復興の礎~塩竃観光の今~|旅人:井門宗之

2011-05-28



東日本大震災から2カ月が過ぎた頃、YAJIKITA一行は東京駅にいた。
5月13日午後5時頃の事である。
東北新幹線の改札前は少し大きな声で話さなければいけない程、混雑していた。
あの震災後、この番組でも幾度となく被災地取材の声が上がった。
およそ8年の放送期間を誇る長寿番組である、今回の震災で被災された地域にも何度も足を運んだ。
(*過去のHP参照)
我々にだって出来る事が、何かあるはずだろう。
お世話になった方々に何かお手伝いは出来ないだろうか。
色んな事を、色んな手段を、考えた。
YAJIKITAは旅番組であって、報道番組では決して無い。
取材を終えた後に聴く人に何を残す事が出来るのか?
残った感情が少しでも光のあるものであって欲しい。
そして未だ震災で辛い想いをされている方がいる事実も、リスナーに忘れないで欲しい。
考えがまとまらない中、4月のある日、こんなニュースが舞い込んだ。

 

 


日本三景の一つ、宮城県松島で観光遊覧船再開

 

 

 

そのニュースを後押しするかの様に、東北新幹線の全線開通である。
沢山の人の想いを乗せて、新幹線が東北に向けて再び出発する事になったのだ。

 

ちょうど様々な所から【観光客の激減】【観光産業壊滅】等の言葉が聞こえてきていた。
復興までに時間はかかるだろう、だけど人が行かない事には何も始まらない。
観光が戻った場所には人も戻っていくべきなのだ。
そしてその後押しとなるのは、長く日本全国を旅してきたこの番組なのだ。
自分の気持ちが固まった。
旅でお世話になった我々の出来る恩返し、旅をすることだ。
そしてその場所に暮らす方々の想いを全国に伝えること。
この番組を聞いてくれたリスナーさんに「行きたい」と思わせる旅にすること。
5月13日午後5時の東京駅に集まったYAJIKITA一行は、そんな想いを胸に秘めていた。

 

 

氏家「シウマイ弁当買ってきていい?」

 


間髪いれずにカットインしてきたこのお方。
YAJIKITA ON THE ROADの裏番長:氏家氏(山本山みたいね)でございます。
なんせ数々の名番組を手掛けている大ベテランであり、前Pの木多氏の盟友。
井門Pなんてこの人からすれば塵芥の様な物なのであります。

 

 

横山「今回も宜しくお願いします~。」

 

 

穏やかな笑顔でリュックを背負うのはこの方。
来年業界歴30周年のYAJIKITAの良心:横山氏であります。
横山氏の出身は福島県である為、今回の震災に誰よりも心を痛めていました。

 

 

吉武「頑張りましょう!」

 

 

爽やかに髪を靡かせて登場したのは御存知ミラクル:吉武氏であります。
YAJIKITAは放送開始初期からのメンバーであり、
行き当たりばったりに見えて実は凄く考え込んでいるタイプの作家さん。

 

 

慶吾「腹減った!」

 

 

(略)

 

今回は井門P含めて5人編成のスタッフとなったYAJIKITA一行。
勿論、D・作家・カメラは一人である。では5人編成とは?
実は東日本大震災が発生直後、メンバーの氏家さんは仙台・塩竃に入って中継を入れた。
氏家さん自身も塩竃に親戚がいらっしゃるという事で、中継隊として現地に派遣されたのだ。
(その後、Dとしても一度FM仙台で生放送)
その氏家さんがYAJIKITAの会議でこんな話をしてくれた。

 

 

氏家「もし塩竃に行くなら、俺の親戚の所に行くのも良いし、
もう一度塩竃のコミュニティFMの人達に会いたいんだよなぁ。」

 

 

最初に塩竃に入った時、塩竃市役所の一室を借りて災害放送をしていた、
コミュニティFM「ベイウェーブ」のスタッフと氏家さんが交流を持ったと言う。
震災から間もなくの非常時であったにも関わらず、温かく迎えてくれたそうだ。

 

 

氏家「目的は“話を聞く”ってんじゃないんだけど…。
2カ月経ってさ、個人的に彼らの顔がもう1度見たいんだよね。」

 

 

人に会いに行くのが目的の旅――これもYAJIKITAっぽくて良い。
我々の旅は東京を離れ、仙台を拠点にまず塩竃へ向かう事に決まった。
東京から仙台までは新幹線でおよそ2時間。
おそらく途中で徐行運転を行う影響だろう、いつもよりも若干時間がかかる。
そうは言っても2時間ですからね、あっと言う間。
新幹線の運転ダイヤも通常運行では無いのだが、JRのHPを見て欲しい。
かなりの本数がもう復旧して走っている事がわかる。
そうなのだ、震災から2カ月が過ぎたこの時、仙台にはこんなに早く到着出来るのだ。
ここにも様々な方の尽力を感じずにはいられない。
そして車窓からの景色は徐々に震災の爪痕を僕らに見せ始める。

 

東京から1時間も過ぎ、郡山の手前に来た頃だろうか。
僕の隣に座っていた横山さんが、車窓の方へと身を乗り出した。

 

 

横山「やっぱり田植えはまだなんだ…。」

 

 

福島県出身の横山さん、田園風景は見慣れているものの、
この時期に田植えをしていない田んぼを見るのは初めてと言う。
福島は他の被災地と違い、原発の問題を抱えている。
車窓から見た風景の中で、特に畑や田んぼがダメになっている印象を受けない。
ただし“見た目だけでは語れない辛さ”を、この土地の方々は抱えているのだ。
郡山を過ぎた辺りになると、瓦屋根の補修をされている家が多くなってきた。
立派な日本家屋が並ぶ中、屋根の上のブルーシートが痛々しく目立つ。
窓の外の景色に釘付けになっていると、いつの間にか新幹線は福島の駅を過ぎた。

 

 

横山「そろそろ宮城に入るね。」

 

 

午後7時過ぎ、我々は仙台駅に到着した。
金曜日の夜である、予想していた以上の賑わいが駅構内にも広がっていた。
氏家さん曰く、最初に入った時は仙台駅の構内にも入れなかったのだそうだ。

 

 

氏家「なんか、良いね。こんなに沢山の人がいる。泣けてくるね。」

 

 

しかし仙台駅を出た我々の目に飛び込んできたのは、ある意味での現実だった。
ネオンは綺麗だ、金曜の夜だからお洒落をした若者も大勢いる。
待ち合わせで合流して、賑やかにはしゃぐ人達もいる。携帯で喋る声も四方から聞こえる。
ただその背景にある大型ビジョンに映し出された警察からの文字。

 

 

――御遺体を発見された方は、警察に連絡を。――

 

 

我々は間違いなく被災地へやってきたのだ。
仙台に到着し、少しだけ緩んでいた緊張の糸が再び張る。

 

 

氏家「俺が来た時は3月も半ばだってのに、東北は冷たい雪が降っていたんだよ。
名残の雪だね。すぐ止むかなと思ったんだけど、次の日は積もって一面が雪になってた。」

 

 

氏家さん達は地元の道に明るいタクシー会社にお願いして、
翌日タクシーで塩竃の方に入っていったという。その時はまだ石巻までは入れなかったのだ。
しかし我々は今回の取材で震災被害の大きかった石巻まで入る。――前に進む言葉を探す為に。

 

宿泊先へと辿り着いた一行は、仙台市内の歓楽街『国分町』へと向かった。
国分町は東北随一の歓楽街であり、ここの復活を心待ちにしていた方も多いと聞く。
賑わいはどの程度まで戻っているのか…そんな事を考えながら歩いていると、
仙台駅の近くの元避難所であった小学校の前に出て来た。
仙台市立東二番丁小学校。
今は学校としての機能に戻り避難所の跡は残っていないが、大勢の方がここで夜を明かした。
2カ月が経つと街の様子もここまで変わるのかと、復旧作業に当たられている方の活動に頭が下がる。
それは国分町に入った時も同様に感じた。
こちらが驚くぐらい、人のなんと多い事!!笑い声は弾け、賑やかさは東京とさほど変わらない。
お店のスタッフも、若者も、近隣のサラリーマン・OLも、どの顔も金曜夜を楽しんでいるのだ。
氏家さんもずんずん先頭を進むもんだから、客引きからぐいぐいと呼び止められる。
歩いていると大学生達は真っ赤な顔して『カラオケ行く人~!?』なんて言っている。
勿論、それぞれの方にお話しを聞けば、あの日の震災に深い想いを持っているだろう。
しかし今、目の前に広がっている景色は“取り戻しつつある日常”なのである。
賑やかな喧騒を前にして、心が熱くなったのは初めてだったかもしれない。――

 

 

翌日、我々は駅前でレンタカーを調達した。すると不意に強い潮の匂いがする。
どこから上がってきているんだろう?と怪訝な顔をしていると、事務の女性が教えてくれた。

 

 

事務の女性「この潮のきつい匂いは石巻の匂いなんですよ。
この車はお客さんの前に石巻をずっと走ってたんです。石巻を走るとこの匂いになるんです。」

 

 

一同、返す言葉も無い。
改めて震災がもたらす影響を感じながら、我々は塩竃へと向かった。
車を走らせるとよく分かるのだが、中心部からものの20分も走ると風景が一変する。
特に塩竃の手前の多賀城市に入ると、津波で流された車や壊れた家の姿が目に入る。
建物の1階部分の扉が津波でぐにゃりと曲がり、電柱も信号も根もとが折れているものもある。
低地で海に近い場所は、お店もまだ営業が出来ない状態が続いていた。
しかしそんな中でも地元の人が集まって、青空フリーマーケットをやっていたり、
ボランティアの方が作業していたりと、確実に前に進んでいるのも実感。
道路もしっかり車線がキープされ、道中は非常にスムーズに進んでいく。

 

 

 

 

 






 

 

 

 

車で走る事40分ぐらいだろうか。我々は塩竃市に到着した。
塩竃も低地は波に飲まれ、多くの被害を被ったのだが、それでも個人商店が徐々に再開し始めている。
坂を登って見えてきたのが塩竃市役所。ここに氏家さんがお世話になった塩竃のコミュニティFM、
『ベイウェーブ』の仮のスタジオがあるのだ。
市役所の階段を4階まで昇ると、右手には自衛隊の方の詰所、そして左手にベイウェーブが。

 

 

氏家「いやぁ、御無沙汰しています!あの時は突然の訪問でご迷惑を…。」
横田「いえいえ、こちらこそ氏家さんにはお世話になりましたから。」

 

 

僕らを笑顔で迎えてくださったのは、ベイウェーブの専務取締役:横田善光さん。
氏家さんが訪れた当時を振り返りながら、にこやかに話してくださった。
震災によってベイウェーブのスタジオも被災し、市役所から災害放送を流し続けたという。
全てが思う様にはいかない状態の中で、東京からひょっこり氏家さんが現れた。
もちろん塩竃に親戚がいるのでご紹介はあったのだが、横田さんもやる事が山積み。

 

 

横田「だから氏家さんにアンテナを括りつける仕事を手伝って貰ったんだよね(笑)」
氏家「そう、俺達もあの時、必死で取り付けたんだよなぁ(笑)」

 

 

二人とも笑顔ではあるが、当時の大変さを思い出しているのだろう。言葉が軽くなり過ぎない。
横田さんは震災から2カ月の今をこう締めくくった。

 

 

横田「少しずつですがお店も再開しています。
塩竃は自然がとても美しい場所、ぜひ皆さんに来て戴きたいんです。」

 

 

何の為にお店を開けるのか?
それは勿論、数多くのお客さんに来てもらう為である。
ではなぜお客さんに来て貰いたいのか?
一日も早く、震災前の状態に戻したいからである。

 

【お店を再開する⇒お客さんが来る⇒他の店舗も奮起して再開⇒更にお客さんが来る】

 

この繰り返しを抜けて、ようやく塩竃に“当たり前の日常”が戻ってくる。
そして被災地以外に暮らす我々には、間違いなくそのお手伝いが出来る!

 

 

横田「塩竃はお寿司屋さんの数が物凄く多いんです!塩竃港がマグロの水揚げの多い港ですから。
市内に数多くあるお寿司屋さんも再開してますから、是非味わって下さい!」

 

 

何と塩竃は人口に対するお寿司屋さんの割合が日本一!

 

横田さんにインタビューする隣で、もはや食欲の権化と化した慶吾がふんがふんがしています。
すると横田さんは何やら可愛らしいマップを出して見せてくれました。

 

 

横田「これ、塩釜の観光マップで“塩釜ぶらぶらりんマップ”って言うんですけど、

僕が作成に関わっているんです。これを見ながら歩くと、塩竃の名所が一目で分かりますよ!」

 

 

 

 

 














塩竃の市役所に仮設のスタジオを作り、震災直後から塩釜と多賀城、それに七ヶ浜町の、
安否・ライフライン情報を24時間体制で放送している、横田さん達ベイウェーブの皆さん。
街を元通りの元気な姿にしたい、その強い想い一心で日々奔走しています。
そしてその想いは街の人達全員の想いです。横田さんにもご紹介戴きましたが、
塩竃の一つの象徴【塩竃水産物仲卸市場】で働く人々も力強く前へ進んでいました。

 

 

塩竃市役所を出て港の方へ進んだ場所にその市場はあります。 


ここは仲卸市場としては、店舗数と種類の多さで何と東洋一!!

良質安価な魚が量の多少にかかわらず卸値で買うことのできる、貴重な卸市場です。
氏家さんとも話していたんですが、とにかく広い!



 

 

 








 

 







野球のボールを投げても向こうまで届くかどうか分からない、それぐらい広い。
体育館の様な場所に、所狭しとお店が並んでいます。
しかもそのどれもが美味しそうで新鮮な魚介たち。(笹かまなんかもあるよ。)
氏家さんが萌え萌えしてたマグロをさばいていた女性に話を聞くと、
塩竃のマグロは最高に美味しいとの事。

 

 

 

 

 

 

 






 

 







女性「これからの時期はクロマグロも美味しいからね!」

 

 

さすがはマグロの街・塩竃というだけの事はあります。
軒先に並ぶマグロの柵はどれもが安い。
また東北の豊富な魚介も、どれもが丸々と太っていて美味しそう。
そして市場全体に活気が溢れている。(この日もお客さんがいっぱいでした。)
理事長の今野雄一さんは仰います、お店をやる側も被災しているんです、と。

 

 

 

 

 

 

 

 






 







今野「震災後すぐはこんな状態では無かったです。
だけど少しずつお店をやる人間が増えると、やっぱり根っからの商人なんです。
“じゃあ、俺も頑張るか!”という気持ちになる。」

 

 

「塩釜市場」は、震災後の16日からテントを張って営業を再開。
いち早く世間に復興をアピールしましたが、その影では大変な苦労もありました。
震災によって市場の中でも亡くなった方がいらっしゃったのです。

 

 

今野「だけどお店に戻ってくると、お客さんも来てくれる。
そのお客さんとのやり取りで、またこっちも元気になるんですよ。
お客さんが通ると、思わず言っちゃうんだね“安いよ、安いよ”って(笑)」

 

 

だからなのかも知れない。この市場で働く人達の心は、とても温かい。
お客さんとのやり取りの中で、市場の人達は元気を取り戻す。
元気を取り戻したお店の姿を見て、他のお店も頑張る。
するとまた市場に入ってくる魚介も増えてくる。結果的にお客さんが増えていく。

 

 

今野「来て貰わないとどうしようもありません。是非皆さん、塩竃に来て下さい!」

 

 

 

 

 









 










この市場は厳しい目利きの“プロ”たちに鍛えられてきた市場。
生マグロの日本有数の水揚げ基地でもある塩釜の仲卸市場に是非お越しください!

 

 

市場の活気とは真逆の静寂が、ここ塩竃には存在します。
それがこの街を古くから見守って来た神社、その名も塩竃神社。
御由緒は塩竃神社のHPに以下の事が記載されていました。
『当社は古くから東北鎮護・陸奥国一之宮として、朝廷を始め庶民の崇敬を集めて今日に至りました。当神社創建の年代は詳らかではありませんが、平安時代初期、嵯峨天皇の御代に編纂された「弘仁式」に「鹽竈神を祭る料壱万束」と記され、厚い祭祀料を授かっていたことが知られます。
つまり、奈良時代国府と鎮守府を兼ねた多賀城が当神社の西南5km余の小高い丘(現在の多賀城市市川)に設けられ、その精神的支えとなって信仰されたと考えられます。

 

 

 

 

 









 

 







武家社会となってからは平泉の藤原氏・鎌倉幕府の留守職であった伊沢氏、
そして特に伊達氏の崇敬が厚く、歴代藩主は大神主として務めてまいりました。
現在の社殿は伊達家四代綱村公から五代吉村公に亘り9年の歳月をかけ宝永元年(1704)竣工されたものです。江戸時代以降は「式年遷宮の制」が行なわれ、氏子・崇敬者各位の赤誠により平成3年には第十七回の式年遷宮本殿遷座祭が斎行されました。

 

平成14年12月、本殿・拝殿・四足門(唐門)・廻廊・随神門以下14棟と、石鳥居1基が、
国の重要文化財の指定を受けました。』(HPより抜粋)

 

 

 

 

 









 

 






小高い山の上にあるんですが、その表参道階段の長いこと!
一番上まで昇ってきて見下ろす地面のなんと遠い事でしょう、横山さんの足がすくみます(笑)
境内には大きな絵馬が掛けられていたり、杉の大木、枝垂れ桜、蝋梅、藤棚etc.
自然の美しさが社殿の豪華さと相まって何とも言えない神秘的な雰囲気を醸しています。

 

 

 

 

 






 

 

 

 

 

 


またここから見下ろす塩竃の街の何と美しいことでしょう。
一日も早く、被災地に以前の生活が戻ることを、祈らずにはいられません。

 

 

 

 

 








 

 

 

 

続いて我々が訪れたのは、BROS Motor Cycleさん。
こちらが氏家さんの御親戚の経営する街のオートバイ屋さんです。
店舗も1階が少し浸水し、その後は街の為にバイクで奔走。
当時の事を話してくださった鈴木孝洋さんも、津波の来た方向に驚いたと言います。

 

 

鈴木「店の目の前を水が流れていったんですけど、海と逆の方から流れて来たんです。」

 

 

塩竃の港の方から暗渠化された川があるという。
そこを伝って津波が流れていき、地下を伝って街を越え、それが逆から押し寄せてきたのだ。
地震が発生してから津波が来るまでおよそ1時間。
その1時間の間に、お店のガレージにあったお客さんのバイクを高台に避難させ、
散乱した工具などを片付け始めた所に津波がやってきたという。

 

 

鈴木「何とか預かり物のバイクなんかは避難出来ましたけど、1階部分は泥で大変でした。」

 

 

店の前には大きな道路があり、取材した日も多くの車が通っていたのだが、
ここも津波が引いた後は海水が持ってきた泥で埋まったという。
その泥を一生懸命かき出したのは、地元の人は勿論、ボランティアや自衛隊の人達なのだ。
鈴木さんも何か出来る事はと考え、街の為に奔走した一人である。
今はお店も再開し、取材当日も地元のお客さんが訪れていた。

 

 

鈴木「塩竃はお寿司が本当に美味しいんでね、是非食べに来て貰いたいです!」

 

 

そうなのである。
お寿司なのである。
すっかり鼻息も荒くなった慶吾を宥めながら(笑)、
我々は市内で最も早く営業再開した老舗の丸長寿司さんへとお邪魔した。
なんせ塩竃は市民5万5千人の人口に対し、60軒の寿司屋がある寿司のまち。
丸長寿司さんの親方、長南政直(ちょうなん なおまさ)さんの握る寿司は、鮮度も味も最高!
長南さんは塩竃の寿司屋さんを束ねる方でもあり、やはり寿司の街の象徴として、
一番先に営業を再開したかったそうだ。そして今では沢山のお仲間が営業を再開している。
食べ物が旨いと街に人は集まる。そして街に旨い食べ物があれば、人は元気になる。
塩竃で暮らす人にとって、寿司は自慢の一つなのだ。
その自慢の一つが気合いを入れて、復興に向けて寿司を握ってくれる。
こんなに心強い事はないのではないだろうか。

 

 

 

 






 

 

 

 

 

 

震災から2カ月が経ち、初めてYAJIKITAで取材した被災地。
目を凝らしてみれば、そこかしこに沢山の傷があった。それは物にも、人にも。
直視するのが憚られるような現状も勿論あった。
しかし、前を向いて歩いている人達はそれ以上に沢山いらっしゃるのだ。

 

笑顔を取り戻すには、人の笑顔が必要だ。
人の笑顔が増えるには、被災地に住む人だけでは足りない。
塩竃を取材していて、そして仙台を歩いていて、
そこに暮らす方々は声を揃えて「ぜひ来て下さい!」と仰っていた。
被災地ではまだボランティアなど、人の手が足りない場所も数多くある。
まず、行ってみて欲しい。そして塩竃で美味しいお寿司を食べて欲しい。

 

今いる場所に全てがあるわけじゃない。
今みている場所が全てじゃない。

 

あなたの笑顔はきっと、被災地の皆さんの笑顔を取り戻す為の、大切な支援になるのだろう。
出来る範囲で構わない、続けていく事が何よりも大切なのだ。

 

人は奪い合えば足りないが、分けあえば余る。
被災地に、笑顔を。
当たり前の日常を、一日も早く取り戻せますように。