海の上に浮かぶ大都市―、軍艦島のすべて|旅人:井門宗之

2011-03-04



2月13日、日曜日の朝、朝食の時間。
YAJIKITA一行はこの日をもって2泊3日に渡る【長崎ロケ】を終えなければならない。
東京で立てた計画では、この日はのんびりと市内を回り、
取材の録り残しが無いかを確認⇒14時発の便に乗るため空港へ、となっている。
普段であれば優雅に朝食を摂っている我々であるが、この朝は違った。 

 

 

慶吾「もう、早くしてよ~!
井門「船が出てしまうんです!

 

 

ランタン時期の長崎はどこもかしこも観光客だらけ。
それは我々が宿泊したホテルも然りで、そのため朝食が激混みという異例の事態。
井門がレストラン前に到着すると、既に大勢の人が並んでいて、その中に不機嫌そうな慶吾が。
なんと聞けばホテルの朝食で15分待ちの人も出るぐらいの異常さだったのであります。
いつも笑顔を絶やさないYAJIKITA一行、普段なら意に介さないのだが、
混雑に身を任せてはいられない理由がここにはある!それは…

 

 

 

 

 

 

お腹が空いてるからなんです!!

 

 

 

 

 

 

はい、嘘。慈英さんもビックリね。
何だか懐かしい旅日記の手法を使ってページ数を無駄遣いしてしまったなぁ。
長崎の旅も今回で終わりですから、しかも来週の旅は井門では無いので、ちょっとぐらい、ねぇ?
さて、混雑に身を任せてはいられない理由でしたね。それは…

 

 

 

 

 

 

軍艦島への船が出てしまうからなんです!!

 

 

 

 

 

 

本来ならば前日に軍艦島の取材を終えている筈の我々。
しかし前回の旅日記でも書いた通り、前日の天候があまりにも悪く軍艦島への船は全便欠航。
それならば、とミラクル氏と横山氏が機転を利かせて【さるくツアー】の取材をしたのだ。
これで今回の長崎取材の録り分は全て終えたかに見えた。
ところが、【さるくツアー】のブッキングが取れた段階で僕らはこう話していた。

 

 

ミラクル「軍艦島、明日の9時出航の船に乗れれば…」
横山「うん、ギリ帰りの飛行機には間に合うね。」
井門「上陸出来るようなら、ギリでも行きましょう。」
慶吾「腹…(略)」

 

 

そう、我々は決して諦めたわけでは無かったのであります。
軍艦島ツアーはいくつかの会社が行っているのだが、日曜日の9時から出航する船もある。
ツアー自体はトータルで3時間弱というから、12時前には長崎港に帰ってこられる。 

 


問題は当日の天気だけ。そんな事を願いながら、前日はぐっすりと眠った我々。 


決して風間アナ達とカラオケなどには…。
飲み会が終わったのが午前2時近かったなんて事は…。あわわわ・・・。
それぞれが色んな想いを抱きつつ、ついに迎えた日曜日。
窓からは綺麗な朝日が部屋に注いでくる。光を反射した海の色が、我々を迎えている。
喜び勇んで準備を整え、時間に余裕をもって朝食に向かうと…(上から6行目へGO!)

 

 

まぁ、結果的に無事に長崎港へと着いた一行。
さすが前日全便が欠航になっただけあって、港のロビーは観光客でごったがえしている。
“軍艦島ついてもっと知りたい”というよりは、観光目的の方が多いように見えた。
確かにそうだ、軍艦島について一体どれだけの人が正しい知識を持っているというのだ。 

 


実際に取材に行った我々にしてみたって、表面的な部分しかこの島について知らなかった。
実は前日、軍艦島について、我々はある重要な人物にお話を伺う事が出来たのであります。
その方とは、かつてかの島で実際に暮らしていた、
【NPO法人軍艦島を世界遺産にする会】の理事長:坂本道徳さん。

 

 

 

 

 









 

 




坂本さんは10代のまさに青春時代を軍艦島で過ごした。
島の学校に通い、島で生活し、遊び、恋をした。聞けば奥さまと出会ったのも島だったと言う。
生粋の…というと語弊があるかもしれないが、軍艦島での実生活を生々しく語れる方なのです。 

 


さて、そもそも【軍艦島】とは正式名称ではありません。
正式名称【端島(はしま):通称・軍艦島】は、長崎港からおよそ17.5km離れた場所にある。
東西160m、南北480m、周囲1.2kmというこの非常に小さな島に、
ピーク時では何と東京のおよそ9倍の密度で人々が暮らしていたという。
ではいったいこの【軍艦島】は何の島なのか?これそもそも論なのですが、意外と知らない方が多い。

 

 

坂本「まぁ、軍艦島って言う通称が色んな憶測を呼ぶんでしょうけど。」

 

 

坂本さんも笑いながら話してくださいましたが、
軍需工場があった島だとか、戦争に何か謂れのある島だとか。
なんと言いますか【悲劇の島】というイメージを持たれている方が多い。
じゃあ、この島は一体何の島なのか?答えはシンプルです。

 

 

炭鉱の島。

 

 

もっと言うなら、石炭を掘るためだけに出来上がった島。
それが【端島(通称・軍艦島)】なのです。(何故通称「軍艦島」なのかは後ほど。)
ここに石炭が出たという記録は何と1810年まで遡ります。江戸時代ですよね。
恐らくはこの地域の漁民がたまたま「うお!燃える石が出た!」ってんで、
そこからしばらくは細々と表面に出てくる石炭のみの採掘が行われていた。 

 


1890年には三菱の手に渡り、以後100年以上三菱の私有地となったわけですが…。
炭鉱が閉山するまでの84年、この島からはおよそ1570万tもの良質な石炭が採掘されました。
石炭から石油にエネルギー転換がされる前ですから、日本の近代化を支える島だったのです。 

 


さきほど人口密度の話をしましたが、島の半分は炭坑です。
それ以外、面積全体の半分に居住区があったわけですから、そりゃ凄い人口密度だ。
だって1960年代初頭に5300人がここで暮らしていたんですもの…。
じゃあ、その栄華を誇った軍艦島が何故無人島になってしまったのか?

 

 

坂本「炭坑が閉山になれば、他に何も無いんですよ。」

 

 

この島にはここから生み出される産業が、石炭以外に無い。
その炭坑がエネルギー転換政策で閉山となってしまえば、人々は出ていくしかないわけです。
しかもここは当時三菱の持ち物だった。簡単に言えば、島全体が社宅みたいなもの。 

 


こうして1974年1月15日に閉山を迎えた軍艦島は、同年4月20日までに無人島になったのです。
でも凄い事だと思いませんか?三菱所有の島となって閉山するまでの84年で、
この島には次々と労働者が集まり巨大な街を形成していったんですよ! 
小中学校は勿論、劇場、旅館、病院、パチンコ、スナック、雀荘、寺院…etc.
島の中にはありとあらゆる施設が整い、しっかりと都市機能を有していたんです。 

 


もっと凄いのはこの島に建てられた高層アパートの数々。
大正5年に島で最初の鉄筋コンクリートのアパートが建てられましたが、
その高さなんと7階建てと言うではありませんか!?大正時代ですよ! 

 


ちなみにこの【30号棟】には140戸が入っていたそうですが、
もっと言えばそれから2年後の大正7年には、鉄筋9階建てのアパートが次々に建てられているんです。
大正5年建築の鉄筋7階建ては、はい、日本最古の鉄筋コンクリートアパートです。
う~ん…これは凄い。人の力って、ここまで工夫と進化を進めていくんだなぁ。

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

でも坂本さんはこの軍艦島の辿った歴史に、現代社会の歩みを重ね警鐘を鳴らします。
資源を獲り尽くした後に、そこを捨てて次へ行くのが良い事なのか?
現代社会も似た様な事をしていないか?
このまま日本が進んでいけば、国全体が軍艦島の様な歴史をたどっていくのではないか?
そしてその被害を最も受けるのは、いつの時代も子供達なのだ。

 

 

坂本さんのお話を伺い、我々の端島に対する印象は変化していた。
閉山してから30年以上放置された、廃墟の島。
そんな情報だけで興味本位だけだった端島への想いが、確実に変わっていた。

 

 

迎えた日曜日の朝。
前日の雪が嘘の様に凪いだ海、ここを我々は『マルベージャ3』という船に乗って、
軍艦島クルーズへ出発したのであります。桟橋から船へ渡ると、二階建ての船内は人で溢れている。
船の座席は3列。左右が2、真ん中が4と言うスタイルでどこも一杯だ。



 








 

 




お客さんの層も年配者ばかりではなく、僕らより若い人の姿もちらほら。
ただ周りの声に耳を傾けると、軍艦島がどんな島なのか、
カウンターで配られた『パンフレットで知る』人も多いようだ。 

 


どんな島かは分からないけど、興味本意の上陸と言う方も相当数いらっしゃる。
この方々の心には、上陸後にどんな想いが去来するのでしょうか…。
窓の上には在りし日の軍艦島の写真が貼られ、ただの廃墟の島では無い事を語っているのです。

 

 

船に揺られる事しばらく、ついに遠くに軍艦島の姿が現れた。
近付くほどに異様な迫力で迫ってくる軍艦島。

 

 

 

 

 



 

 

 

 

実はもともとの軍艦島の大きさは現在の3分の1しかなかったそうである。
それを埋め立てに次ぐ埋め立てで、何と都合6回。
その上に沢山の高層アパートが次々と建てられ、遠くから見るとさながら【軍艦】の様に見えた。
本当かどうか、第2次世界大戦の時にアメリカ軍がこの島を軍艦と間違えて魚雷を打ち込んだとか。
この姿を見て、大正時代には既に【軍艦島】という通称が付けられていたようであります。

 

 

 

 



 

 

 

 


巨大戦艦に横付けするように停泊所へと船を留め、我々はコンクリートの桟橋を渡った。
桟橋を渡り少し進むとすぐ第一広場に出る。
軍艦島は2009年から見学が可能になってはいるのだが、
いかんせん建物の老朽化に伴い、見学が許される場所はごくわずか。 
全体では3つのポイントのみを見て回るのみとなっている。
我々が船を降りたのは随分後の方だったのだが、出ると既に大勢の人が集まっていて、
こんなにも船に多くの人が乗っていたのかと驚いてしまった。

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 


せり立つ様に目の前には廃墟の壁。ここが元々の軍艦島の岩礁だった【双子山】だと言う。
柵があるので入る事は出来ないのだが、右を見ると奥には7階建ての小中学校が。

 

 

 

 

 

 


端島小中学校

 

 

 

 


窓のあった場所は穴が開いた様に無数の黒い穴。
目に見える建物のどれもがそういう状態だった。
30年以上人が住まず、台風などの自然の猛威をそのまま受け、晒され続けた軍艦島は、
さしずめ海に浮かぶ巨大なゴーストシップのようにも見えたのです。

 

 

 

 


30・31号棟アパート

 

 

 

 

 

 


石炭の採掘事業はピーク時には人手が足りなくなる程の過熱ぶりだったと言う。
その熱は次々にこの島に人を集め、人工の街を作っていった。
“街を作る”というエネルギーは凄いものだっただろう。 

 


そしてここに来る大人達の誰もが、石炭を掘れば豊かになれるという夢を持っていた。
事実、この島に暮らす人々の家電普及率は主要家電が三種の神器と言われた時代に、
ほぼ100%だったという。夢と熱がこの島に熱湯のような命を吹き込み、
それは1974年まで注ぎこまれたのだ。そしてそれは急激に冷まされてもいった。

 

 

 

人口密度が世界一から、無人島である。

 

 


この島が辿ってきた歴史の、何と業の深いことであろうか。

 

 

 

 

 


総合事務所

 


端島神社

 

 

 

 

 

約30年間見放されてきた島が、現在は世界遺産暫定リストに記載されているという事実。
人々が出ていった頃には、誰も想像が出来なかったことだろう。
もしこの島が世界遺産に登録された時、この島を訪れる人達に何が伝えられるのか? 

 


【消費至上主義の現代社会が生んだ悲しみの遺産】なのか、
それとも【エネルギー転換以前の日本人の熱意が造りだした遺産】なのか。
恐らくは、いつかやってくる未来の地球の姿がどうなっているのかで、
この島が語る事は変わってしまう気がするのです。
坂本さんのお話を聞けば、このままだと前者として伝えていく事になってしまいそうだ。 

 


だけどそれはあまりにも悲しい事ではないでしょうか?
だって、現実にあの島の歴史を聞いたり、実際に上陸した時に感じたのって、
当時の栄華に対する羨望やワクワク感だったんですもの。 

 


“えっ!?そんな賑やかな人間臭い生活があったの?”
“命のエネルギーそのものが詰まっている感じじゃないか!?”って。
火が大きかったからこそ、その火が尽きた時の寂しさをより深く感じてしまう。
僕はこの島に悲観的になる様な要素は、個人的にはそんなに無いように感じています。
(勿論戦時中には悲惨な事例も数多くありましたが、それは戦時という非常下に於いて。)
それよりもここは、産業社会隆盛期における、人間が生み出した熱意の集大成ではないでしょうか。

 

 

 

 



 

 

 

 


島自体は建物の老朽化の為に、恐らくこの先何十年も上陸出来るわけではないでしょう。
もし上陸出来たとしても、補修工事等が入り今のままの形では無くなっているかもしれません。
この島を見て何を感じるか、きっと人によって振り幅があると思います。
当時の日本人がこの島に何を求め、何を夢見たのか?
あなたが感じた事が、きっと未来の軍艦島の行く末を決めていくんです。