滋賀の近代史にその名を刻んだ外国人、ヴォーリズの軌跡|旅人:井門宗之
2012-09-06
自分が暮らしている町に深く関係する外国人。
皆さんはすぐにパッと名前が出てくるだろうか?
ちなみに僕の地元は北海道なので、
間髪入れずに出てくるのは“ウィリアム・S・クラーク博士”の名前。
今回はそんな“ある町に深くその名を刻んだ外国人”の足跡をたどる旅なのであります。
その舞台とは…滋賀県近江八幡市。
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旅の始まりは近江八幡市を眼下に見下ろす八幡山。
ここはロープウェーで山頂まで4分ほどの手軽な観光コースの一つ。
土曜日だったこの日は、同じロープウェーに我々と合わせて10人程のお客さん。
動き出した車内から見える景色にしばし釘付けとなるのだが、
このロープウェー、山頂に到着するまでずっと豊臣秀次公についてのアナウンスが…。
しかも何故か物悲しいBGMと共に流れてくるので、
山頂に到着する頃には何となく秀次贔屓になっている不思議を味わえる。
しかしまぁ、展望台から望む景色の素晴らしい事。
東京からおよそ3時間の移動でこの景色に出会えるのだ…。
その中にはかつて安土城があった山も見える。
ミラクル「あそこに安土城があったと思うと、
ドキドキするんだよね~♪」
歴史好きのミラクル、作家魂に火が…いや歴史好き魂に火が点いている。
慶吾「それよりよー、売店にコーラが無ぇんだよー。」
いつものマイペースぶりは健在、カメラマン:太っちょ。
佐々木「あぁ…あそこのアンテナが…あぁ、そうか。
アンテナの写真撮っとこ!」
技術系の血は、どこで騒ぐか分からない!D:佐々木氏。
ここに井門Pを合わせたいつもの4人で、旅はスタートしたのであります。
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近江八幡でその人生の大半を過ごし、
太平洋戦争の真っただ中もアメリカ人ではなく日本人であった青い目の近江商人。
その名もウィリアム・メレル・ヴォーリズ。
近江八幡に、いや滋賀にとって外す事の出来ない人物が、この方なのであります。
彼がこの国にやってきたのは明治38年、24歳の時でした。
当時アメリカから船で15日間もかけてやってきた彼の当初の目的は…、
―――日本でキリスト教を広めていく。
その使命は神がもたらしたものと信じて疑わなかったヴォーリズは、
言葉も通じない異国の地に降り立ったその瞬間に“この国に骨を埋める”と誓ったとか。
我々はまず彼の人生の歩みを探る為に、
市内にある“ヴォーリズ記念館”へ向かいました。
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煉瓦と木造のこの建物は、滋賀県の指定有形文化財に登録されている。
ヴォーリズと満喜子夫人が過ごした住居を記念館として、そのまま残しているのだ。
お話しを伺ったのは館長の藤田宗太郎さん。
優しい語り口でヴォーリズの人生を教えてくださった。
井門「そもそも何故ヴォーリズさんは近江八幡に来られたのですか?」
藤田「彼はそもそも大学で2年間建築を学ぶんですが、
転科して哲学を勉強する様になるんです。
ある時、基督教を世界に宣教する為の集会(学生宣教義勇軍大会)に出席して、
そこでの講演に大変感銘を受けるんですね。
外国で宣教する為にその身を捧げよう、と。ただ、
“世界で宣教活動を行うのなら、誰も訪れた事の無い土地に行きたい”と考えるんです。」
井門「それで…この近江八幡に?」
藤田「そうなんです(笑)
近江八幡に着いた時の彼は24歳。でもすっかり神様の啓示だと信じてますから。
この土地でキリスト教を広める為に、もうアメリカに帰らない覚悟はあったでしょう。」
当初は滋賀県商業学校の英語科教師として来日したヴォーリズ。
(あくまでも彼は牧師としてではなく、伝道師として来日している)
熱意あふれる彼の人柄と教育理念は瞬く間に学生の心を掴み、
当時珍しかった青い目の先生の周りには常に学生の輪が出来ていたそうな。
藤田「ただやはりそれを面白く思わない人達もいました。
結果彼は2年半で英語教師の任を解任されてしまいます。」
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しかしヴォーリズの志はそんな事では挫けなかった。
そもそもの建築の才能と商才が、みるみる彼を事業家として成功させていく。
井門「それなら当時、何不自由ない暮らしをしていた事でしょうね。」
藤田「とんでもない。彼は生涯を通じて私有財産を持たなかったんですから。
得たものは全て社会事業につぎ込んでいきました。」
井門「中には日本人にとって身近なものもあるとか?」
藤田「はい、メンタームの近江兄弟社はヴォーリズが創業者の1人ですし、
結核の為の病院、子供の為には学校なども設立しました。
遺した建築物はおよそ1600にものぼります。」
井門「何かお菓子の文化にも影響を与えたとか?」
藤田「あぁ、ヴォーリズのお母さんですね。
当時ヴォーリズは父と母を日本に呼び寄せていたんですけど、
有名な“たねや”さんに、さつまいもを使った洋菓子の作り方を教えた…とか。」
井門「スイートポテト…になるんでしょうかね?」
藤田「当時の日本人はさつまいもを蒸かして食べるとか、
お味噌汁に入れるとかしかしなかったでしょうから、驚かれたと思います。
バターも大変貴重な時代でしたから。」
言葉も分からない国で、情熱だけでいつ咲くか分からない種を蒔き続けたヴォーリズ。
それを支えた満喜子夫人の存在も大きかったのだろう。
藤田「世が世ならおひいさん(お姫様)ですからね。
*満喜子夫人の一柳家は子爵の家柄。
でも生涯彼らはベストパートナーだったんですよ。
この部屋もそうですが沢山の本が並んでいるでしょう?
整理の為に開いてみたんです…すると二人の手書きで、
例えばヴォーリズが“ここは重要!”とか書いてある。
するとその横に夫人の時で“ありがとう!”なんて返事があって。
仲睦まじい様子が伝わってくるんです。」
館内には夫婦2人の写真も飾られているのだが、
互いを支え合うかの様な優しい表情が印象的だった。
“僕はお会いしたことが無いんだけど…”と藤田さんは続ける。
藤田「先輩から聴いた話ですけどね、ヴォーリズさんが語る言葉はとても熱かったそうです。
人を惹き付ける魅力があったという事でしょう。」
自らはあくまでも質素に、だけど志は滾る程に熱く。
厳しくもあり、でも人に接する時はどこまでも優しく。
実は日牟禮八幡のすぐ近くにヴォーリズ像がある。
少女が花束を渡そうとする、それを優しく見つめる像なのだが、
この姿や眼差しが全てを語っている気もするのだ。
藤田館長、貴重なお話を有り難うございました。
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記念館を後にした我々は、せっかくだから町歩き。
ヴォーリズさんが遺したか建物の数々をゆっくり探す事にした。
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ミラクル「さっき藤田館長のお話にも出てきたけどさ、
ヴォーリズさんのお母さんが“たねや”の洋菓子を…って話。」
井門「覚えてますよ。でも今や“たねや”の洋菓子部門と言えば、
クラブハリエが全国的にも超有名じゃないですか?」
ミラクル「今回は何と…、
そのCLUB HARIE社長の山本さんに、
お話しを伺える事になっているのです!!」
一同「うへぇ!!」
ミラクル「あっしだってやれば出来るでゲスよ。へへへ。」
という訳で完全に調子に乗っている吉武氏をしり目に(先輩なんですけどね)、
我々は日牟禮八幡にある【CKUB HARIE近江八幡日牟禮ヴィレッジ】へと向かった。
参道を挟む様にして左は【CLUB HARIE】、右は【たねや】というロケーション。
この日は土曜日という事もあり、
駐車場には県内だけでなく奈良・堺・神戸・大阪ナンバーの車も目立っている。
*もうほぼ駐車場は一杯でありました。
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レンガ造りの外観は非常にモダン。
そして建物の中に入った瞬間には“ふわっ”と甘い香りが広がる。
目の前には作りたての色鮮やかな洋菓子の数々が並び、
その後ろは大きなガラスで仕切られ、
職人達がその腕で魔法の様にお菓子を生み出しているのだ。
一歩店の中に入れば、誰もが一度うっとりと足を止める。
ここCLUB HARIEはお菓子の世界へと来る人を見事に誘ってくれるのだ。
佐々木「あぁ、あれがバームクーヘンだね!凄い凄い!
まさにいま作りたてを切りだしてるじゃないですか!?」
慶吾「バームクーヘン…食べさせてくれるかなぁ…じゅるり。」
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山本「今日はようこそいらっしゃいました!」
我々が厨房を覗いていると、
真っ白なコックコートに身を包んだ恰幅のいい男性が笑顔で迎えてくれる。
この方こそCLUB HARIEの山本隆夫社長その人であります。
夢の様なお菓子の数々に、多少場違いなYAJIKITA一行…(笑)
でもそんな我々に用意して戴いたのは…なんと特別室!
こちらは店舗の奥があのヴォーリズが設計した旧忠田邸を補修改築した建物になっており、
そこは日牟禮カフェの特別室として利用する事が出来るのだ。(要予約)
洗練された調度に心地いい部屋全体のデザイン…。
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YAJIKITAとしては珍しくふかふかのソファでのインタビューとなった(笑)
井門「この部屋はどんなコンセプトでお客さんに利用してもらおうと?」
山本「都会から来るお客さんには、この喧騒を離れた時の安心感を味わって欲しいんです。
私自身が例えば大阪や東京から、ここ滋賀に帰ってきた時の“ほっとする安心感”、
これを何とか同じようにお客さんに感じて戴けたらと、
そんな想いでこちらの特別室を開放しております。」
井門「CLUB HARIEのこだわりはどんな所にありますか?」
山本「旬の物を仕入れて、そこからアイデアを出すようにしてます。
もちろん“こんなお菓子を作ろう”で仕入れる物もありますが、
“今はこれが美味しいからこれを仕入れよう”がまずありきです。
ですから洋菓子も、2・3日で入れ替える物もありますよ。
旬という意味ではお寿司屋さんなんかもそうだと思うんです。
旬の感覚と日本で手に入れられる食材の素晴らしさにこだわってます。」
井門「外国ではなく、日本で手に入れられる…ですか?」
山本「私もフランスにいた時期もありますので、向こうの食材の素晴らしさも知ってます。
でもそれ以上に日本には世界に誇れる食材が沢山ある。
日本で手に入れられるのに、わざわざ空輸する事はないんです。」
果物などは特に空輸する事で美味しいタイミングを逸しかねない。
ならばとCLUB HARIEの職人達は、その足で全国を飛び回り日本の美味を追い求めるのだ。
山本「ここ日牟禮ヴィレッジには15人程の職人がおりますが、
CLUB HARIE全体ですと300人~400人程のパティシエがおります。」
井門「その中で主力商品のバームクーヘンも生まれたと。」
山本「うちの何よりの1番人気です。
ただこれを焼くのにも技術が必要です。
ここの職人でも焼ける様になるには2~3年かかるんですよ。」
井門「今日もお店では焼き立てに行列が出来てましたけど、
一般のバームクーヘンと何が違うんですか?」
山本「うちのは正式な“バウムクーヘン”じゃないんです。
本当は“バーム”では無くて“バウム”と表記するんですけど、うちは違うでしょう?」
井門「確かに!これは何故ですか?」
山本「作り方が違うので、敢えて“本式とは違うんですよ”と言っている様なもんです。
その代わり、味には絶対の自信を持っています。」
CLUB HARIEのバームクーヘンの最大の特徴はその食感である。
山本社長に聞くと本来日本人というのは唾液の分泌量が少ないのだそうだ。
だから口の中でパサッとなる食べ物をあまり美味しいと感じない。
特にバウムクーヘンは年輪を表すお菓子で縁起物とされてきた。
縁起ものでよく使われるのは例えば“結婚式の引き出物”だろう。
引き出物で使われるという事は、=日持ちしなきゃならない。
その為に製法や食感も限定されていき、ボソボソとした食感の物が多くなるのだと言う。
山本「ですからウチのバームクーヘンはそのしっとり感にこだわってます。」
井門「ちょうど来たので、さっそくですが戴きます!!」
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…うま――――いっ!!!!!
“口の中で溶ける”みたいな言い方は嫌いなのだけど、
バームクーヘンの中にある甘いエキスがシュワっと口の中で溶け広がっていくように、
ふわふわジューシーなバームクーヘンのその食感と味が素晴らしい!!
間違いなく断言しますけど、今まで食べたどんなバームクーヘンより旨かったです。
山本「そう言って戴けて嬉しいです。
WPTC2012でチームジャパンが連覇したことで、
ある意味プレッシャーとの戦いの毎日ですから…。」
そうなのだ。
今年7月8日、9日にラスベガスで開かれた製菓の国際コンクール、
「WPTC2012」において日本代表が何と連覇を成し遂げ、
何とそのチームキャプテンこそCLUB HARIEのシェフ:妹尾徹也さんなのだ。
しかも前回大会では山本隆夫社長自らが参加し、世界一の称号を手に入れている。
山本「いやぁ…相当なプレッシャーでした。
今回は前回の優勝があって期待感も相当でしたから…。
でもこうして優勝すると毎日のようにパティシエが世界中から来るようになるんです。
それも本当にプレッシャーで…(笑)
大会はCPも何も考えないでテーマに沿ってやれば良いですから派手に出来ますけど、
お店の商品はそうはいかないですからね。
でもそんな人達にチェックされても大丈夫な様に、しっかりと作っています。」
井門「妹尾さんという方はどんな方なんですか?」
山本「面白い経歴ですよ。もともとはトラック運転手です。
ある日、ケーキ作りたい!と思い立ってウチの面接を受けに来た。
こっちは男手が足りていなかったので、こりゃ丁度いいと(笑)
最初はケーキ作りとは全く違う場所で働いてもらって、その根性を見ていたんですが、
まったく折れずにしっかりと働いている。
コイツはなかなかだぞ…と思って、突然ケーキを作らせる部署にいかせたんです。」
しばらくすると妹尾さんはメキメキと頭角を表してきたという。
やはり叩かれても、叱られても負けない根性は大事なのだろう。
そしてそれを続けていって、世界チャンピオンなのだから…そりゃ凄い!
もともとはヴォーリズが蒔いた種でもある。
それがいつか芽吹き、バームクーヘンという年輪になり、
いまそれはリーフパイとしてどんどん葉が付き始めているのだ。
井門「偶然とはいえ、ヴォーリズさんがどこかで見ているかもしれませんね。」
山本「はい…。それが何より緊張するかもしれません(笑)」
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旅の終わりは池田町洋風住宅街。
ここは近江八幡市の中でも、ヴォーリズさんが建てた民家が並ぶ貴重な場所。
煉瓦塀が時代をそこだけタイムスリップさせている。
24歳で日本に来て80歳を過ぎて亡くなるまで、
日本を愛し近江の文化面での発展に尽力し続けたヴォーリズさん。
凄い事ですよ。
だって言葉も分からない、伝手も無い異国の地で正に一から様々な事を始め、
その種を蒔いていったんですから。
しかもその種はいつ芽を出すか分からないんです。
見返りの無い…と言ったら言い過ぎかもしれませんけど、でもそれに近い種まき。
それが出来るのはヴォーリズさんがこの国の人を信じ、愛し続けたからでしょう。
明治の終わりに蒔かれた種は時を経て、
21世紀の今もしっかり根を張り大きく育っています。
今のこの町をヴォーリズさんが見たら、どんな事を思うだろうな。
多分笑顔で、嬉しそうに“うんうん”って頷いてくれる様な気がします。
近江八幡の町を歩けば見えてくる、ヴォーリズさんの蒔いた種の跡。
人生は思い通りにはいかない。
でも思い通りにいかないからこそ、
腰を据えて何かをやり遂げる意義をこの町の景色は教えてくれるのです。
「ヴォーリズ君は世に稀に見る建築術の天才であり、
また深く日本を解し、これを愛する米国人の一人であります。」 内村鑑三
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