東日本大震災 復興応援スペシャル~南相馬へ羽ばたいた、祈りの折り鶴~|旅人:中田美香
2011-12-02
「また、彼女たちに会える」!
そう思うだけで、胸が躍った。
彼女たちとの出会いは、今年の8月28日に鎌倉市の鶴岡八幡宮で開催された「鎌倉音楽祭」だった。
舞殿のステージに、東日本大震災と福島第一原発事故で、メンバーが各地に散り散りになっている、
福島県相馬市の女子中高生による合唱「MJCアンサンブル」が出演。
復興への思いを込めて熱唱する彼女たちの、ステージ上での美しくも力強い歌声に心打たれた。
そして同時に、ステージを離れたときの彼女たちの素顔や人間性にも、強く魅かれた。
まっすぐで、澄み切った瞳を持つ彼女たちは、いつだってひたむきで、純粋で、かわいい。
スターダスト・レビューやChage、夏川りみなど、錚々たるアーティストが舞殿のステージに立つ中、彼女たちは緊張した様子もなく、むしろ彼らと同じステージに立てる喜びをかみしめているようだった。
いつだって笑顔で、喜怒哀楽を素直に表現する。
この日だって、楽屋でもステージの袖でも、ミーハー心全開で「キャーキャー」と騒いでいた。
その様子があったかくて、ココロにいつまでも残っていた。
この「鎌倉音楽祭」の会場に来ていたお客さんや、参拝者の方々は、
復興への祈りを込めて2000羽もの折り鶴を折った。
今回は、その2000羽鶴を届けるために、鶴岡八幡宮の宮司さんが彼女達の元に向かうと聞き、YAJIKITAも再会の瞬間に同行させて頂くことになったのだ。
『東日本大震災 復興応援スペシャル ~南相馬へ羽ばたいた、祈りの折り鶴~』
と題した今回のYAJIKITAの旅。
地震や津波、原発の被害に直面した南相馬の街は、現在どのような状況に?
今ここで暮らす人々は、どんな生活をされているのか?
そして、音楽で繋がった出会いを通じて、
全国の方々からの復興への祈りや思いを、我々はしっかりと南相馬の街に暮らす方々に伝えよう。
そんな思いを胸に、南相馬の街へと向かった。
南相馬へは、JR福島駅から車でおよそ1時間40分。
到着したのは、土曜日の夜8時を回っていて、
外灯はなく、電気がついた家も見当たらず、ただただ暗い。そんな印象だった。
でも、宿泊するビジネスホテルに到着すると、イメージが一変。
駐車場には、多くの車が止まり、ロビーは大勢の人で溢れている。
宿泊客の多くが顔馴染みなのか、互いに会釈を交わしたり、
笑顔を交えて和気あいあいと語り合う姿がある。
長期滞在者が多いのかな。
夕食を食べに行こうと、スタッフと街に繰り出すと、街全体はやはりひっそりとしたまま。
しかし、飛び込んだ居酒屋の店内は、にぎやかな笑いに包まれ、
カウンター席しか空いていないほどにお客さんで溢れていた。
客層をみると、地元の人々ばかりではなさそうだ。
ど、どうなっているんだろう・・・?
思いきって店主に話を訊いた。
店主:「常連さんだった方は、殆どがいなくなってしまったねー」
私:「でも、にぎやかですよね?」
店主:「ありがたいことにお客さんの数は減っていないんだよ。
例えば、家族は別の県に避難しているけど、
お父さんだけが単身で残って仕事をしているという人がいたり、
工事関係の人も随分と増えたねぇ」
私:「苦労されている点は何ですか?」
店主:「料理の素材が手に入りにくいね。
まずは、安全を第一に考え、各地から生鮮食品やお肉、お魚などを送ってもらっているからね」。
翌朝早起きして、少しだけホテルの周りを散歩してみた。
コンビニやチェーンのレストランは通常営業、犬の散歩をしている歩行者の方もいる。
すれ違うと皆さん笑顔で「こんにちは」と挨拶をして下さる。
どこにでもある、日曜日の朝の街の風景。
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車で、南相馬市のメインターミナルであるJR原ノ町駅に向かってみた。
駅周辺は、車の通りも多く、行き交う人々の姿もある。
ここもまた、どこにでもある、日曜日の駅前の光景だ。
でも、実は、原ノ町駅はいま、電車の駅としての機能は失ったまま。
南側は原発の影響で、北側は新地町や宮城県の山元町で、線路が流されてしまい、
常磐線は完全にストップしているからだ。
駅前のターミナルからは、臨時のバスが運行していた。
余談だが、ケータイで駅をパチパチ撮影していたら、男性が突然近づいてきて、
「ね、いくつ?」と訊いてきた。
“え?????昼間からまさかのナ、ナンパで、ですか????”
ドギマギして戸惑っていると、すかさず「放射能の数値だよ。測っているんでしょ?」だって。
どうやら、ケータイと放射能測定器である”ガイガーカウンター”を見間違えたらしいのだ。
原ノ町駅の駅員さん曰く、南相馬に住む殆どの方は、一家に一台”ガイガーカウンター”を所持し、
日々測定をしているらしい。
一見、どこにでもある、のどかで平和な街に見える南相馬。
だが、人々は、決して安心して暮らしているワケではない。
様々な苦労が見え隠れする。
続いて「MJCアンサンブル」の練習場所にもなっている「野馬追通り 銘醸館」にお邪魔した。
野馬追通りに面したこの場所は、朱色で、大正ロマン風なオシャレな建物。
中にお邪魔すると「野馬追通り 銘醸館」の稲村友希さんが迎えて下さった。
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明治蔵には「相馬野馬追祭り」に関する展示が… |
元々は酒蔵だったというこの場所は、
当時の建物の雰囲気そのままに修復され、市民の憩いの場として開放されている。
蔵は、明治、大正、昭和と一連の時代を伝える建物になっていて、興味深い。
明治蔵には、南相馬を代表するお祭りで、
重要無形民俗文化財にもなっている「野馬追い祭り」の展示がある。
もともとは、平将門が始めた軍事訓練だったという野馬追は、
江戸時代には、馬を追い込んでいって捕まえる神事となり、
現在の相馬野馬追行列へと変化していったそうだ。
実際にこの行列を再現した人形などが展示されていて、
見ているだけで、その勇壮な姿が目に浮かぶようだ。
かわって、昭和蔵に移動。ここは、ちゃぶ台やタンス、レトロな看板、黒電話など、
昭和の時代に実際に使われていた数々のアイテムが並べられていて、なんだか懐かしい気持ちになる。
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市の観光課にも勤める稲村さんに、緊急避難準備区域解除後の街の変化をお伺いした。
「学校が復活し、子供たちが少しだけ街に戻ってきた気がするけど、あまり生活に変化はない。
解除されても、線量が減っていない。
生活はできても、安心して暮らせるようになったわけではない」と。
生まれも育ちも南相馬という稲村さんにとって、
海・山・川という自然に囲まれている南相馬の街は自慢の場所だ。
震災前まで、海岸沿いにはサーファーが集まり、
世界大会までも開かれるサーフ・スポットだったそうだ。
南相馬市の中心部には「道の駅 南相馬」という施設がある。
駅長の大竹健次さんによると、この「道の駅」の南23キロに、福島第一原発があるそうだ。
私たちが伺った際は、除染作業を済ませたばかりというタイミングだった。
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| 地元の野菜販売コーナーには 「がんばろう ふくしま!」 |
この「道の駅 南相馬」は、震災発生からおよそ2カ月後の6月1日から営業を再開されている。
しばらくの間、警察や自衛隊の拠点場所となり、
その後も物資や従業員の数が揃わず再開が難しかったそうだ。
私たちが訪れた際は、家族の姿もあり、
近所のお母さんが食品を購入しにきていたり、街の人達がお友達と集う憩いの場所のようにも見えた。
南相馬の特産品を大竹さんに教えて頂いた。
まず、イチゴジャム、こしあん、生クリームが一緒に入っているという画期的なパン「よつわりパン」。
そして、ミルク味のアイスクリームに、こしあんが詰まったアイスキャンディー、
その名も「アイスまんじゅう」。
南相馬に60年以上前から伝わるこの氷菓子は、全国的にも有名ですよね。
新鮮で絶妙な組み合わせの味の数々・・・。
南相馬の方って、甘党が多いのかしらん・・・。
| 中田美香絶賛! 「アイスまんじゅう」! |
他にも「多珂うどん」や「からみ漬」などの名物がいっぱい |
南相馬に伝わる伝統的な工芸品である「大堀相馬焼」は、浪江町に窯元がある伝統的な焼き物だそうだ。
いまは、20キロ圏内の浪江町に入れなくなり「大堀相馬焼」も入手困難となった。
「道の駅」に設けられた「大堀相馬焼」コーナーの棚は、ガランガランだ。
大竹さん曰く、南相馬の人口は、7万人から4万2000人位までに減少したそうだ。
何よりもの願いは、早く安心して暮らせる街に戻ること。
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2006年「平成の大合併」で3市町村が合併して誕生した新しい町でもある南相馬市は、
野馬追いやサーフィンなどなど、観光スポットや歴史ある自然に恵まれた土地。
その魅力を全国の方にアピールしようと思って取り組みをスタートさせた矢先に、
今回の震災が発生した。
それだけに、市民の皆さんのやるせない思い、
そしてなによりも街への深い愛が、お話を通じてひしひしと伝わってきた。
そうこうしているうちに、鶴岡八幡宮の宮司さんが到着する時間が近づいてきた。
MJCアンサンブルが練習を行う「野馬追通り 銘醸館」に戻ると、
吉田茂穂宮司と彼女たちが既に再会を喜び、思い出話や近況報告をする姿があった。
MJCの皆さんに送られた2000羽鶴は、
巫女さんたちが糸を通し、宮司自らが「希望」という文字を入れられ、
今年の干支であるウサギの絵も描かれ絵馬が付けられ、美しい色合いに纏められていた。
「希望」をいつまでも持ち続けてほしい。その願いを込めて書かれたそうだ。
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| 吉田宮司と一緒に! |
多くの人のココロを惹きつけるMJCアンサンブルとは、どのような子供たちなのだろうか?
代表である金子洋一さんにお話をお伺いした。
南相馬の女子中高生が中心になって2009年に結成されたMJCアンサンブル。
結成のきっかけは、
当時、南相馬の学校には合唱部というものががほとんど存在していなかったことだそうだ。
現在のメンバーは、19人。
メンバーの大半が避難生活を強いられ、週一度の練習に全員が集まることは難しい。
今回集まったのは、12人。年齢層は12歳~19歳、まだあどけない女の子たちだ。
震災後、金子先生は、練習をしている状況ではないなと思ったそうだ。
でもそれぞれがメール連絡を取り始めると、
子供たちは、誰ひとりとして辞めようとは言わなかったそうだ。
それぞれが、それぞれの避難先で自主練習を続け、
子供たちの「唄いたい」という強い意志のもと、5月にやっと練習を再開することになる。
印象的だったのは、2ヵ月ぶりに再会したときのエピソードだ。
以前よりも真剣なまなざしで、ひたむきに歌を唄う彼女たちの表情は、
震災を通して、様々な経験を通して、成長し、
歌を以前にもまして好きになっているように見てとれたそうだ。
歌がまさにパワーの源になり、歌がより一層、強く強く「縁」と「縁」をつなげてくれる・・・。
私自身が、歌の偉大さを改めて実感した。
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メンバーの皆さんにもお話を聞いた。
茨城県の鉾田市、仙台、郡山、横浜などなど、メンバーはそれぞれ散り散りに避難生活を送っている。
歌は、自分の中でどんな存在か?
この問いには、迷いなく、それぞれが答えてくれた。
「今の私のココロの支え」
「自分を成長させてくれる存在」
「生きがい」
「楽しい気持ちにさせてくれる存在」・・・・etc。
歌がどんな存在なのか、それぞれがこの震災をきっかけに、意識したのかもしれない。
震災後も唄い続けることによって、彼女たちは全国に活動の場を広げている。
彼女たちの元気な姿や歌声が、多くの人々のココロを打ち、
一方彼女たちは、全国の方々が支援してくれることへの感謝の気持ちを、
歌を唄うことを通じて表現し、その恩返しをしているのだ。
週一度の再会でも、彼女たちは、決して弱音を吐くことなく、
自然に周りの人たちを気遣い、強く、明るく、元気に生きようとしている気がする。
鶴岡八幡宮の吉田茂穂宮司にもお話を伺った。
宮司もまた「被災した彼女たちによる、明るくて清らかな歌声には、涙が出る」と話された。
昨年、樹齢1000年を超えるとされる、鶴岡八幡宮のご神木である大銀杏が倒れた。
しかし、今銀杏の根元からは新芽が生長し、東日本大震災の復興のシンボルとなっている。
吉田宮司に改めてそのお話をお伺いすると、
「大銀杏が倒れた際に、全国各地から沢山の激励の言葉をもらった。
その恩返しを可能な限りしていきたい」と。
鶴岡八幡宮では、震災後に様々な支援活動を行っているが、宮司はこんなお話もしてくださった。
「我々にできることは神に祈ること。真実の祈りは、宗教とか宗派とかを超える」。
また「過去にも東北は災害が多く起こってきたが、その都度立ち直ってきた場所。
日本全体の問題として一緒に乗り越えたいという思いを、この地に来てさらに感じた」
ともおっしゃっていた。
思いやり、人への祈りや願いは、ぐるぐると我々ひとりひとりの周りを回り、そして広がっていく。
決して目には見えないけれど、宮司からはあたたかくて大きな力や気の流れのようなものを感じた。
取材を終えた帰りに、
南相馬の市民の皆さんにとっての自慢のスポットだったという、海岸沿いまで車を飛ばしてみた。
旅をしたのは10月30日。
車窓からは、色づいた木々が広がり、秋を感じさせた。
道路の左右に広がる荒れた野原も、本来ならば、黄金色の稲穂が美しく彩る筈であろう。
海外沿いには、はっきりと津波の爪痕が残っていた。
激しい波が打ち寄せ、崩壊した海岸沿いの道路には、
サーファーの絵が描かれたタイルがむなしく残っている。
世界中のサーファーが集うこの海は、さぞ賑やかで明るい雰囲気のスポットだったのだろう。
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今回の取材中、私の感情は、まるでジェットコースターのように常に揺れ動いていた。
街の人々の優しさや、子供たちの純粋な人柄、まっすぐな歌声に触れるたびに、
私の心の一番敏感な部分が縦に横にと震えていた。
いまだに決して安心して暮らすことが出来ない人がいること。
また、笑顔とひたむきさを持ち続けて、歌を唄い、明るく生きる子供たちがいること。
多くの忘れてはいけない事柄にたくさん出会った取材の旅となった。
またChageさんのコトバにあった、
「音楽は、人を強く、優しく、笑顔にもしてくれ、また繋いでもくれるんだ」というとおり、
私も歌の力を信じようと思う。
アナタがもし今回の放送を通じて何かを感じてくれたとしたら、
是非その感情を、アナタのそばにいる大切な人と共有してくれたら、嬉しいです。
それが、復興への道に繋がる大きな力になるように感じるから。
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