宮城県気仙沼大島、復興海開きレポート|旅人:井門宗之

2012-08-02

 

震災から間もなく1年と5カ月が過ぎようとしている。

 

…って言う風に年月で区切る言い方が実は好きではない。
やむを得ず言う場合もあるが、出来るだけ使わないようにしている。
何故か。
僕はどうしてもこの年数で表す言葉には、
誰も言わないけどその後ろに(……)が付いている様な気がしてならないのだ。

 

震災から1年5カ月が過ぎました。(だからそろそろ大丈夫でしょう。)
震災から1年5カ月が過ぎました。(もうそんなに経つんだから大丈夫ですよね。)

 

みたいに。
正直震災関連の報道は徐々に減ってきている。
原発反対のデモの声が大きくなり、それよりも北の人達がどんな暮らしをしているのか、
見えにくくなってきたのも事実ではないだろうか。
取りに行かないと得られない情報になってしまっている様な印象も受ける。
僕らは数カ月前の会議で、
“夏休みに入るタイミングで、東北取材のOAをしよう”と決めていた。
大勢の方が休みに入る季節、
観光産業が少しずつ回復している東北に、より多くの人に足を運んでもらう為に。

 

実はこの夏休みのシーズンに合わせて、
今年宮城県で唯一海開きをする、あるビーチのニュースが報じられた。

 

気仙沼大島 小田の浜

 

今回のYAJIKITAは宮城県気仙沼大島、復興海開きレポートと題して、
7月21日に海開きが行われたこの海水浴場の海開きを取材した。

 

 

 





 

 

気仙沼は震災による火災と津波で甚大な被害を受けた町である。
前回僕が気仙沼を訪れたのはまだ雪深い2月。
今年の冬は雪が多く、気仙沼港もどこからが海でどこからが陸かわからないほど、
雪に一面が多い尽くされていた。
あれからおよそ5カ月。
今は太陽の光が海にキラキラと反射して眩しいほどの夏である。
港の周りの山々も色鉛筆の深緑だけ並べた様な色の濃さを見せていた。
風は多少強いが、それでもその風が運んでくる匂いは、夏のそれである。

 

 

 





 

 

フェリーには多くの車が乗り入れていた。
そこには大型トラックの姿も。
建設、瓦礫の撤去、資材運搬…etc.
まだまだここには、しなくてはならない事が山積みなのだ。
気仙沼のエースポートを出港して、およそ30分。
我々は東北地方最大の有人島「気仙沼大島」に着いた。
ちょうど取材日(7月21日)が海開きだったからだろうか、
港には笑顔をこぼす子供たちの姿もちらほら。
そうなのだ。およそ2年ぶりの海開きなのだ。
しかも、宮城県では唯一の。 


その想いを気仙沼大島観光協会事務局長:桜井猛さんに伺った。

 

 

 





 


桜井猛さんにお話しを伺いました。

 

 

 

 

桜井「ようやく…という感じです。」

 

井門「海開きまではどんな御苦労がありましたか?」

 

桜井「ビーチの広さも津波で持って行かれたんで、通常の3分の1。
期間も今年は“何よりも【海開き】をしなくては”との想いで、例年の半分の期間です。」

 

井門「沢山のボランティアの方がこれまで集まったかと思いますが…。」

 

桜井「本当に感謝しています。
瓦礫がなかなか片付かない中で、少しずつボランティアの方が綺麗にしてくださって。
海開きにあたり、水質調査も万全ですので、安心して入っていただけます。」

 

井門「浜を一望できる場所があるとお伺いしたのですが。」

 

桜井「亀山ですね!良ければご案内しましょう!」

 

 

 



 

 

亀山は島の北部に聳える海抜235mの山。
我々は車で山頂まで向かい、そこから少しだけ山の中を歩いていった。
山の上にある展望デッキから眺めると、まさに島を一望出来るのだ。

 

 

 



 

 

桜井「あそこに小島が見えますか?」

 

井門「あぁ、小さいとは言えしっかりとした島が見えます。」

 

桜井「津波はあの小島を乗り越えて島に到達したんです。」

 

 

一同は絶句した。
しかし震災では大島にも、20m近い津波が押し寄せたのだ。
気仙沼は震災当日、気仙沼コンビナートが火災で焼け、
その炎が倒壊した建物等に引火した。
海の上を燃える建物が漂流する様子は、皆さんも記憶しているだろう。
そしてこの“燃える波”は、海流に乗ってここ大島まで流れてきたのだ。
押し寄せる炎は山火事を誘発し、亀山の展望デッキ付近まで上がってきたという。

 

 

桜井「そこにリフトがあるんですが、変色しているでしょう?
あれは錆びているんじゃなく、燃えたんです。火はここまで来たんですよ。」

 

井門「山の火はどれぐらい燃え続けたんですか?」

 

桜井「大体3日ぐらいだったと聞いてます。」

 

 

今この展望デッキから眺める景色は穏やかそのものである。
山の緑は美しく、ここから見える田中浜や小田の浜の砂浜も美しい。
耳を澄ませば、野鳥の鳴き声なども聞こえてくる。
しかしそれは、震災からの年月と様々な方の努力が築き上げてきたものなのだ。

 

 

 





 

 

震災からの復旧、そして復興。
その歩みを次の世代へ伝える為に、観光協会も様々な取り組みを行っている。

 

 

桜井「東京やアメリカなどから学生を受け入れて、
震災の話や大島の自然、震災からの復旧などの話を伝える取り組みを行っています。」

 

井門「子供達は、どんな感想を?」

 

桜井「やはり最初はショックを受けていきますが、
それでも島の状況を教育に役立ててほしいと願っています。」

 

 

この語り部は桜井さん自らが担当する事もあるらしい。
優しい眼差しで語る桜井さんの言葉は、きっと多くの子供達の心に届くだろう。
そうであって欲しいと、強く願う。

 

 

 



 

 

続いてやってきたのは田中浜。
海開きが行われる小田の浜のすぐ近くにあるのだが、
こちらの砂浜は、海流の関係で遊泳禁止。
その代わりここでは地引網体験などが行われているという。

 

 

 





 

 

 

桜井「実は今日、海開きが行われる時間に地引網体験も行われるんですよ!」

 

井門「地元の子供たちですか?」

 

桜井「いえ、岩手からいらっしゃるんです。」

 

 

実際に獲った魚を焼いたり食べる事も出来るという。
浜の中央にはこの場所を象徴するかの様に、大漁旗がたなびいていた。

 

 

 



 

 

田中浜を後にした我々はいよいよ、海開きが行われる小田の浜へ。
浜に着くと沢山のスタッフが慌ただしく動いている。
どの人も桜井さんに次々と声をかけていく。
そう、今日は観光協会にとっても大切な、本当に大切な日なのだ。
我々は一旦桜井さんとお別れして、浜を歩いてみる事にした。

 

 

 





 



 

 

この「小田の浜」は環境省が認定する「快水浴場百選」の中でも「特選」に選ばれるほど。
海開きを前にして、全国各地から集まったマリンアクティビティのボランティアの皆さん、
そして子供たちが、ビーチで結団式を行っていた。

 

 

 





 

 

結団式の様子をうかがっていると、皆さんが全国各地から集まっているのがよくわかる。
神奈川、山形、兵庫…共通しているのは、集まった皆さんの海への愛情だ。
実際にそれぞれの地元で海にまつわるお仕事をしている方も多い。
今日の海開きにあたり、マリンアクティビティも様々なものが準備された。
ビーチヨガ、ビーチフラッグ、シーカヤック、シュノーケリング、
更にはビーチイングリッシュなんてものまで。
震災への想いからか、最初は皆さんの表情も少し厳しいものだったが、
これから行われる海開きに対して説明と挨拶が行われていくと、
徐々に期待で表情が穏やかになっていく。海は本当に不思議だ。

 

結団式も終わり、海開きの神事が始まるとビーチには大勢のメディアの姿。
関係者も挨拶の中でこんなにメディアが集まったのは初めて…と話す。

 

 

 





 

 

神事が行われている間、
我慢出来なくなった子供たちが海辺で遊び始めた。
子供の喜ぶ声が浜に響き渡る。

 

 

 





 

 

そんな子供達の声を聞いて、
気仙沼大島観光協会の白幡昇一会長もこんな事を仰った。

 

 

白幡会長「今こうして子供達の遊ぶ声を聞いて、
本当に震災があったのかとさえ思います。」

 

 

会長の挨拶は続く。

 

 

白幡会長「気仙沼大島は観光と水産がメイン。そんな中での海開きです。
復興にかける想いは強い。ご覧の通り、小田の浜はこれだけ素晴らしいロケーションです。
ですが、まだまだ全国的には知られていない。
宮城県内で唯一オープンしている海水浴場をぜひ訪れて欲しい。」

 

 

 



 

 

振り返ると目の前には凪いだ海が広がっている。
【小田の浜海水浴場海開き祈願祭】も無事に終了し、
沢山の子供達がそれぞれのマリンアクティビティを楽しんでいた。
どうかこの光景がこれから先も続き、
来年には更に多くの人達が集まる事を、祈らずにはいられない。
海開きが行われた後、桜井さんに再びお話を伺ったが、
万感胸に迫るものがあるのだろう。
その瞳には少し涙が浮かんでいるように見えた。

 

何もかもが、きっとここからなのだ。
様々な物を奪われた海を、再び開く。
そこには地元の方々の複雑な想いもあるだろう。
ある方が海開きの挨拶の中で、こんな事を仰っていた。

 

 

「海を恨んだ時期も勿論ありました。
でも、それでも我々は先祖代々、こうして海と向き合ってきたのです。」

 

 

小田の浜、必ずまた訪れる事を誓って。

 

 

 





 

 

気仙沼大島から再びフェリーで気仙沼港へ。
我々は車を走らせながら、ここ気仙沼でもう一人会いたい人のもとへ向かった。
前回YAJIKITAが気仙沼を訪れた時にお会いした、 


NPO法人「ピースジャム」の代表:佐藤賢さんである。
ピースジャム」は被災地の赤ちゃんとママを守る為、
物資や生活の支援を行うNPO法人であり、
その設立の経緯は前回の旅日記で詳しく書いてある。
あの時から5カ月が経ち、いまはどんな活動を行っているのだろう?

 

 

 


ピースジャム代表 佐藤賢さん

 

 

 

 

佐藤「来てくださって、有り難うございます(笑)」

 

井門「だってまた来るって言いましたからね(笑)」

 

 

僕と佐藤さんは同い年だ。
何だか同年代の気安さがあって、ついつい話し込んでしまう。
佐藤さんもそのようで(多分ですけど…そうだったら良いなぁ)、
今のストレートな気持ちを伝えてくれた。

 

 

佐藤「震災から1年…とか1年○○ヵ月…って言うじゃないですか?
節目なのかもしれないですけど、僕らからすれば何も変わってません。
だって“1年経ちました”って言ったって、
じゃあ次の日から劇的に何かが良くなってるかって、そんな訳は無いですもん。」

 

井門「町の様子、人の様子はどうですか?」

 

佐藤「少しだけ、町の人の表情が明るくなった気はします。
前に来ていただいた時に比べて、色が戻ったっていうか…。」

 

 

井門「お母さん達への物資は足りてますか?」

 

佐藤「足りている物もあれば、まだまだの物もあります。
震災から時間が経ってまだそんなに?って思うかもしれませんが、
実際まだ必要な物は沢山あるんです。」

 

 

これは実際にピースジャムのHPを見て戴くと良いかもしれない。
必要な物資の中には「被災したママへの励ましの手紙」もある。
きっとあなたにも出来る支援が、今だからこそある筈なのだ。

 

 

ピースジャム

 

 

 

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OAの中にもあったが、桜井さんの言葉は深く心に残る。

 

―被災地の現状と前に進んでいく力強さを見てほしいー

 

そしてピースジャム佐藤さんの言葉、

 

―1年は節目でもなんでもない。
1年経ったからって、次の日から劇的に何か変わる訳でもない。―

 

震災直後は日本中、いや世界中が被災地に目を向けた。
祈りをささげ物資を届け、そしてボランティアに訪れた。
今はどうだろう。
気仙沼や沿岸地域を回ると、瓦礫の撤去は進んだものの、
まだまだ手つかずの場所も数多く残る。
仮設住宅で生活している方々のこれからの事もあるだろう。
現実問題として自分が生まれた町に、もう戻れない方々もいる。
そういう事に、もう一度、心を寄せてほしいのです。

 

東北が遠くて、なかなか来られない方もいらっしゃるでしょう。
でも心を寄せる事は誰にだって出来る筈なんです。
そして心を寄せた先に、何か自分が出来る事はないか、
もう一度考えられると思うのです。
今回僕らは気仙沼と石巻に宿を取りました。
宿は2泊ともとても快適で、夜は地元のお酒と肴をしっかり堪能しました。
震災直後では考えられない事です。
でも今ならそれが出来ます。
ここまで来るのに、沢山の方の大変な努力がありました。
まだこれから先も、復旧と復興に時間はかかるでしょう。
大切なのは、人の手と心です。
やっぱりこの旅日記の最後でも、僕はいつもと同じ事を言います。

 

人を笑顔にする為には、やはり人の笑顔が必要なんだと思う。 
そして笑顔を増やす為には、元気なあなたが被災地の方に会いに行く事が一番ですし、
そうでなければ、心をもう一度、被災地へ寄せてみて欲しいのです。
あなたの笑顔はきっと、被災地の皆さんの笑顔を取り戻す為の、大切な支援。
出来る範囲で構わない、続けていく事が何よりも大切なのだから。