Ba---nd on the ru---n!

2010-09-14

bandontherun
『飛躍する翼たち!
  ポール・マッカートニー&ウィングス
        “Band on the run” 特集』

1970
年に、ビートルズが解散。
その後、わずか3年間でポールは実に5枚ものアルバムを
リリースしました!
そして、“Band on the run”は、その5枚目。

全米・全英両方で1位を獲得して、
ビートルズ以降のポールの作品で最も成功した
アルバムとなりました。

M
        JET     /    Paul McCartney & WINGS

1曲目にお送りしたのは、
アメリカ・イギリスで7位を記録したシングルナンバー“JET

すっごいシンプルなベースパート弾いているシンセが
いい味出してます。
リンダが楽器がほとんど出来ないんで、こういったアレンジに
なったと思われますが・・・、このチャチさ。
いいですねぇ。

さて、ポール・マッカートニー。
現在も生きる最も重要なロックの伝説。
勿論、あのビートルズの生きている2匹の
カブトムシの中の1匹です。

   

もちろん、現役バリバリのロックミュージシャンでもありますよね。

そんな彼が、ビートルズ解散後、1971年に結成したバンドが
ウィングスでした。

結成当初から常にビートルズの亡霊と戦う運命にあったウィングスが、
その幻を完全に拭い去ったのが、
このアルバム『BAND ON THE RUN』ですよね。

M
  Helen Wheels 
  /    Paul McCartney & WINGS  

2曲目にお送りしたのは、1973
年リリースのそのアルバムから
Helen Wheels・愛しのヘレン”です。

この曲、全米10位、イギリスでは12位となったシングルヒット! 
ですが・・・アメリカ盤のアルバム『Band on the run
にだけ入ってます!
イギリス盤には、なぜだか入っていませんが・・・。

さて
さてこの大名盤『Band on the run』を語るには、
まず、ビートルズの解散から話さなければなりません。

 
史上最大のロックバンド:ビートルズは、
1967年、マネージャー:ブライアン・エプスタインの死後、
グチャグチャになっていきます。

バンドとしての求心力を失って、それぞれのメンバーのエゴが爆発。
いつ崩壊してもおかしくない状態になりました。

それでも、マジカル・ミステリー・ツアー、ホワイトアルバム、
といった名作を世に送り出していきますが、
バンドメンバーの状態は最悪。

そんな中で、ポールだけがビートルズの復活に必死に頑張ります。

しかし、あの悪評高い地獄のセッション:GET BACKセッション
を経て、
何とかファイナルアルバム「アビイ・ロード」を作り上げて、
そこでポールは力尽きてしまいました。

ジョン・レノンとジョージ・ハリソンVSポールというアウェイな図式。
でも、本気でビートルズの未来を考えてるヤツなんて誰もいない。

「もう、やめた。俺、一人でやります。」

とポールはビートルズ脱退を決めますが、ポールの契約はビートルズで
ガチガチに押さえられていました。

ポールに残された術は、契約の無効を求めて、
ビートルズの他のメンバーを訴えることだけでした。
この裁判で、1970年。正式にビートルズは解散。

このことで、ポールはビートルズの解散の張本人として、
まるで、犯罪者のように、英米のメディアに激しくバッシングされます。まさに、ポールの冬の時代でした。

M
  Let Me Roll It 
 
   /    Paul McCartney & WINGS 

次にお送りしたのは、“Let Me Roll It”。


ジョン・レノンっぽい、へヴィー・ブルーズナンバーですね。

シングルヒットナンバーではないですが、
ポールのLIVEでは必ず、と言っていいほど演奏される名曲です! 

 

さて、話の続きです・・・


ビートルズ解散後、毎日毎日メディアに追いかけまわされる・・・

そんな状況に疲れ果てたポールは、愛妻:リンダと子供と共に
ド田舎に引きこもって、自宅
の中で、本当にアットホームで
素朴なアルバムを2枚作ります。

そのアルバムはある程度ヒットしますが、
これまでビートルズを褒めちぎっていた音楽評論家からは酷評の嵐。

そして、ジョンをはじめ、元ビートルズのメンバーからも
“解散を宣伝文句に使いやがって!”と厳しい言葉を浴びてしまいます。

意気消沈するポールが、再起をかけて1971年に結成したバンドが
ウィングスですね。

どんな状況でも自分を愛し、守って、励ましてくれた愛妻:リンダと、
ドラマーのデニー・シーウェル、そしてギターのデニー・レインという
力強い翼と共に、ウィングス、そしてポールは再度羽ばたき始めたのです。

ただ・・・、
なかなか状況は好転しませんでした。

音楽経験もない、楽器もまともにできないリンダのことを、
世間も、そしてメディアも冷たく見ていたんですね。
まぁ、やっかみもあったんでしょう。

1971
年に2週間ほどでレコーディングしたウィングスとしての
ファーストアルバム
『ワイルド・ライフ』は、その荒削りな内容で、
またも酷評。

ニッチもサッチもいかないバンドは、
あても無くバスに乗り込み、
アポなしで行った先々の大学に出演交渉しながら、
ドサ周りのようなツアーを延々と続けます。

そして、意外なことにそこでバンドにケミストリーが生まれるんですね。

プライベートもステージも一緒、という仲間意識が、バンドにグルーヴを与え、
そしてリンダにも、ミュージシャンとしての自信を与えて、
遂にシングル「マイ・ラブ」が全米ナンバー1、
そして映画007に提供した
LIVE AND LET DIE」が全米2位。
アルバム『RED ROSE SPEEDWAY』が全米ナンバー1、
っと一気に人気バンドに上り詰めます。

っと、ところがトラブルは続きます。

絶頂を迎えようとする中、アルバムレコーディング前日にメンバー2人が脱退。
バンドは、ポール夫妻とギターのデニーの三人のみ。
そしてその三人だけで、ナイジェリアのラゴスで、
ニューアルバム制作に取り掛かったのでした。

M
  Band on the run   
    /    Paul McCartney & WINGS 
 

次にお送りしたのは、タイトルトラック“Band on the run”。

全米シングルチャートでも1位を獲得した大ヒットナンバーです。

 

3部構成で、かなり刺激的なアレンジ!

イマ聴いても、本当に斬新な構成ですよねー。

 

ちなみに、この曲のドラムプレイを聴いた、キース・ムーンは、

“おい!この凄いドラマーは誰だ?”

と叫んだそうです。

そう。その注目のドラマーは、ポール・マッカートニー本人。
ベースも、ギターも、鍵盤も、ボーカルも、作詞も作曲も・・・
メンバーが3人だけになった危機的状況の中で、
天才ポールは大車輪の活躍を見せます。

まぁ、そもそもが大天才!ですからね!

そんな中で、1973年年末に『BAND ON THE RUN』は完成。

翌年。
このアルバムは世界的に超大ヒットします。
世界中の国々でナンバー1を獲得して、評論家も絶賛!
そして、ポールが一番ほめてほしかったであろう、
ジョン・レノンもアルバム内容を絶賛。

1974
年.バンド解散から4年たってやっと・・・。
ポールがビートルズの亡霊から、少しだけ解き放たれた瞬間でした。

その後、ウィングスは次々にヒットを飛ばして、
1970年代中盤、最も動員力のあるロックバンドとして君臨します。

ビートルズの他のメンバーのソロ活動が低調になっていく中、
やはりポールが、偉大なビートルズの看板を守ったわけです。

 

 

Mピカソの遺言  / Paul McCartney & WINGS