知多半島 常滑 やきもの散歩[前編]|旅人:神田亜紀
2012-03-24
ども~♪ 旅人の神田亜紀です!!
前回「リニア・鉄道館」で鉄道の歴史を紐解きましたが、
せっかく名古屋にいるので、もうひとつ忘れてはならない
1000年の歴史がある“常滑焼”の歴史を紐解く旅、題して!!!
「知多半島 常滑 やきもの散歩」いってきま~す♪
愛知県の知多半島にある常滑市。
伊勢湾の東側にある知多半島のちょうど真ん中辺り、
名古屋からだと30キロ位の所にあります。
旅は、中部国際空港“セントレア”が対岸に望める港からスタート♪
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常滑は、去年の大河ドラマの主役 お江が始めて嫁いだお城「大野城」があったり、
世界最古といわれている海水浴場があったり、町に招き猫の置き物がたくさんあったり…。
でも、なんといっても日本六古窯のひとつ「常滑焼」が有名!!
1000年の歴史をもつ常滑焼の歴史を、より深~く知るため、
まずやって来たのが「常滑市民俗資料館」。
館長の中野晴久さんに、館内を案内して頂きました。
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資料館のエントランスには土管やカメのオブジェがたくさん! |
こちらでは、常滑焼職人の仕事についての展示や、
カメ、左官用陶器、建築陶器など様々な常滑焼が展示されています。
入ってすぐに平安時代から江戸時代までのカメが、年代別にズラリ!
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まずは、なぜ常滑にこれほど焼き物が栄えたのか?! …やはり自然条件が整っていたのです。
常滑は起伏の多い丘陵地形が登窯などの窯を築くのに適していました。
土が可塑性に富み、比較的低い温度で焼き締まる特性があるため大型製品の生産に適し、
カメや土管などの製品を中心とする常滑の窯業を支えさせることに。
さらに、伊勢湾に面していたため、
運搬や交易の面からも常滑製品は全国各地へ拡がっていったのです。
建築陶器などが多い常滑焼。
焼き物は“せともの”に代表されるような繊細なイメージがありますが、
常滑焼はでっかくしっかり男臭い感じ!!
年月を積み重ね、味わい深くなったカメが物語ります。
室町時代の頃から大きなものを作り始め、鎌倉時代には大量生産が始まったのだそう。
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民俗資料館のなかでも一際大きく目に入ってきたのが、私の背よりも大きいカメ!!!!
生活のためのカメだけだと思っていたら、なんと!!
太平洋戦争の時にロケット戦闘機の燃料を入れたカメだそうで、
2000リットルも入るんだそう…。
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こんな面白いエピソードも。
明治5年、横浜に新しい居留地を作る時に常滑焼の土管が使われることになったのですが、
最初に持って行った土管はつなぎ目が緩くてNGに。何度か改良し、新しいものを納品しました。
行方不明だった最初に作った土管が、なんと最近、汐留の再開発で発掘され、
常滑に帰ってきたのです!!!!
その最初の土管から改良していく過程の土管が順番に展示されています。
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技術向上の裏には失敗も数知れぬほど。
失敗した常滑焼は、家の基礎やブロック塀代わりなどに使われ、街の景観を作っているそう!!
館長の中野さんに、常滑焼にゆかりあるお勧めの場所は?! と伺うと…、
土管が埋まっている坂や焼酎瓶の要壁がある「やきもの散歩道」を歩いて欲しい!!と。
了解です!!
早速Let's go~!!!!
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「やきもの散歩道」にやってきました。「常滑陶磁器会館」の前からスタートです♪
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常滑市役所 商工観光課の澁木桂子さんと一緒にお散歩♪
昔、荷車を引いていた時代の道が、ずっと続いているお散歩コース。
私たちが選んだのは約1.6キロ、1時間位歩くコース。
「やきもの散歩道」は、1972年頃自然発生的に生まれたもの。
焼き物のまちらしい雰囲気が残っており、1900年代のはじめから中頃にかけて、
土管、鉢、カメなどの製品を中心に窯業の中心地として栄えた所。
工場や作家の工房もありますが、最盛期に比べればその数は少なくなっています。
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塀や石垣の代わりに土管などが使われている! |
道を歩いていると、味わい深いギャラリーや工房などがいっぱい♪
車も入れないどころか、人がすれ違うのがやっとな小道をお散歩♪
これからの季節、時間をかけてゆっくり歩くといい運動にもなるし気持ちよさそ~う♪
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……
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その正体はこちら!!
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電纜管(でんらんかん)といって、地中に電線ケーブルを通す為の土管。
常滑焼の電纜管は、中部国際空港でも使われています。
歩いているとレンガ作りの大きな煙突が目に飛び込んできます!!
景観を残す為に、昔の窯の煙突がたくさん残っています。
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常滑の代表的な風景の一つであるレンガの煙突は、
高いものでは25m、短いものでは13mほど。
煙突の大きさは、窯の大きさと関連があり、燃焼効率を考えて築かれることになります。
常滑のシンボル的風景ともいえるレンガ煙突は、最盛期には300~400本もあったそう!!
1950年代ごろは、毎日煙突から真っ黒な煙を吹き上げ、
太陽の光が遮られるほどだったと言われています。
煙で雀が黒くなるほど。隣町に行った子どもが黒くない雀を見てびっくりしたそうですよ!!
煙突のある風景は、常滑の生産品から形づくられたもので、
土管、かめ、鉢など比較的大きな物を生産していたため、
窯の大きさからこの煙突が生まれたものです。とても珍しい風景ですよね…。
燃料は、石炭から重油へ、そしてガスへと変わっていきます。
ガス窯に切り替わると、古くて倒壊の危険性のあるレンガ煙突は次々と壊されていきました。
現在では、90本ほど残っていますが、完全な姿のものは50~60本程度だそうです。
煙突の風景にうっとりしながら歩いていると目に飛び込んできたのが、
真っ白な壁で真っ黒な瓦の「廻船問屋 瀧田家」。
江戸時代末期から明治にかけて海運業を営んでいた豪商の家の歴史に触れ、
しばしタイムトリップ♪
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「廻船問屋 瀧田家」を出たら目の前に凄い坂が!!
「でんでん坂」と言う、坂の滑り止めに焼き物を敷き詰めて歩きやすくした坂。
まるで小石を投げた時の波紋みたい。
子供も安心して歩いてました。
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更に歩くと、壁一面に土管が敷き詰められている坂を発見!!!!
その名も「土管坂」!!!!
左側に明治10年頃に焼かれた土管が、右側に昭和30年代に石炭窯で焼かれた焼酎瓶が、
足元には土管を焼く時に使われた、昭和35年頃の焼台が埋め込まれています。
思わず触れながら歩きたくなるこの坂は「日本名坂30選」に選ばれています。
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左側の壁は明治10年頃に焼かれた土管、 右側の壁は昭和30年代に石炭窯で焼かれた焼酎瓶になっている |
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更に歩くと不思議な建物を発見!!!!
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実はこれ、国の重要有形民俗文化財に指定されている「登窯」です。
明治20年に開設。
傾斜角17度の傾斜地を利用して1887年頃につくられたもので、
1974年頃まで使われていました。
窯の周りをグルリと回ってみたら後ろ側には「10本の煙突」が!
両端が高く中央が低いU字形で8室ある焼成室全体に火が均一に周る工夫がされています。
ただ構造的に熱効率が悪く窯焚きも重労働だったそうです。
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ここで焼かれていたものは、植木鉢、急須、火鉢、花器、酒器が主流。
現在では一部の陶芸家を除いて使う人がいなくなりました。
この大掛かりな窯を目の前にして、街ぐるみでみんなで協力しあって常滑焼を繁栄させ、
それぞれの生活を支えてきたんだなぁと改めて実感。
公園のジャングルジムも土管でできていたり、常滑焼は街の人たちと共に生きてきたのです。
そんな常滑焼きを更に深く知りたいと思い、ここで、常滑焼の陶芸体験に挑戦~!!!!
やってきたのは「渡辺章製陶所」。
創業7~80年。
今回ご指導頂いた、常滑焼伝統工芸士の認定を受けている、渡辺二三一さんは、三代目。
この道40年以上の職人で、“珠康三(しゅこうざん)”という陶号をおもちです。
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店内には表情豊かな師匠の作品がズラリ!!!!
酸化・還元などの焼成法で常滑焼の特徴が十分活かされた作品たち。
使えば使うほど渋みが出てわびさびの世界が味わえます。
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このひび割れた様な模様は「鰄(カイラギ)模様」といい、
渡辺さんが4年の歳月をかけて産みだしたオリジナル。
窯変からこの模様を出すのは大変難しく、
今でも窯から出すまではどのような模様が出るかわからないとのこと。
どの作品も少しずつ模様が違い、世界に1つの作品となるのです!!
ではいよいよ、常滑焼に挑戦~!!
ということで、3種類の作陶技法から選ぶことができるんです!!
①土を手で棒状にしたものをひねって創る“手びねり”
②板状にしたものから創る“たたらづくり”
③陶芸の定番“電動ロクロ”
初心者なので、一番簡単と言われた“たたらづくり”に挑戦!!!!
まず、粘土の固まりを、掌で叩きながら平らにしていきます。
中心から外に向かって叩いていくのですが、これが結構疲れる…。
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なんとか形にできてひと安心。土に触れてると、その土地の命に触れているよう。
常滑がグッと近くに感じれましたよ♪
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たたらづくりで作ったお皿が、意外と上手に出来ていい感じ♪
センスあるんじゃないの?! なんてすっかりテンション上がった勢いで、
今度は一番難しい“電動ロクロ”に挑戦~!!!!
…と、このつづきは、[後編]」 で♪♪♪
see you sooooon♪♪♪♪♪
旅人、神田亜紀でした。
≪オフショット≫
私が作ったお皿は、その後、10日から半月くらいかけて自然乾燥、
さらに渡辺さんの手で、素焼き、色付け、本焼きの工程を経て、
1カ月後、無事に我が家に届きました~♪
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