房総の小江戸、千葉県大多喜町で江戸の面影にふれる旅|旅人:井門宗之
2012-05-16
とにもかくにもYAJIKITAは歴史物が好きである。
歴史…それはもはや実在の語り部がいなくなった、想像のロマン。
YAJIKITAにだって少しくらいは浪漫を感じる心はある。
(このロマンを漢字の「浪漫」にすると、途端に雰囲気が変わるね。スナック「浪漫」みたいな。)
俺達は(おっ、急に口調が「俺」になった)、
だから時たま浪漫を求めに無性に歴史の旅に出たくなるのサ!
今回の旅は前回同様、千葉県房総半島。
房総半島だからといって、沿岸だけが全てぢゃない。
九十九里?木更津?ノンノン。
今回の旅の舞台は大多喜町(おおたきまち)であります。
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大多喜町は房総半島のほぼ中央に位置する、人口およそ1万人の城と渓谷の町。
実は千葉県の町村で最も広大な面積を有し、
森林が総面積の約70%を占める緑に包まれた町でもある。(町公式HP参照)
実際に駅に降り立ってみると、周りに山が多い事にも気付かされるのだ。
かつてこの町は一人の偉大な武将の城下町でもあった。
その武将とは、徳川四天王の一人本多忠勝。
彼にまつわる伝説は数知れず…、例えば1万の敵に向かって無傷で戻ったとか、
初陣以来57回の出陣で1度も傷を負わなかったとか。
これ、本当ならルフィ並です。
そうですね、敢えて名付けるなら「麦わらの本多」(怒られるわ)。
あ、でもそんなのどこにでもいるオッサンみたいだから、
「麦わらの忠勝」の方が良いのかな(そういう問題ではない)。
まぁ、何にせよ凄い武将だった事は間違いないわけです。
家康も彼を相当信用していて、この地に配置したのは理由があってだという。
何故ならここは安房の国、里見氏との国境。
敵との境に譜代の臣を置く事で、侵略という不安を取り除きたかったのだ。
豪傑で知られた忠勝は大多喜の町をしっかりと治めていった。
しかもただ治めるだけでは無く、城下町を経済的にも発展させたのだ。
今回の旅は「房総の小江戸」と呼ばれる大多喜町をゆっくり回る旅。
まずは旅の無事を祈願し、町の中心部にある夷隅神社でお参り。
この旅が、無事でありますように |
この夷隅神社の由来も相当古い。
だって鎮座の時代が不明となっているくらいだもの。
ただし、だからこそ町の人達にとても親しまれている神社でもあるのだ。
今でも行われる毎月5・10の日の朝市は、何と江戸時代から続くとか!?
本殿も立派だが、一の鳥居から続く参道の長いこと…。
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聞けば昔はお祭りの時に、この参道の両側にびっしりと屋台が並んだという。
老若男女関係なく、この神社は大多喜の人々にとって思い出の場所でもあるのだ。
*ちなみに夷隅神社、縁結びの神様でもあるみたいですよ。
さてこの大多喜町。
町の割とどこからでも、ある建物の姿を見る事が出来る。
それが…大多喜城!!(どーん)
とは言え現在見る事が出来るこの白亜の城は実は昭和50年に再建された物。
立派な天守閣も非常に趣のある雰囲気なのだが、
この天守閣の形もそもそも「本当は違ったかもしれない」のだ。
そして「城」と銘打ってはいるが、この建物自体は「博物館」なのであります!
YAJIKITA一行はレンタサイクルでぜぇぜぇ言いながら、
山の上にあるこの大多喜城を目指した!
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いやぁ、城かと思いますよね(笑)
でも城では無く、正式名称は「千葉県立中央博物館・大多喜分館」。
当然この中には大多喜の歴史を示す展示物が数多くあるのだ。
のっけから戸惑う我々を笑顔で迎えてくださったのは、
こちらの博物館の主任上席研究員:福原宣之さん。
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福原さんは一つ一つの展示を解説しながら、
本多家がどの様にこの町を治めていたのかを説明して下さった。
福原「江戸時代も何年か過ぎると、武力よりも知力…
要は統治する側の政治力が問われました。」
井門「本多さんはその辺りはいかがだったんですか?」
福原「優れていたと思いますよ。」
例えば町を通る道の幅。
交易の拠点として当時の大多喜は栄えたのだが、
これも多くの荷を乗せた車が通れるように道幅を広くしたからだという。
更に外的に備えるという意味で、
道路の角を直角にした。これで攻めてくる敵の勢いを殺す事が出来る。
城下町として商人も数多く暮らしていた大多喜町。
古地図で見てもその商家の名残は至る所にあった。
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福原さんの話を聞くに、やはりこの町は実際にぐるっと回った方が面白そうだ。
と、言うわけで我々は大多喜駅前に戻り、
さてさて今回のYAJIKITAは久々、ある乗り物に乗って移動する事を決めた!
その乗り物とは…人力車!!
(ってあんまり久々でも無かったっけ?そもそも乗った事あったっけ?)
駅前の観光案内所「観光本陣」で待ち合わせたのが粋な車夫:小駒一郎さん。
佇まいも日本男児!ってな感じなのだが、小駒さんの語り口も軽妙で良い。
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井門「大多喜町には車夫は何人くらいいらっしゃるんですか?」
小駒「あ~、俺一人だけですね!」
聞けば本職もありながら、人力車もやられているとか。
お客さんが重なった時や忙しい時もあるので、予約をしっかりして出かけましょ!
コバヤシ「それじゃ、僕とテツヤは自転車で行くから。」
テツヤ「良い画を撮りますから!」
こうしてスタッフは人力車2、自転車2に分かれる事となった。
人力車2は井門Pと仏の横山D。
何やら乙女な敷布をかけられて、いざ出発!!
仲が、およろしいことで |
人力車の速度も良い。
前回のローカル線の様なゆったり感に、車夫の小駒さんとの会話も楽しいのだ。
駅前を過ぎるとすぐにかつての大多喜城への入口を示す大手門。
こちらは当時の物では無いのだが、高さ8.5m、幅9.3m、奥行き6.1mという堂々とした門。
今回のコースはこの大手門をくぐり、本多忠勝の遺骨が眠る良玄寺に向い、
さらに旧商家の並びなどを巡ってまた駅前に戻ってくるコース。
普通にゆっくり回れば1時間くらいだろうか。
まず我々が目指したのは良玄寺。
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ここで本多忠勝の晩年をさらっとおさらいすると、
大多喜藩の初代藩主を務めた後は、桑名藩の初代藩主となり、
慶長15年・1610年、桑名城で病死。
遺骨は、三重県桑名市の浄土寺(じょうどじ)と、ここ大多喜の良玄寺に分骨された。
良玄寺の本殿の中には複製ではあるが、本多忠勝の肖像画は残されていたりする。
小駒「あの肖像画も聞いた話によると、何度も書き直させてるらしいですよ。」
井門「武骨な武者のイメージとは違って、
随分と見た目を気にした方なのかもしれませんね。」
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人力車に揺られながら、
ゆっくり町の風景が変わっていく様を眺めるのって良い。
改めて贅沢な気分を味わえるし、何よりこの町の人達の心が良い(小駒さんも含め)。
人力車を走らせていると、向こうから女の子が一人歩いてくる。
どうも小駒さんの知り合いらしい。
小駒「お~う!○○、部活帰りか?」
女の子「うんそうだよ!」
小駒「何やってるんだっけ?卓球だっけ?」
女の子「(笑)そう。」
小駒「どうだ?勝ってるか?」
女の子「まぁまぁ。」
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収録中ではあったのだが、
町の人達と気さくに会話をする小駒さん。
そして車に乗っている方も小駒さんに挨拶をしていく。
“町が誰も一人にさせない”感じを持っていて、何だか凄く良い。
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小駒「私も好きなんですが、この町には手作りで甲冑を作る工房があるんです。
しかもかなり凝っているんですよ!」
井門「ちょっと寄っていきましょう!」
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「手作り甲冑工房 博美洞」
君塚良信さんと奥様がやっている工房だ。
お店の奥に入ると、何とも本格的な甲冑が所狭しと並んでいるのだが…。
井門「これって何で出来てるんですか?」
君塚「はい、全て紙で出来ています!」
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こんなに立派なのだが、厚紙とボール紙を組み合わせて作っているとか…。
確かに工房内の製作過程の物は…紙だ(笑)
井門「折角ですから、着せて貰う事は出来ますか?」
君塚「勿論!!」
井門と言えばコスプレ。
コスプレと言えば井門。
もうこの図式はヤジキタの鉄板である。
数式で言えば因数分解並の基礎の基礎。まさにイロハのイなのだ。
という訳で君塚さん達に甲冑を着せてもらう井門P(初心者は一人では着られない)。
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君塚「おぉ、あなた意外に良い身体してますね!」
奥様「本当だ、胸囲がかなりあるわ。」
井門「は…はぁ…。(井門の胸囲100cm超)」
そんなこんなでムチムチの身体に着せられる見事な手作り甲冑。
カメラを撮っているテツヤも「良いっすねぇ。いや、良いっす。」と呟く(大きな声で言え!)。
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何故かこうした見事な甲冑を着ると、思わず何かを守りたくなる。
しかしこの着心地…。軽いっ!
大多喜町ではこの手作り甲冑の愛好家達がかなりいらっしゃるらしく、
博美洞さんにも勢揃いした画像や、
千葉県知事の森田知事が手作り甲冑を着こんでいる写真が飾られていた。
小駒「森田知事、こういうの好きだからねぇ。」
井門「好きそうですもんねぇ。」
小駒さんを含め大多喜町の甲冑愛好家達は、
実は日本全国で歴史物の祭があるとわざわざ事務局に電話をするという。
井門「何故ですか??」
小駒「えっ?甲冑を着込んで参加する為に決まってるでしょ!(笑)」
まるで手作り甲冑愛好家の道場破り(笑)
でもこうして楽しみ方を発展させているのだから、頭が下がる。
趣味の広げ方が上手な人って、ちょっと羨ましかったりするのです。
小駒「大多喜の歴史を知る為に良い場所がありますよ。」
井門「そこにも是非行ってみたいです!」
すっかり小駒さんのガイドに心地よくなっているYAJIKITA一行。
案内されたのは土蔵造りの建物の商い資料館。
そもそも土蔵造りの建物を改修して、
1階は商家の再現、2階は昔の歴史が偲ばれる商売の道具、生活の道具が展示されている。
こちらでお話しを伺ったのは金山はつ子さん。
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金山「大多喜は房総の商いの拠点でしたから、
この店の前の通りも昔は大きな商家が並んでいたんですよ。」
井門「それを偲ばせる物は…何か?」
金山「こちらに大きな写真にして展示してあるんですけど、
大正時代の大多喜の写真です。」
見ると瀬戸物を扱う店の軒先の写真なのだが、
大多喜の人口には見合わない程の焼き物が並んでいるのだ。
これは外から来た人達に向けた物を扱っているのが分かるし、
これだけの量を捌けるだけの人が当時の大多喜には集まったと言う事だろう。
金山「珍しい物で言うと、貨幣を測る秤。
江戸時代に使われたこれの各重さの分銅が残っているんですよ。」
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流石に商人の町だけあって、古い商売道具の展示が多い。
庶民用の貨幣入れである「早道」だったり、大きな算盤だったり。
商売がこれだけ元気だったから、この町は発展したのだろう。
金山さんは当時の展示物を眺めながら、
今の大多喜が寂しくなってしまった事をちょっと寂しそうに語っていた。
そんな中でも「いすみ鉄道」というフレーズが出て来たのだから、
地域の皆さんがあのローカル線に期待する所は大きいのではないだろうか?
この場所で暮らす方々も鳥塚社長と一緒にアイデアを出し合ったら、
きっと昔の様な賑わいを取り戻す事は出来そうなんだけどなぁ…。
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小駒さんの快適な運転(?)により、
大多喜の町並をゆっくりのんびり贅沢に眺める事が出来た今回の旅。
房総の小江戸には、数多くの歴史の面影が残っていた。
時代が変わってもあまり速度を早める事なく、
昔ながらの物を大切にしながらこの町は歩んできたのだと思う。
そしてその速度を作ったのは、
実は町の区画整理に尽力した本多忠勝その人だったのかもしれない。
本多忠勝が馬に乗って大多喜の町を闊歩したように、
同じ風景を今度は人力車に乗って眺めてみてはいかがだろう?
そしてその時は、まず手作り甲冑を着込んでみるのをおすすめします(笑)
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