復興の礎~石巻・松島観光の今~
2011-06-02
区切りになどならないのだが、6月になってあの震災から3カ月が経とうとしている。
我々が取材に行ったのは5月13日~15日、震災から2カ月ちょっとの頃。
あの頃と比べて、また少しだけ被災地は前に進み始めている。
だけど弱った身体で動くのが億劫な様に、
被災地の方々も被災地の中だけではその歩みも思い通りにはいかない。
僕らが出来るのは、その身体を支え歩みを強くしていく事。
一所懸命の方々に一生懸命の声援を送る事。絶対に忘れない事。
もしも今回のYAJIKITA ON THE ROADの放送が、その一助になっていれば幸いです。
そしてこの旅日記も、いつもとは少し書き方を変えていこうと思うのだ。
旅日記は、いつもなら放送と同じ様な辿り方をして読んで戴いている。
なんだけど、今回はそうやって書く事が良いことなのかどうか悩んだ。
書き進めながら、現在進行形でまだ悩んでいる始末。
我ながら優柔不断な男だなぁ、と半ば呆れているのだが、答えはなかなか出ない。
ただ取材当時、僕らが感じた事を旅日記でよりダイレクトに感じて貰う為に、
ここでは敢えて我々が辿った様に、僕が感じた様に書き進めていこうと思う。どうか御了承下さい。
今回の放送は松島と石巻。実はそれぞれ取材日が違う。
松島は我々が被災地に入った翌日で、石巻は最終日。
金曜日の夜に仙台に入った我々は、翌日の朝から本格的な取材に入ったのだ。
土曜日の午前中から前回放送の塩竃の様々な場所や人を取材し、午後は松島というスケジュール。
松島は観光遊覧船が一部再開したというニュースを受けて、どうしても訪れたかった場所である。
朝、仙台市で車を借りた我々は塩竃へと向かった。
*塩竃でのくだりは前回の旅日記参照。
仙台市から車で20分も行けば多賀城市へ入る。そしてその辺りから風景が変わり始めた。
信号が点いていない、廃車になった車が積み上げられている、
建物の1階部分が津波で破壊されている、船が陸地に上がっている…etc.
前の晩の仙台駅前が賑やかだった分、その現実の風景を目の当たりにして、
徐々に我々の口数は減っていった。被災地を目の当たりにした我々にそれを語る言葉は無かった。
しかし塩竃に入りベイウェーブの横田さんのお話しや、市場の活気等を取材する内に、
その明るさに少しだけホッとした。きっと前に向かう力強さを感じたから。
その後、我々は松島の観光遊覧船の取材へと向かった。
| 日本三景のひとつ「松島」 |
ここは勿論日本三景の一つ。
松尾芭蕉の「松島や、ああ松島や、松島や」はあまりにも有名。
蛇足だが、松尾芭蕉ですらここの景色の見事さに感嘆の言葉しか出なかった、という句。
大小260もの島々がこの松島湾には浮かんでいる。
しかもそれぞれの名前に意味と物語があって、何よりもやはり美しい。
この島の自然が作り上げた配置と形は、見事という他ない。
しかし、ここも3月11日の震災で被災しているのだ。
松島の近くまで来ると、観光土産を売っているお店が沿岸沿いに並んでいるのが分かる。
そしてそのほとんどが、壊れたシャッターや割れた窓ガラスの横で懸命に店を開き、
営業を再開しているのだ。中には“危険、近付かないで”の張り紙が貼られた店舗もある。
あるお店にお話しを伺うと、GWはそれでも客は多かったらしい。(例年の4割程度との事)
でも連休が終わってからは、やはり客足も遠のき、営業も厳しいのだとか。
なんせ来て貰わなければ、松島の遊覧船も運航がままならない。
我々はここで、松島島巡り観光船の伊藤章理事長にお話しを伺った。
伊藤さん曰く、震災直後は津波で桟橋も流され、海底に溜まった木材等で、
遊覧船を動かす事も出来なかったという。しかも船だって無事では無かったのだ。
それでも日本三景のプライドをかけて、ここに復興の旗印を掲げようと、
伊藤さんを含め関係者は奔走した。ご本人達も被災者であるにも関わらず、である。
結果的にGWの前に【観光遊覧一部復旧】を成し遂げる事が出来た。
自分達の手で海底の木材等を引き揚げ、航路を確保していったのだそうだ。
我々も観光船に乗せて貰ったのだが、船から見る松島の美しさも素晴らしい。
| 観光船のスタッフの尽力により、 もうガレキはありません。 |
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伊藤さんにお話しを伺った後、売店にカモメのエサが置いてあるのを見つけた慶吾氏。
『井門、買いなさいよ。』の一声で餌を購入したのだが、
船の後部デッキに集まったカモメの、まぁ多いこと多いこと(笑)
我々が餌をやる前に、若者達がキャーキャー言いながら餌をやっているのを見て、
氏家さんなどは“ちっ、うるせーな”ぐらい思っていたのだが、
実際に我々がやる段になると、我々の方がうるさくギャーギャー言っていたのだから世話ない。
掌の上に餌を乗せておいて、カモメがついばむのを待つのですが、
奴らの貪欲さは時に掌の皮膚まで持って行こうとする…。
基本的に憶病なチキンハートの井門Pは氏家さんが「痛っ、痛っ!」というその後ろで、
恐る恐る餌を手の上に乗せるのだが、目ざといカモメは見逃さない。
井門Pの手からもガッツリついばんで、めでたく「痛っ、痛っ!」2号の完成である。
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ひとしきり騒いで疲れていると、船から見えるのは自然の作り上げた松島の美しさ。
震災で多くの物を壊したのが自然なら、この美しさを作り上げたのも自然なのだ。
“人間は自然には勝てない”そんな言葉を震災後に色んな所で聞いた。
しかしそれは違う様な気もする。
自然になど始めから敵う訳はない、それなら張り合う事自体が既に間違っているのだ。
人間は自然と共生する為に、様々な道を模索しなくてはならない。
あの震災で何かを学ばなければ、亡くなった多くの魂に顔向けできないではないか。
この日の夕方、もう松島湾に日も暮れかけた頃。
我々は急遽、この松島湾で牡蠣の養殖を行っている方に会いに行くことにした。
松島を実際に見た後に、ここの名産である牡蠣の現状を知りたくなったというのもあるが、
実は以前ニュースで「種牡蠣」が流されずに残った…という記事があったのだ。
ここの養殖牡蠣は日本でも有数のブランドでありながら、震災の影響で船が使えなくなり、
道具も流され、大元の養殖施設自体が全滅となった。
そんな中で希望を繋ぐ「種牡蠣」の無事が確認されたという。
そこで「種牡蠣」を再び松島湾へと返す作業をしている方に、我々は会いに行った。
その方とは、高栄水産(こうえいすいさん)の代表:高橋征信(たかはしゆきのぶ)さん。
ミラクル氏が電話で突然の取材をお願いすると、快く引き受けて下さった高橋さん。
まさにこの日も「種牡蠣」を海に戻してきたばかりだったそうである。
高栄水産は道路沿いにあり、普段なら様々な海の幸を扱っているんだろう、という風情。
取材時にもいくつか海の幸を扱っていたのだが、震災の影響からまだ少ないのだと言う。
お店でお話しを伺うと、高橋さんは丁寧に「種牡蠣」の説明をしてくださった。
しかし震災から今までの牡蠣の話になると、途端に目を赤くし言葉を詰まらせた。
| 高栄水産 代表:高橋征信さん |
震災で仲間が亡くなったと、静かに仰った。
死と対峙した人に、悲しみを背負う人に、僕らは何を言えばいいんだろう。
少なくとも分け知り顔で「そうですか…」等と言うのだけは嫌だった。
悲しみの感情に寄り添うのは簡単だが、それは本当に支えているとは思わない。
何と声をかけていいのか分からなかったけど、
「高橋さんの養殖した牡蠣、待ってますからね!」と言った途端、
高橋さんの顔がパッと明るく笑顔になった。力強く「分かりました!」と言ってくださった。
辛い気持を抱えながらも、でも前に進んでいる人に、
その前へ進む力を損ねる様な言葉はかけたくない。言葉の後押しをしたい。
松島の牡蠣は成長が早く、1年で立派なサイズになるのだという。
ただし懸念は、震災で処理施設が壊された為、汚水が松島湾に入ってきている事。
牡蠣が育ったとしてもちゃんと水質検査をしなくては安心して出せません、と高橋さんは仰った。
道のりの険しさは相当に厳しいもの。
しかし皆さんも、この松島の立派な牡蠣が食べられる日が来る事を首を長くして待っていて欲しい。
牡蠣の海を綺麗にする為に、水質を浄化する術もきっとあるはずなのだ。
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翌日、我々は石巻の取材を開始した。
前日に高橋さんのお話しを伺えたからだろう、
収録以外の場所でもスタッフの表情から真剣さが抜けない。
車は仙台市を抜け、一路石巻へ向かった。
YAJIKITAで8年前の2003年10月に放送した
「仙台~石巻、仙石線、南三陸秋の味覚の旅」
その中で、ヒット商品のササニシキアイスをはじめ、
これまで計110種類以上のアイスを考案しているお菓子屋さん「風月堂」さんを取り上げた。
しかし当然ながらお店は、津波で被災・・・。ただ幸いなことに工場は無事だったので、
現在は生産を再開し「風月堂」の佐藤社長は営業マンとして、
日本全国の百貨店などを飛び回っているのである。
我々はまず営業を再開している店舗に向かった。
駅の目の前にある店舗は一階部分のガラスもほとんど無事で、
簡易的なテーブルと箱に和菓子などを詰めて対面販売をしていた。
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名物の種類豊富なアイスも、種類に限りがあったが冷凍庫に収まっていた。
我々はここで、留守を預かる社長の奥さま・佐藤みつこさんにお話しを伺ったのである。
震災後はしばらく店の掃除などに追われていたが、工場が無事だった事で営業も早くに再開。
「風月堂」さんは地元の老舗でもある為に、その再開は街の人みんなが喜んだ。
その証拠に、取材時も地元の方がひっきりなしにお店を訪れていたのである。
しかも皆さん御菓子を沢山買われていく。(箱に1万円分を買われていく方も!?)
お店の存在が地域の人の笑顔に繋がり、地域の人はお菓子を買う事でお店を支えている。
そして頼もしい事に、社長は全国の百貨店に風月堂のお菓子を営業する為、飛び回っている。
我々はお店の後に工場も見せて貰ったのだが、日曜日だと言うのにフル稼働の忙しさだった。
もちろんササニシキアイスも戴きましたけど、めちゃくちゃ旨かったですよ!
もし皆さんの近くの百貨店に【風月堂】のお菓子があったら、
それは震災を乗り越えて届いた努力の結晶だと思って、是非手に取ってみて下さい!
| 氏家Dは「ずんだアイス」、 井門は「ササニシキアイス」 |
風月堂さんを後にした我々が次に向かったのが、全員が言葉を失った「石ノ森萬画館」である。
北上川の中州にある、石ノ森萬画館はドーム状の建物なのだが、津波でほとんどが飲み込まれた。
スタッフや自衛隊、ボランティアの懸命の泥のかき出し作業により、
水が引いた後は徐々に元通りになりつつあるのだが、まだ再開のめどは立っていない。
我々が着いた時も、周りの風景は津波に崩された家、積み上げられた潰れた車、
歩いては渡れない橋…etc.耳を澄ますと重機の作業音が聞こえてくる。
少しだけ小高い場所から、街を眺めてみた。
氏家さんも僕も、こういう状況なのは散々聞かされて、見ていたはずだった。
でも実際にその風景を目の当たりにした時に、言葉が出なくなった。
これを東京からちょっとの期間取材に来た人間が言葉にしていいのだろうか、
当事者じゃない人間が、誰かの宝物や流されてめちゃくちゃにされた家を見て、
レポートする資格などあるのだろうか、瞬間、立ちつくした。二人の男は心が折れた。
| 奇跡的に残った「自由の女神」は 石巻復興の象徴に。 |
しかし、である。
【石ノ森萬画館】に携わる人達は、この場所を再開させようと必死に前に進んでいた。
こどもの日には石巻の子供達を集めて、館のエントランスでイベントも開かれたのだ。
ここで暮らす方々や子供達は、以前の当たり前の日常を取り戻そうと必死ってなっている。
それなのに、東京からちょっと取材に来た我々がこの光景を見て心を折っているなんて、
それが何よりも格好悪い事ではないか。
【石ノ森萬画館】の中には現在入る事は出来ないのだが、
入口の横にはここを訪れたファンが寄せ書きをする為のボードが立てられていた。
その中の言葉を一部、抜粋させてください。
「HEROは必ず立ち上がる!」
「仮面ライダーは絶対に立ち上がります!」
「ヒーローは負けないと信じてる。
大好きです。がんばれ!また来ます!」
「一日も早い開館を心待ちにしています!」
我々の取材中にも若者が一人、ボードにペンを走らせていた。
遠くは外国からボランティアに来て、メッセージを書いていく人もいる(ガテマラの方のもあった)
多くの方の願いがある、多くの方の力強い言葉がある、
そして強く手を差し伸べる人達が沢山いる。
途中でうちのスタッフが作業中の自衛隊員に声をかけられたそうだ。
ラジオの取材である事を伝えると、『どうか、この現状を伝えて下さい』と言われたという。
震災から3ヶ月は復興への3ヶ月でもあり、
そこで働く自衛隊員・警察・消防・地元の方・ボランティアの方、etc.にとっての3ヶ月なのだ。
大変な想いをされながらも、3ヶ月間前に進んできたのだ。
| 一日も早い再開を目指す「石ノ森萬画館」 |
一度は自分の無力さを痛感したが、ここで踏ん張る人達の心に触れ、
再び自分の役割を認識した。我々は改めて伝えていかねばならない。
石巻駅前のあるお店では、力強い言葉を聞く事が出来た。
それが「たこ焼き くるるん」である。
こちらのお店は、昨年B級グランプリにも出店している「石巻やきそば」の名店。
震災で浸水もしたのだが、お客さんから冷蔵庫をもらったり、
知り合いからカンパなどの協力により、ゴールデンウィークにお店を再開。
御主人の伊藤建則さんは周りの人達への感謝を何度も口にした。
そして商店街の再開出来るお店の先鋒として、
近くの寿司屋のお寿司も、代わりに店先に並べて販売している。
| 「たこ焼き くるるん」 |
伊藤「言われたんです。再開出来る店は先に走っててくれ、後で必ず追いつくから!って。」
「石巻やきそば」は麺の製法が特殊である。
麺を二度蒸しする為に麺の色自体が茶色いのだ。
しかし、この独特な麺の製麺所が被災して、麺が無い状態が続いた。
待ち望んでいる人達にどうにかして「石巻やきそば」を食べさせたい、
その想い一心で、伊藤さんは通常の麺を自ら二度蒸しして仕上げる方法に至った。
伊藤「まだ食感が製麺所で作ったものと随分違うんですけど…。」
そう言いながら麺だけ食べさせて貰うと、その食感の弾ける感覚が素晴らしい。
焼きそばのアルデンテを食べているかのようだ。
我々はこちらで名物【石巻焼きそば】と【たこ焼き】を戴いたのだが、
どちらもじんわりと旨い。書きながら思い出して、もう一度食べたくなる味だ。
取材する手も忘れ黙々と食べていると、お店にはこの味を求め多くの方がひっきりなしに訪れる。
伊藤「今回の震災で、石巻は確かに多くを失いました。」
伊藤さんは震災からこの時までの想いを語ってくださった。
辛いものは辛い、誰だって失ったものは大きい。
しかし前に進める人がちゃんと力強く進んで行かないと、何も進まないのだ。
そして伊藤さんは、力強く前に進む役を買って出た。
石巻に暮らす人や仲間の為に、何より石巻の為に。
伊藤「石巻が終わったっていう人がいます。
でも…石巻は絶対に終わっていないですから!
必ず復興してみせますから!」
伊藤さん、焼きそば最高に旨かったです。
また食べに行きますからね。
| 御主人の伊藤さん |
今回、塩竃や松島、そして石巻に入って我々は何をしたんだろう。
何一つとして、被災地の役に立つような事はしていない。
しかしそこにあった“前に進もうとする力、光”は確かに見てきた。
そして我々が何かをするのはここからなのだ。
その前に進もうとする力や光を、より強く、より眩しくする為に、
支える為の後押しを集め、知って貰う為の声を上げるのだ。
これからもYAJIKITAという旅番組の視点から、被災地の為に出来る事を探していきます。
今度は6月末か7月上旬に岩手をOA予定です。
どうか皆さん、番組を通じて被災地に支援の想いを届けて下さい!