震災から1年~被災地、再生への一歩~|旅人:井門宗之

2012-03-09

 

2011年3月11日の事は今でも忘れない。
いや、思い出そうとすればいつでも鮮明に心の引き出しから出す事が出来る。
恐らくそれは、あの日を経験した誰もがそうだろう。
しかしそれも、それぞれの日常を取り戻し始めると、
なかなかその引き出しは開かなくなるのではないだろうか。
あの日から1年。何が変わり、何が変わらないのだろう。
震災以降、被災地の取材を続けてきた「YAJIKITA ON THE ROAD」。
今回はあれから1年が経った被災地を改めて旅してみようと、今回の企画を考えた。
いや、今回のYAJIKITAは特に変化球は無いのです。
真っ直ぐ震災から1年の被災地を取材しようと。
そしてそれを聴いたリスナーさんに、
この55分はあの震災をそれぞれ振り返ってもらおうと、そう考えたのです。

 

振り返れば報道番組ではないYAJIKITAが初めて被災地を訪れたのは、
震災から2カ月が過ぎた2011年5月の事でした。
震災直後に被災地を訪れていた氏家さん(今はある局の部長さんよ)と共に、
塩竃・松島・石巻・七ヶ浜などを回ったわけです。
あの時に飛び込んできた光景と、自分の中に生まれた気持ちは忘れられない。
当時の旅日記の最後に自分はこんな言葉を書いています。

 

 

『笑顔を取り戻すには、人の笑顔が必要だ。 
人の笑顔が増えるには、被災地に住む人だけでは足りない。(中略)
あなたの笑顔はきっと、被災地の皆さんの笑顔を取り戻す為の、大切な支援になるのだろう。 
出来る範囲で構わない、続けていく事が何よりも大切なのだ。 』

 

 

あの時から勿論、進んでいるものとそうでは無いものがあるだろうけど、
YAJIKITAで回る事で一人でも笑顔の人が増えたら、と。
今回の旅、作家のミラクル氏も何やら企んでいるらしく、 


新幹線の中で「今回は俺達汗を流すでげすよ!へへへ。」と息巻いている。 


まさにミラクルに抜かり無し!のようなのです(笑)
一体何が待ち受けているのやら…。

 

 

さて我々が取材に訪れたのは2月下旬で、東北はまだまだ寒さも厳しい季節。
そう言えば震災の日も雪が降っていたなぁ、と思い出してしまう。
今回の旅のスタート地点でもある一関駅のホームに降り立つと、寒さに心もピリリとなる。
町にはそれほど雪も多くなかったのだが、流石は東北。
夜中から降り出した雪は、一晩で世界を真っ白に変えた。
この雪はこの季節に岩手でも珍しかったらしく、
駅まで載せてもらったタクシーの運転手さんからも「運転気を付けてね!」と激励を受けた。
こうして我々は雪道運転にドキドキしながら、一関から気仙沼を目指した。

 




東日本大震災の津波で内陸に流された漁船「 第18共徳丸」。
この漁船をモニュメントにして、周辺地域を復興記念公園にすることを検討している。

 

 

 

一関から気仙沼まで車で向かうと、少しずつ風景が変わっていく。
少しずつ雪も勢いを増し、気仙沼港に着く頃には本降りになっていた。
一面に積った雪で、津波被害の爪痕は覆い隠されている。
しかし実際にこの辺りを歩いてみると、土台だけになった建物や、船の姿。
そう、ここには津波で揚げられた船が、今もそのままに残っているのだ。
(この船も残すのか否かで、随分と地元でも意見が分かれているようだ。)

 

今でも港の近くは、見渡す限り建物が流されたまま。土台のみの姿となっている。
一関から山間部を通って来て、最初は分からなかったのだが、
気仙沼に近付くにつれ瓦礫運搬のトラックの数も増え、
町に入っていくと建物の跡をさら地にする重機の姿が目立った。
気仙沼もまだ復興の途上である事は間違いないのだ。

 

今回の旅で、実は気仙沼でどうしても会いたかった人がいた。
気仙沼を拠点に赤ちゃんとお母さんを支援する団体「ピースジャム」をまとめている代表、
佐藤賢さんだ(しかも同い年なのです)
同い年だし、パパだって言うし、子供を抱えるお母さんの支援をしている団体だって言うし、
もう相当気になってた。何とかお会い出来る機会を作って貰い、待望の御対面だったのだが…。

 

…あれあれ、想像していたイメージと違うぞ(良い意味で)。
なんでしょうか、相当お洒落な雰囲気が漂っているぞ(全身から)。
しかもこれは想像通りで、物凄く芯が通っているぞ…。 

 




「ピースジャム」代表・佐藤賢さん

 

 

佐藤さんは気仙沼出身で、実は被災前はこの街でBARを構えていたと言う。
お店の画像をiPadで見せて貰ったのだが、これが何とも格好良いのですよ。

 

 

佐藤「最高に格好良いBARだったんですよ(笑)

気仙沼でも凄い酒が飲めるんだ!って示したくて、
日本で数本しかないスコッチとか入れて。
あー、この棚だけでも百万近いです。全部流されましたけど…(笑)」

 

井門「どんなBARだったんですか?」

 

佐藤「ブルースを中心に流していて、ギターも置いといたんでお客さんも弾いたり。
お酒も良いのを揃えていたので、銀座の客をこの店でも共有出来てたんですよ。」

 

井門「震災の時にお店は…?」

 

佐藤「9日の日にも大きな地震があったじゃないですか?
あの日の夜に店のお客さんと“デカイ津波が来たらどうする?”なんて話してたんです。
そしたら11日のあの津波でしょ?嘘でしょ!って思いながら、僕は高台に避難しました。
だけど心のどこかで“店は残ってるんじゃないか”って思ったんですよね。
それで波が引いた後に店の場所に行ったんですけど、
残ってるどころか丸ごと流されてました(笑)全部かよ!って思いましたけど、
逆にちょっとでも残っていた方がもっともっと(その時は)悲しかったんじゃないかな。」

 

井門「何かお店の物は残っていたりしたんですか?」

 

佐藤「それがね、トイレが半分だけ残っていたんですよ。
“えっ!こんな形で残る!?”ってぐらい半分だけ。
しかもそのトイレの中に店に置いてあったブルースのCDが1枚だけ挟まっていて…。
何か音楽が“ここはお前の店だぞ”って言ってくれた気がしたんですよね。」

 

 

震災当時の様子を笑顔を交えながら話してくれる佐藤さん。
でも本当に本当に大好きなお店だったんだろうなぁ。その熱が伝わってくる。
不思議な事に、初対面の佐藤さんと時間が経つのも忘れ、ついつい話し込んでしまった。
きっと佐藤さんの気仙沼への想いや、これからの想いがたっぷり詰まっていたから。
そもそも何故に佐藤さんは【ピースジャム】を立ち上げたんだろう?

 

 

佐藤「高台に避難した後、うちの子のミルクが無いなって思ったんです。
これからの事を考えてお店に買いに行ったんですけど、その時はもう売り切れてました。
幸い車があったんで、隣町まで行ってみると、そこには山の様にミルクがある(笑)
急いで買いこんで、子供のいるお母さんに配ろう!って思ったんですよ。」

 

井門「でもどこに赤ちゃんがいるかって、すぐ分かりましたか?」

 

佐藤「ええ、分かりませんでした(笑)だからもう一軒一軒回ったんです。
“コンコンコン、赤ちゃんいますか?”って感じで。
でもなかなかいないんですよね、当たり前なんですけど。
そんな中で見つけた人にミルクの缶を渡していきました。避難所でもです。」

 

井門「最初は一人だったわけですよね?」

 

佐藤「そうなんですけど、きっと僕がこうしてミルクを配っているのを見た人の中で、
誰かが賛同してくれるんじゃないかなって思ったんですよね。
そしたら案の定、一人一人仲間が増えていって。ピースジャムの形になりました。」

 

 

気仙沼は津波の被害が甚大だった土地。
被災された方の数も尋常ではない。
当然その中には小さなお子さんを抱えたお母さん達の姿もあった。
ところがそんなお母さん達も、避難所に行ったは良いものの、
慣れぬ環境と不安で子供もなかなか落ち着かない。
もちろん衛生面の不安も沢山あった。
そんなお母さん達がどうしたのか?と言うと、
2階部分が残った自宅に戻ったのだと言う。当然電気もガスも水道も通っていない。
地震で建物自体も危険な状態にもなっている。
佐藤さんはそんなお母さんを探し、一人一人に声をかけていったと言う。

 

“危ないよ”“大丈夫だから、取り敢えず避難所に行こう”。

 

佐藤さんの言葉を聞いて避難所に戻ったお母さんも多かった。
そしてそんなお母さんと赤ちゃんの支援を、震災以降、佐藤さん達は続けているのだ。

 

仲間は、自然と集まった。

 

【ピースジャム】という名前には音楽を愛する佐藤さんならではの、
「ジャムセッション」という言葉への想いも詰まっている。
「ピース」の為に動いていれば、周りも自然と参加していく。
そう、まるで音楽のセッションみたいに。
この活動の輪も、そうなれば良いと願って、名付けられた。

 

 

佐藤「今はお母さん達の自立支援の方に活動はスライドしています。
その一環で本当にジャムを作っちゃったんですよ!(笑)」 

 



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キャロット・オニオン・トマトの三種類のジャムは、
有名なマクロビオティックの先生がレシピを教えてくれ完成した絶品のジャム。
僕らもクラッカーにこのジャムをつけて戴いたのだが、 


これが本当に旨い!いや、正直ビックリするぐらい美味しかった。
このジャム作りは、気仙沼に暮らす赤ちゃんを抱えたお母さんの為の自立支援活動の一環。
いずれ佐藤さんは気仙沼にお母さん達が安心して働ける場所を作りたいそうだ。

 

 

佐藤「託児所…ってんじゃないですけど、子供が遊べるスペースを作って。
誰かのお母さんやスタッフがそれぞれの子供の面倒を、お母さんの目の届く場所でみる。
お母さんは安心してジャム作ったり、働けたり出来るじゃないですか。
安心出来るそういう場所を、気仙沼に作りたいんですよ。」

 

井門「佐藤さん御自身は、もうBARはやらないんですか?」

 

佐藤「えっ?僕の事ですか?(笑)
う~ん、BARね…。流されたBARが、本当に最高に格好良いBARだったんですよ(笑)
でも…またやりたいですね。いつか!」

 

 

僕は佐藤さんの事が一気に好きになってしまった(笑)
いつか佐藤さんの店が出来た時に、そこで僕は酒を飲みたいと思っているのです。
カウンター越しにする色んな話。音楽と女の子と、未来の話。
佐藤さんが気仙沼にいる、それだけで気仙沼に来たくなる。
この旅日記を読んで何か「ピースジャム」のお手伝いをしたいと思った方。
http://peace-jam.jp を是非覗いて欲しいです。
中には【いま必要なベビー用品】が記載されているページがあったり、
ジャムを買うことが出来たり、きっとあなたが出来る支援の方法が書いてあります。
「大至急必要な物」の中に「被災したママへの励ましの手紙」もありました。

 

 

佐藤「いまお願いしたい事…。
う~ん、特に何をしてくれってのも無いんです。
何をして欲しいってのも、人によっては負担に思われてしまう。
だから単純に、“関心を持ってください”と。これだけです。
関心さえ持ってもらえたら、その先に出来る支援を見つけられるかもしれない。
報道も少なくなっている中で、まずは関心を持ってもらわないと。
僕ら被災した側は、いつまで経っても震災は記憶から消えません。
だけどそうじゃない地域の方はどうでしょうか?
記憶が何年か経つうちに、被害の数だけがフォーカスされていき、
いつの間にか記憶が記録になってしまう。僕はそれが怖いんです。
いつまでも記憶に留めておく為に、全国の皆さんに関心を持ってもらいたいんです。」

 

井門「関心の先にはきっと支援がありますからね。」

 

佐藤「そうですね。
あの震災の被害を受けた人間は、あの日から時間が止まっているんです。
まだまだ前に進めない人も多い。
そういう人が被災地には沢山いること、関心を持って欲しいんです。
そして被災地を実際に見る機会があれば、来て欲しいです。」 

 



 

 

 

佐藤さんの言葉には、震災被害に遭った方々の声が集約されている様な気がした。

佐藤さんと別れた我々が次に向かったのは、 


気仙沼復興商店街 南町紫市場】。 

 



 

 

 

気仙沼には震災前に商店街がいくつもあったそうだが、津波に飲まれてしまった。
ただやはり地元を元気にする為に商店街の活気は必要不可欠!
商店街の方々がそれぞれ立ち上がり、
気仙沼復興商店街として昨年12月24日に営業を始めたのだ。
お話しを伺ったのは副理事の坂本正人さん。 

 



 

 

 

我々がお話しを伺った場所は商店街の一角にある「みなみまち cadocco」。
ここは元々薬局があった場所なのだが、
他の場所と同様に津波被害を受け、町の新たな共同スペースとなった場所である。
取材を行った日も気仙沼で活動する子供達の劇団が練習に来ていた。

 

 


 

 

 

復興商店街の立ち上がりは、そもそも青空市場からだったと坂本さんは仰る。

 

 

坂本「気仙沼は震災以降、避難所から出る事すら出来なかったんです。
それでも1ヵ月後には何とか道が出来て、町に戻る事が出来た。
でもその頃にはもう既に隣町に市場が出来ていてね。
我々も何とかして、ここで商売を戻せないか?と考えて、
市役所の隣の空き地を借りて。最初は10店舗くらいかな、青空市を始めたんです。」

 

 

その青空市が原型となり、雨を凌ぐ為に建物を建てる計画が生まれ、
紆余曲折がありようやく昨年のクリスマスイブに復興商店街が営業を始めたのだ。

 

 

坂本「最初、お客さんも懐かしがってくれてね(笑)
この辺りは昔ながらの商売をしているお店が多いだけに、
“そうそう、この店の味が食べたかったんだ”と言ってくれる馴染みの客も多かったんです。」

 

井門「どれぐらいのお店が戻ってきたんですか?」

 

坂本「それでも3分の1くらいかな…。」

 

 

誰もが想像出来なかったあの大津波。
町全体が飲み込まれた映像を、我々も何度も目にしてきた。
ただ、それを目にするのと体験するのとでは、
生まれる感情が全く違ってくるだろう。
道は瓦礫で埋まり、店は流され、
しかしそれでも3分の1のお店は再びここに戻ってきたのだ。
我々は坂本さんに「気仙沼復興商店街」を案内して戴いた。

 

 

 





 

プレハブ2階建の復興商店街には様々な店舗が入っている。
床屋さん、喫茶店、居酒屋、bar、魚屋さん…etc.
それぞれが古くから気仙沼で営業していて、そして津波の被害を受けたお店。
店を津波に流されても、再びこの町で商売がやりたい、その気持ちでこの場所に戻ってきた。
震災前よりは少なくなったのは事実だが、それでも52店舗が軒を連ね威勢の良い声が飛ぶ。
取材当日は雪も降っていたのだが、
商店街の路地は子供達の格好の遊び場となり、所狭しと駆け回っていた。
生活の匂いが少しずつではあるが、戻ってきているのかもしれない。

 

 

坂本「気仙沼はまだまだ観光の受け入れは厳しいですが、
復興商店街はこうして元気に営業を続けています!
ぜひ皆さんも足を運んでみてください!」

 

 

ちなみに坂本さんは「コロッケ屋」さんを営んでいて、
ヤジキタスタッフもコロッケパンを食べたのだが、これがまた絶品!
パンもフワフワで、そこに挟まるコロッケは適度なしっとり感がたまらない。
ソースのちょっと甘酸っぱさがコロッケの油をまろやかにし、
口の中がちょっと濃い感じになってきたぞ、と思った頃にパンがうまくまとめてくる!
しかも1個のサイズが大きいので、男の人でも大満足!
我々が訪れた日も大盛況で、コロッケパンも随分と数が少なくなっていたようだ。

 

 

そしてそして、コロッケ屋さんの真向かいにあるのが、「あさひ鮨」さん。
地元の魚をふんだんに使ったお寿司が絶品で、
気仙沼ならではの「フカヒレ寿司」も食べさせてくれる。
ヤジキタ一行はここで昼食をとったのだが、ここの復興寿司がまた…。 

 





 

皆さん信じられますか!?この内容で、1000円ですよ…。
勿論限定のセットになるので、行かれる方はお早めに!
気仙沼のお寿司を当たり前の様に、笑顔で食べに来られる日が一日も早く訪れますように。

 

 

吉武「お腹も一杯になった事だし、
震災後に被災地の皆さんを元気にした“ラジオ体操”について取材に行こうよ!」

 

井門「いきなり出てきたな、ミラクル氏!
ラジオ体操で元気に??それはかなり気になる。
まぁ、俺達もラジオだしね(笑)行ってみましょうか!!」 

 



 

 

 

気仙沼から我々が向かったのは、石巻市の駅前にある「ラジオ石巻」。
震災後は災害FMとしてもその機能を果たし、
地域の方々の為に、声を枯らし続けたFM局である。
そしてここでお話しを伺ったのが営業部長兼技術部長:今野雅彦さん。

 

 

今野「避難所生活を続けられている方が、少しでも身体を動かせれば…。
そんな想いがあって“おらほのラジオ体操”を広めていったんです。」

 

井門「“おらほ”というのはどういう意味なんですか?」

 

今野「俺のとか、俺達のって意味です。
自分達の言葉を使ってやるラジオ体操だから、おらほのラジオ体操なんです(笑)」

 

 

『おらほのラジオ体操』は通常のラジオ体操の掛け声を東北弁にしている、というもの。
掛け声を担当しているのは映像にも出ている、仙台のラジオパーソナリティー:本間秋彦さん。
東北の言葉がなんとも温かく、動画投稿サイトにUPしたところ、
11万アクセスを越え(2012年3月現在)、
多くの方々から温かいコメントが寄せられている。

 

 

今野「動画に出ている方々も全員が石巻の方です。
しかもちょっと手伝ってって言って撮影をお願いしたので、みんな普段着で(笑)」

 

井門「だから作業着の方もいらっしゃったんですね(笑)」

 

今野「そうなんです。でもそれが逆に石巻の日常を映していて良かったと思っています。」

 

 

ボランティア活動の事前体操としても、取り入れられている「おらほのラジオ体操」。
ボランティアの方に東北の言葉を覚えてもらう為にも活用しているのだそうだ。
*これに関しては次の七ヶ浜の取材で我々も驚く事になるのだが…それはまた次回のお話し。
この「おらほのラジオ体操」はラジオ石巻にお問い合わせ戴ければ、購入する事が出来ます。
(勿論、売上は復興支援に充てられる)
しかもCDジャケットにはPVに登場した、石巻市の市民の皆さんが。
今野さんがジャケットになっているver.もあったので、井門はそれを購入(笑)
YAJIKITAスタッフも1人1枚購入して帰ってまいりました。

 

 

井門「せっかくなんで僕らも“おらほのラジオ体操”やってって良いですか?」

 

今野「ぜひぜひ、やっていってください!…って、ここでですか!?」

 

YAJIKITA全員「勿論!!

 

 

こうしてラジオ石巻の事務所で、
おっさん3人(30代・40代・50代)が“おらほのラジオ体操”を体験しました!
その模様はしっかりと動画で確認してみてくださいね。
*カメラマンの慶吾曰く「動きの硬さがそれぞれの年代で違って笑えた」そうです…。

 

 

 


動きを見れば体の硬さは“一目瞭然!”
左から30代、40代、50代…。

 

 



右奥は…今年業界歴30周年の「仏の横山氏(50代)」

 

 

 

ラジオ石巻の今野さん、
僕らが帰る時も外まで見送ってくださって。何だか温かかったなぁ。
今野さんのインタビューを終えた時はすっかり夜になっていたんですが、
駅前には居酒屋のネオンが灯り始めていました。
少しずつ、本当に少しずつですが、町は再生の一歩を歩き出しているんです。

 

ピースジャムの佐藤さんが仰っていた言葉が、
東京に帰ってきてこの旅日記を書いている今も心に響いています。

 

「関心を持ってください。」

 

被災地はまだまだ復興の途中。
しかもまだ0をプラスに変えていく作業ではない。
あの震災で失ったマイナスの状態を、何とかプラスにしていく途中なのだ。
やる事は山積みで、そこには人の心を元気にするという事も含まれている。
しかし佐藤さんを始め、地元の方々は新たに人が戻って来られるように、笑顔が増える様に、
様々な形のプラットフォーム作りに必死になっている。
我々には、そしてこの旅日記を読んでくださっている皆さんには、何が出来るだろうか。
人を笑顔にする為には、やはり人の笑顔が必要なんだと思う。
そして笑顔を増やす為には、元気なあなたが、被災地の方に会いに行く事が一番なのだ。

 

初めて震災の取材をしてからおよそ1年。
今回の旅日記も最後にこの言葉で締めようと思います。

 

あなたの笑顔はきっと、被災地の皆さんの笑顔を取り戻す為の、大切な支援になるのだろう。 
出来る範囲で構わない、続けていく事が何よりも大切なのだ。