見続けていってください。
そして東北の皆さん、また必ず、会いに行きますからね。
2017年3月3日(さんさん)には、かさ上げされた場所に商店街がオープン予定です |