東京生まれの飲み物を探そう! 東京ドリンクショー!|旅人:井門宗之
2011-09-10
事の発端はこうである。
福島にロケで訪れている時に、また井門が思い付きで企画(にもなってない)を話し出した。
井門「なんか、東京ローカルの飲み物で1本。みたいな?
あ~、なんて言うかな、江戸時代から脈々と続く東京と水の関係みたいな。
“ドリンクバー”とかって、なんか良い響きだからそれをモチーフにしてさ。
あっ!“東京ドリンクショー”ってタイトルにしてさ、詳細は…ねぇ?」
BGM C.I.-【地上の星/中島みゆき】
♪風の中のす~ばる~ 砂の中のぎ~んが~♪
…この呪文の様な企画概要に、男達は慌てた。
馬鹿とは言え、一応プロデューサーである。
その言葉の端々から企画になりそうなフレーズを導き出し、番組にしなくてはならない。
しかし数々の関門が、男達の前に…立ちはだかっていた。
まず第1、“言ってる意味が、よく分からない”。
第2は“言っただけで、すぐ忘れるんぢゃねぇか?”という事。
男達は…動いた。
東京に戻ってきてから数日。
電光石火の早さで、作家のメルシー氏は、しっかりと番組になった企画書を書き上げた。
井門「良いっすね~!これこれ“東京ドリンクショー”!!
僕がやりたかったのは、これなんですよ~!」
(メルシー追記:ま、この間に本編で美香さんが暴露した、
YAJIKITA 定例会議でのスタッフ全員からのすったもんだがあったわけだ。)
BGM C.I.-【ヘッドライト・テールライト/中島みゆき】
♪ヘ~ッドラ~イト テ~ルラ~イト 旅は~まだ~終わら~ない~♪
男達は…勝った。
馬鹿に…勝った。
こうして今日も、ヤジキタの新たな旅は…スタートするのだ。
プロジェクトY 完
はい、という訳でございまして、ここまでで「もう旅日記長ぇよ!」とお思いの方!
そうです、そこのアナタですよ。
(メルシー追記:一番そう思ってるのは、この長ぇ文章を何度も読み返し、
誤字脱字チェックや写真組み込み作業を“させられてる”私じゃっ!!
プンプンッ!!!!)
僕が旅日記書くのは久しぶりなんですから、少しは堪能しなさいよぅ!
僕が旅人になったら、多少旅日記が長くなる事は覚悟してもらわないと。
僕のノートPCの中では、ヤジキタの旅日記が容量結構な割合で占め始めてるんだぞ。
さて、気を取り直してと…
旅人の井門宗之でございます。
冒頭のやり取りは多少の脚色が入っておりますが、
僕から出る企画案はいつもこんな覚束無い物…。
だけどその企画の種は、優秀なヤジキタスタッフが一生懸命水をやり、育てる。
だから皆さん、ヤジキタスタッフは優秀なんですよぉ!
なんせこんなタラちゃん並の言葉足らずな企画を、しっかりとした番組にしてくれるんですもの。
では、今回の企画が一体どんな概要でまとまっていったのか?
【東京ドリンクショー】
今回は東京生まれの飲み物を探して、その歴史を探訪すると共に、
最終的には東京ならではの場所で飲んだくれてしまおう! という残暑ユルユル企画…。
はっ!!!!
やっぱりユルくなってる!!(笑)
軍師はメルシー氏、Dは佐々木氏、カメラは若手の久保田君(言うほど若くない)
台風12号の進路も気になる9月某日、
我々の旅は下町を象徴する東京スカイツリーの真下から始まりました!
| 「東京スカイツリー®」に熱い抱擁 |
旅の起点は「東京スカイツリー® 」。
2012年5月開業予定の電波塔であり、自立式電波塔としては世界最大の634mを誇ります。
場所は下町、墨田区押上。
押上って町もね、ちょっと前まではごくありふれた下町の一つだったんです。
その昔【匠のことば】って番組でよく墨田区の辺りに取材に来たのですが、
威勢の良い職人がいる町工場があって、商店街からはコロッケの匂いがしてね。
自転車3人乗りのおばちゃんは、パワフルに町を駆け抜けていく。
僕なんかは北国の生まれですから、下町の風情ってのは「こち亀」で学んだんだ(笑)
でも驚いたのは上京して下町に行くと、みんな「こち亀」のまんまなんですよね。
それが何だか嬉しくて、楽しくて。
これと言って観光地は無いんだけど、いるだけで元気を貰ったもんです。
その押上にいよいよ来年、世界一の電波塔が開業する。
町の様子も少しずつ変わってきたみたいです。
駅前のツリーの麓は広く再開発エリアになっていて工事中だし、
よく周りを見てみると建設途中のマンションもかなりの数である。
町に新しい絵の具で色が塗られていく感じがする。
でもその変化を地元の人も受け入れつつあるようです。
業平橋のバス停前にある時計屋さん【金銀堂時計店】のご主人もそんな一人。
ご主人はスカイツリーの建設に合わせる様に、なんと手作り模型でスカイツリーを自作!?
店の入り口にはおよそ2mのミニスカイツリーが聳えているのです!
店の目の前は、見上げるとスカイツリー。
ご主人は毎日双眼鏡を片手にスカイツリーを見上げていたそうです。
ご主人「お陰で首が凝っちゃって凝っちゃって(笑)
あ、下町の人がとっつきにくいってのはイメージですよ。
スカイツリーの完成に合わせて、色んな人に観光に来てほしいですね!」
ご主人は終始笑顔で、特に東北の人が元気になる為に何かしたいと話してくれました。
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さてさて、東京ならではの飲み物を探訪していく今回の旅。
ちょっくらタクシーに乗って、最初の目的地へと行く車中での出来事でした。
井門「奥さんが里帰り出産だからさ、もう家の中で自由で。」
ゴル「制約が無い、と?」
メルシー「どうせエッチなサイトばっかり見てるんでしょ?」
運転手「でも、それって履歴に残りますよね!?」
運転手さん食いついてキタ――――!!!!!
なんという意外な所からの反応でしょう!?
僕らは完全に裏をかかれたのです。
密室の安心感で「ここには俺達しかいない」という油断…。
しかしここにはこの部屋の主とも言うべき運転手さんがいたのです。
しかも結構年配の運転手さん、まさかそんなピンクな話に乗っかってくるとは…。
井門「いや、僕は個人のノートPC使ってますから! 大丈夫ですよ。」
佐々木「でもその内“カレログ”付けられるかもよ、奥さんに(笑)」
久保田「あー、あれは怖いっすねぇ。」
運転手「“かれろぐ”っちゅうのはなんですか?」
運転手さん再び食いついてキタ――――!!!!!
予想外の展開に我々も驚愕しながらも、佐々木君が丁寧に“カレログ”を説明。
するとその御礼にと言わんばかりに運転手さんもタクシーでのエピソードあれこれを…。
運転手「いやぁ、色々ありますよ。」
井門「例えばどんな?」
運転手「いきなり後ろで●●始めちゃったり。
なんか訳有りの感じでね、男性の方が●●●の関係で歳も若いんだけど、
女性の方が●●●だから●●させてやるって、ちょっとね…(笑)」
一同「え――――――――――――!!!!!(興味津津)」
そんなこんなで、取材のしょっぱなからお見舞いされた感のあるYAJIKITA一行。
鼻息も荒く最初の目的地に無事到着したのです。
東京ドリンクショー、最初のドリンクは【トーキョーサイダー】!!
我々は本社の「丸源飲料工業」さんを訪れ、早速色々なお話しを伺いました。
笑顔で我々を迎えてくださったのは、常務取締役の阿部浩明さんと、
トーキョーサイダー事業部の亀澤義裕さん。
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地方のリスナーさんは耳馴染みが無いかもしれないが、
昭和の東京ではよく見かけたというご当地サイダーが「トーキョーサイダー」である。
*井門も札幌出身なので取材するまで知らなかった。
そもそもの販売開始は昭和22年というからその歴史は古い。
以来、昭和が終わる頃までその販売は続けられた。
阿部「大体、60歳代~70歳代の方々が“あった、あった! 懐かしいね”となりますね。
でも販売当初は子供向けに作ってはいなかったんですよ。」
発売当初は戦後から僅か2年しか経っておらず、サイダー自体が貴重な飲み物。
貧しい中で誰もが帝都東京の復興を目指して、どろどろになりながら前に進んでいた。
一部の特権階級はいたのだろうが、ほとんどが家も焼け出された所からのスタート。
そんな中で貴重で高価な砂糖がいっぱい入ったサイダーは贅沢な飲み物だったのだ。
阿部「贅沢な飲み物っていうのは当然、
栄養をとるとかですね、元気になる為の飲み物だったんですよ(笑)」
| 確かに昔と同じラベルです |
| 「Tokyo Ciders」という 野球チームもあったんですよ |
生まれたばかりのトーキョーサイダーは家ではなく、お店で飲むものだった。
子供ではなく、大人が飲む贅沢品として始まったのである。
そしてそのロゴは商品名だけは誰でも分かる様に、片仮名表記にした。
シンプルに“トーキョーサイダー”。
阿部「当時は誰もが背伸びしてアメリカっぽく作りたかった。
だからこんなハイカラモダンなデザインになったんでしょうね。」
ただし、真ん中に描かれたイラストは復興して元気になる為のシンボルとして、
下町っ子の自慢だった【旧両国国技館】をデザインした。下町っ子の愛と矜持をここに感じる。
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戦後すぐに作られたトーキョーサイダー。
しかし外資の参入、国内メーカーの拡大などの影響もあり、
下町の小さなヒーローは次第にサイダーの世界から撤退を余儀なくされた。
子供の頃にトーキョーサイダーに慣れ親しんだ人々からは、
生産打ち切りの知らせを受けそれを惜しむ声が後を絶たなかった。
ところが丸源の社員は生産打ち切りを【永遠のもの】とは最初から考えていなかったのだ。
阿部「打ち切ったその日から、いつ復活させるかを考えていました。
そしてそれが今年6月だったんです。その準備は実は昨年から始まっていたんです!」
長く下町の、いや東京の人々に愛され続けたご当地サイダー。
だからこそその復活に中途半端なタイミングは当てたくない。
「東京スカイツリー 」の登場で、今まであまり脚光を浴びなかった墨田区に注目が集まった。
そしてこの注目を一過性のものにはしたくない。
せっかく墨田区に来て貰ったのだ、墨田区ならではの物がないといけない…。
――もしかしたら今が復刻させる“秋(とき)”なのかもしれない――
そう丸源の方々は考えたのだ。
井門「実はこのサイダー、墨田区限定なんですってね?」
阿部「はい、墨田区内だけでしか飲めません。」
井門「そうは言ってもインターネット販売は…」
阿部「一切しておりません!
墨田区内のみの販売です! 」
丸源のこだわりは“墨田区内限定”という言葉に強く表れている。
地元を活性化する一つの要素として、区内限定という“縛り”を敢えて設けたのだ。
井門「しかしさっきから“サイダー、サイダー”言ってたら飲みたくなりました!!」
阿部「(笑)もちろんここは墨田区ですから、どうぞ!」
| で、飲んで… |
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子供の頃、祭囃子に胸を躍らせたあの頃を思い出す味。
透明なトーキョーサイダーの中に、ただただ楽しかったあの頃を思い出す。
普通に飲んでも美味しいトーキョーサイダーだが、まだ色んな飲み方があるとの事。
亀澤「はい! 勿論色んな飲み方がありますよ!」
井門「おお、今まで大人しくしてると思ったら(笑)」
亀澤さん曰く、焼酎やウイスキーと、キンキンに冷やしたサイダーを割る…トーキョー酎ダー!
下町のハイボール感覚なのだろう。
ただ難点は、トーキョーサイダーが飲みやすいだけに、
アルコールが入っているにも関わらずスイスイ飲んでしまいそうだと言うこと。
サイダーの懐かしい味で、思わずお父さん達は子供の頃を思い出すのだ。
そして自分の思い出の品を引っ張り出してきて、酔っ払いながら涙ぐむのであります。
サイダーは飲む夏休みなのだ。夏休みを丸ごと飲んでいるのである。
トーキョーサイダーには丸源の人々の想いが詰まっている。
その想いの粒が、サイダーの気泡の様にプチプチと弾けて、心地良い。
阿部さん、亀澤さん、素敵な東京ドリンクを有難うございました!
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丸源飲料工業の屋上から見た墨田区の雰囲気 |
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◆◆◆
ところ変わって、今度は東京の都心部・赤坂である。
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東京ドリンクショー、2つ目のご当地ドリンクは…ホッピー!!
| 社内に入ると歴代の商品の瓶がズラリ! |
リスナー「はい? そういや井門がたまにホッピーホッピー言ってるけど…それ何?」
そうなんです!!
東京ご当地ドリンクとして名高いホッピー。
もう都内では当たり前の様に居酒屋やスーパーに置いてあるのですが、
関東以外だとなかなかお目にかかれないという代物。(8割が関東です。)
ところが、都内ではいま若者を中心にホッピー人気が定着しているのです。
どんな飲み物なのか?
しかし飲み物って味が分からないとますます飲みたくなりますよね。
きっと僕らの知らないご当地ドリンクは日本中にあるんだろうなぁ…。
お話しを伺ったのはホッピービバレッジ広報であり、社長秘書の石津香玲良さん。
お父様がポルシェを愛するあまり、愛娘にその名を付けたという生粋のポルシェマニアだ。
なんとラジオ媒体のインタビュー対応が初めてという…何とレアな!!
その初体験、ヤジキタが奪わせて戴きます!(やめろ、オヤジ。)
石津「ホッピーは簡単に言うと、ビールの味がするノンアルコール飲料です。」
ホッピー自体が生まれたのは、トーキョーサイダーと同じ戦後すぐの事。
元々はビール風清涼飲料は大正時代に流行していたらしい(!?)
当時はラムネを作っていたというホッピービバレッジの創業者は、
ノンアルコールビール業界に参入したくても資金面で「本物の味を出せない」事を悟る。
――決してまがいものは出したくない――
創業者の熱い信念は貫かれながら、徐々に時代は大東亜戦争に突入。
東京は焼け野原となり、日本は敗戦国となった。
しかし日本人は強かった。焼け野原から一本ずつ生えてくる雑草の様に根気強く、
敗戦へ向かった負のエネルギーを今度は全て正のエネルギーに替えて、復興へと向かったのだ。
そんな中でホッピービバレッジの創業者はある運命的な出会いをする。
戦前と変わらずにラムネを製造していた創業者は、
“冬場にラムネを売るには、冬場でも家の中が温かい寒い地域が良いのではないか?”と考え、
長野に工場を作る事を考えた。そしてそこで見た光景に運命を感じたのである。
視察に訪れた創業者の目に飛び込んできた光景は、一面のホップ畑だったのだ・・・。
当時長野ではホップを盛んに生産し、麦芽飲料等の原料としていた。
戦前、資金面で折り合いのつかなかったノンアルコールビール業界への参入が、
この時を境に現実のものとなったのだ。
――決してまがいものは作らない――
創業者の想いは製造工程のこだわりへと進化する。
本物のホップと麦芽を使用し、ビールと同じ製造工程で生産する。
石津「創業者の石渡は本物の味を作りだす為に、ここを拠点にノンアルコールビールを作り始めました。
実は商品名【ホッピー】の“ほ”は本物の“ほ”なんです!
最初は“ホッビー”だったのが、呼び易くする為に“ホッピー”にしたんです!」
井門「そうだったんですか!? えっ、完全にアルコールは0%なんですか?」
石津「いえ、実は0.8%だけアルコール分が入っています。
アルコール分=旨味になるので、これは外せないこだわりなんです。」
もうひとつの驚きは、ホッピーの今の主流の呑み方についてだ。
ホッピーはノンアルコールビールなので、これ自体では酔わない。
では居酒屋でこれをどう言う風に楽しむかというと、焼酎で割るのである。
石津「これも戦後すぐに、お客さんが編み出した飲み方なのだそうです!」
戦後まもなく、貧しかった当時の日本では日本酒などは高値の花、
焼酎も良い物は流通していなかった。しかしその美味しく無い焼酎も、
ホッピーで割ると美味しくまるでビールの様に飲める! しかも安く酔える!
スタンダードに飲んでいるホッピーの焼酎割りは、こうして戦後の日本人の工夫から生まれたのだ!
ではここで石津さんに正調ホッピーの作り方を教わろう。
石津「まずは基本です。ホッピーを作る時はジョッキを冷凍庫で冷やし、
ホッピーと焼酎は冷蔵庫でキンキンに冷やして下さい。」
井門「氷は入れないんですか?」
石津「はい! あくまでも麦芽飲料ですので、氷で薄まるとホッピーの風味が薄まります。
味が格段に変わってきてしまうので、氷は絶対に入れないで下さい!」
ホッピーのジョッキに甲類焼酎をワンフィンガー(言い方古いね、昭和だね。)
そこにホッピーをジョッキの底に叩きつけるぐらい勢いよく注ぎ入れる!!
すると………あわあわあわあわあわあわ………(ホッピーに素敵な泡が立つのを想像して下さい)
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まさに3冷で作り上げたホッピーを一口飲むと…。
井門「うっめー!!!!!」
泡のクリーミーさで麦芽の香りをしっかりと包みこんだホッピーは薫り高く、
キンキンに冷やしたジョッキと焼酎のお陰で、喉の奥がキーンとするぐらい冷たくて旨い!!
石津「続いて3種類、ジンで割ったホッピー。そして梅酒割り、最後は変わり種いきましょう!」
井門「うんうん、早く飲ませて!」
ジン割りホッピーで使用するジンはタンカレー。
焼酎の量の半分をジョッキに注ぎ入れたらホッピーを勢いよく!
最後にカットしたライムを搾り入れ、完成! 待ちきれない井門、早速一口。
井門「なんじゃこりゃー!!!!!」
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これが驚くほど爽やかで旨いのだ!
驚き、喜ぶ井門を笑顔で眺める石津さん。その手は次のジョッキへと伸びていた。
梅酒ホッピーの作り方は焼酎割りとほぼ同じ。(梅酒の量は多くてもOK)
井門「うまっ!!!!!」
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これは女性にオススメです。非常にさっぱりしていて、
梅酒の香り高さが麦芽の独特の苦みを抑えてくれているので、ビールが苦手な方も良いでしょう。
最後は変わり種で石津さんオススメ!!
石津「なんとトマトジュースで割ってしまいます! しかも使うのは黒ホッピー!」
ジョッキに焼酎を通常量入れ、黒ホッピーとトマトジュースを半分ずつ入れる!
色合いは深く、まさにホッピーの奥深さを表現しているかの様だが…一口。
井門「うわ、うわ、うわー!!!!!」
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まるでレッドアイの様な味で、思わずタバスコを入れて飲みたくなるのだ。
もしここにタバスコを入れたら永久運動でしょうね(笑)
石津さんもこれを飲んだらおつまみが要らないかも…なんて仰る。
しかし何とバリエーション豊かな飲み物なんだろう。
この飲み物が戦後の日本人を活気づけ、再び今の少し低迷している日本を元気づけているのだ。
石津「これからも東京ならではの飲み物として、でも広く色んな方に親しんで戴きたいです!」
| ホッピーはお宅用・お店用それぞれの 白ホッピー・黒ホッピーと 割らずに飲める55ホッピーの5種類 |
ラジオ初取材だったというのに、淀みなく素晴らしいお話しを有難うございました!
石津さん、今度飲みに行きましょう~!
◆◆◆
さぁ、東京ドリンクショーの最後はやはりここだろう。
浅草ホッピー通り
浅草寺の裏手にある飲み屋通りなのだが、
100mくらいの道の左右に「ホッピー」という提灯をぶら下げた店が軒を連ねている。
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ホッピーファンの聖地でもあるホッピー通りで、
ヤジキタスタッフ全員でホッピーのジョッキで乾杯をする! 最高の瞬間ではないか!!
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勿論、ホッピー通りのお店に入ったらホッピーの他にも定番の「モツ煮込み」等も頼まなくちゃ。
あっ、リターナブル瓶のホッピーの場合、外1中2が基本ですからね!
これはホッピーの瓶を「外」と呼びジョッキの焼酎を「中」と呼ぶ方式で、
大体「ホッピーのセット」を頼むと瓶と焼酎の入ったジョッキが運ばれてきます。
ジョッキに瓶のホッピーを半分程注いで、まず一杯飲む。
飲み干したら店員さんに「中おかわり!」と注文しましょう!
新たに中身(焼酎)の入ったジョッキが運ばれてきますから、そしたら残りのホッピーを入れて飲む!
ホッピーはこれの繰り返しです。だからいつの間にかドロドロに酔っぱらう事も…あるかも…(笑)
でも間違いなく言えるのは、これを繰り返す事でいつの間にかホッピーの虜になっている、という事だ。
戦後のあの当時も、今の日本も、斜陽の雰囲気はどこか共通している。
しかし、当時と同じ物がこうしてまた流行り出しているのだ。
――東京ドリンク――
ひょっとして東京ドリンクが脚光を浴びる、という事は、
日本が再び復興する何かの信号なのかもしれない…。
≪オフショット≫
浅草ホッピー通りの時間の流れ…
| 17時49分 取材用のホッピーがテーブルに |
| 18時27分 取材は3分で切り上げ その後30分経過 かなりイイ気分 |
| 18時47分 取材は2分で切り上げる キムチポッカが旨かった |
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その後は、徹夜明けだった佐々木Dは撃沈!
みんなかなり酔っ払ったので、もう帰ろうと思ったら、まだ8時前だった…。で、解散と。