悲劇の知将…石田三成の生涯を追う|旅人:井門宗之
2012-09-13
愛であります。
これはもう、愛なのであります。
「おいおい、また訳の分からない事を言いやがって…」とお思いの皆さん。
僕もそう思います!(えぇぇぇぇええ…)
ただし今回の旅のガイドを務めてくださった方の、
ある人物への愛の大きさを知れば今回の旅の裏テーマが「愛」だという事に気付く筈なんです!
じゃあ、今回の旅は何がテーマなのか!?
『悲劇の知将…石田三成の生涯を追う』
これです。
もうね、担当作家が歴史大好きミラクル吉武さんなもんで、
企画書も構成台本も文字数が多い多い(笑)
ちょうどOAされる日が9月15日か16日に当たる今回の旅。
実は石田三成の運命を大きく変えた天下分け目の合戦「関ヶ原の戦い」が行われたのが、
ちょうど9月15日なんですね。
それもあって我々は石田三成が生まれた長浜の辺りを旅したながら、
あまり良いイメージの無い三成の真の姿を追いかけてみよう…と(そんな大仰では無いのですが)
旅の始まりは笹尾山。
かの関ヶ原の合戦で石田三成の本陣があった場所であります。
そして今回の旅の心強いガイドさんはこの方!
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石田三成の居城があった佐和山の麓で生まれ、本格的に三成を調べ始めて13年ほど。
義に生きた三成の姿を多くの人に知って欲しいと願う、
オンライン三成会の田附清子さんであります。
最初に御挨拶をした時は「そんなに上手にお話し出来るかどうか…」と言われていたんですが、
いざ取材を始めるとその軽やかで分かり易いガイドは止まらない!
まさに我々にとっての島左近となったのであります(笑)
田附さんのご案内で笹尾山に登り、関ヶ原をまずは見下ろしてみました。
あぁ…ここが天下分け目の合戦が行われた場所なのか…。
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今は見渡す限り山に囲まれた広大な田園風景ですよ。
収穫前の稲穂が金色の絨毯となってどこまでも広がっている様に見える。
田附「三成が本当に言われている様な悪い人だったのか、
知りたくなったところから始まってるんですよね。」
扇形に広がる関ヶ原を眺めながらそう仰る田附さん。
東軍・西軍の展開パネルを見ながら丁寧に関ヶ原の戦いを教えてくれる。
田附「あの時にね、小早川秀秋がね…アイツが裏切ってさえなければ!!」
井門「おぉ…田附さん、熱い!熱いっす!」
田附「小早川隊の中にも勿論、自身の隊が石田隊に向かっていくのに疑問を感じて、
止めた人間もいたと言います。」
井門「歴史にたらればは禁物ですけど…関ヶ原の場合は考えてしまいますね…。」
田附「そうですね。歴史は結果が分かっているので、
ここ笹尾山からの景色は悲しくもあるんですよねぇ…。」
いきなり最初から田附さんの三成への愛をひしひしと感じる。
でも三成をずっと調べている田附さんにこんなに愛されているのだ、
やはり僕らが抱いている三成像と真の三成像は違うようだ。
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関ヶ原…実は初めて訪れた場所でもあるのだが、
この平和な風景からおよそ400年前に血生臭い合戦があったなんて信じられない気持にもなる。
おそらく当時も原野か田園風景だっただろうと教えてくれた田附さん。
東軍・西軍それぞれの想いを抱いて、ここで両軍相まみえたのであります。
たった1日でこの戦は「東軍の勝利」という形で終わりますが、
昼前までは西軍有利だったとも伝えられています。
やはり小早川軍の裏切りが、戦局を一変させてしまったのでしょうか。
天下統一の為に動き出した徳川家康と、豊臣家の安泰の為にそれを阻止しようとした石田三成。
戦国時代は二君に仕える事自体、悪い事とはされていませんでした。
田附「秀吉が亡くなった後、主君となる豊臣家を見限ろうと思えば出来た筈です。
でも三成はそれをしなかった。彼は最後まで主君への義を貫き、
関ヶ原の戦いの後、京都六条河原で斬首されてしまうんです。」
井門「二君に仕えず…という言葉は?」
田附「あれはもう少し後に、徳川の世で出始めた言葉だと言われます。
戦国の世は自分の才覚ひとつでのし上がっていく時代。
だからこそ島左近も三成に仕えたのでしょうね。」
「三成に過ぎたるもの二つ」
と言われた内の一つ、武将:島左近。
まさに三成の右腕中の右腕。
彼も義に生き、関ヶ原の戦いでは最前線に陣を敷いて獅子奮迅の働きを見せる。
田附「ただ島左近も合戦で亡くなったと言われます。」
井門「亡くなったと“言われる”というのは?」
田附「大乱戦の中で島の首が見つかっていないんです。
ひょっとしたら生きのびていた…と想像も出来るのですが、
やはりあれだけの大軍同士の戦。遺体も見つからなかったというのが事実なんでしょうね…。」
関ヶ原の戦いは東軍も西軍も8万人は擁していたと伝えられています(諸説あります)。
その人数が関ヶ原に集結していたのですから…それは大乱戦と言えるでしょう。
三成はその中で最後まで西軍の中心として戦ったのです。
井門「毛利や島津を動かして、大勢力だった家康と対峙したのですから…。
その才覚と力量はすさまじい物があったのでしょうね。」
田附「少しずつ三成の姿が分かってきたみたいですね(笑)
では続いて、秀吉と三成の出会いの現場に行ってみましょう!」
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続いて我々が向かったのは関ヶ原から車で20分くらいの所にある観音寺。
山の麓にひっそりとある大きなお寺であるが、
ここは三成がまだ世に出る前に預けられていたお寺だというのだ。
田附「当時お武家さんは長男が家督を継ぐものでした。
なので次男などはお寺に入れられて修行するのが一般的だったんです。」
井門「秀吉とはどうやって出会ったんですか?」
田附「秀吉は徐々に出世して石高も高くなっていきました。
そうすると自らの周りに人材が欲しい。
なので自らの土地を見回る名目で、
お寺等に赴きめぼしい才能の発掘をしていたみたいなんです。」
井門「そこで三成と出会った…と?」
田附「三献の茶ってお話は聞いた事がありますか?」
ある日、観音寺を訪れた秀吉。
喉の渇き著しく、たまたまそこ居た佐吉(三成)に茶を所望した。
しばらくして佐吉が持ってきた茶は、大きな器にぬるめの茶。
“おぉ、ちょうどいいわ”とぐびぐび飲み干した秀吉。
もう一杯を佐吉に命じる。
すると次は先程に比べ少し熱め、かつ量も減らして持ってくるではありませんか。
飲んでる途中で秀吉はその微妙な違いに気付くんですね。
“ひょっとしたらこの小僧、喉の渇きに合わせて量と温度を変えてるのか?”と。
そこで秀吉は試しに3杯目の茶を佐吉に命じます。
しばらくして出てきたのは、小さな器に熱いお茶でした。
三成は秀吉の喉の渇きに合わせて、正に量と温度を微妙に変えていたのです。
その機微に感動した秀吉はそのまま三成を召し抱えます。
これが三献の茶のエピソード。
田附「実はその時の水を汲んだ井戸がここに残っているんですよ。
行ってみましょうか?」
一同「ぜひ!」
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井門「ちょっ…蚊…!!!!」
佐々木「うわっ、蚊っ、うわっ…うわーっ!!!!」
はい、夏の水辺には要注意なのであります…。
続いて訪れたのは石田三成生誕の地である「石田町」。(さらっといったー)
最近はゲーム等の影響もあり三成人気が高まっているそうで、
こちら石田町にもかなりの歴女達が足を運ぶようになったという。
我々は三成生誕地でもある石田会館へ向かった。
お話を伺ったのは石田三成事蹟顕彰会の木下茂昭理事であります。
まず案内されたのは石田会館すぐ近くの石田家一族の供養塔。
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こちらには出土した墓石、供養塔が祀られているのだが、
これ自体は 昭和16年に神社の境内から、
故意に割られた五輪塔残欠が発見されたのがその発端だという。
木下「こうして綺麗に整備したのはそれからしばらく経ってからですけどね。
でも出土する前から境内には何かが埋まっていると言われていました。
ちょうどその出土跡の上で子供のころ遊んでいると、近所のおばあちゃんに叱られたもんです。」
井門「木下さんは石田三成の何が優れていたと思われますか?」
木下「やはりあの乱世にあって、義を貫いた…という点でしょう。
何が何でも豊臣家を守るんだという、その姿勢は胸を打つものがあります。」
ここには三成辞世の句の碑も置かれている。
そこに書かれた句の、何とも胸の締め付けること…。
『 筑摩江や 芦間に灯す かがり火と
ともに消えゆく わが身なりけり 』
その後、場所を移して石田会館へと移動。
木下さんにお話しを伺った。
木下「ここには資料的なものはあまりないんですが、
ここにいらっしゃったらぜひ我々に色々と聴いて下さい。」
田附「ここでしか聴けない三成の話を、皆さん持っていらっしゃいますからね。」
木下「本当に最近はここを訪れる若い方も増えました。
多くの方に石田三成公の事をもっと知って欲しいです。」
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悲劇の知将、石田三成の生涯を追う…
我々の旅の終着点は、三成の居城があった佐和山である。
ここ佐和山の登山道はなかなか険しい。
田附さんの手には何故か長い杖が…。
田附「皆さんの中で杖、入る方いらっしゃいませんか?
皆さんお若いから、大丈夫か(笑)」
白状しよう。
実はこの時、喉の上くらいまで「杖、くださいっ!」が出かかっていた。
しかしここは腐っても井門P(腐っても新鮮でも井門P)。
あくまで杖に頼らず、山道を登る事にしたのだ。
そして道中…
佐々木「ちょっ…あぁ!クモの巣っ!!!!」
田附「はいはい。(グルングルン←手にした杖を振り回す)
こうしていかないと前に進めないもんね(笑)」
井門「蚊がっ!!!蚊の群れが…!!!」
田附「気をつけてくださいね~。(杖を巧みに操りグングン進む)」
そして頂上を目指す道中で様々な佐和山城の遺構を見る事が出来た。
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山の入口から登る事、およそ20分。
ついに到着した佐和山の頂。
ぱーんっと開けたその場所からは、琵琶湖や関ヶ原を一望する事が出来た。
驚いた事に、我々は取材していると初老の男性とうら若き乙女のカップルが。
よく見てみると乙女は男性に熱心に何かを聴いている様子。
ミラクル「あれは本気の歴女っぽいでゲスな。へへへ。」
佐々木「やっぱり多いんですね、三成ファンは…。」
ボランティアガイドの話を熱心に聴き、
記念写真を撮る姿は一見すると歴女とは分からない。
しかし最近は間違いなく、こうした歴女の数が増えているんだという。
ここだけの話にして下さいね…という前置き付きで田附さんはこんな事を話してくれた。
田附「最近のゲーム人気もあって歴女が本当に増えたんです。
しかもその子達はみんな物凄く三成に関して詳しい。
私はそれが悔しくって(笑)」
井門「そうですよね!
こちとら佐和山に抱かれる様にした育ってきたっちゅう話ですよ!」
田附「そう(笑)心の中では“あなた達より知ってるわよ~”なんて思っちゃう。」
そう笑いながら話す田附さんの横顔は、まるで恋する乙女そのものである。
この旅日記の最初に戻るのだが、今回の旅の裏テーマは“愛”。
何より田附さんが三成への愛を深く深く持っていたのだ。
田附「三成の旗印【大一大万大吉】の意味はご存知ですか?」
井門「一人は皆の為に、皆は一人の為に…という様な事でしたっけ?」
田附「はい。でも私はこう思うんです。
“皆がひとつになったら、(この世は)皆が幸せになるんだ”って…そんな想いと、
そこに縁起の良い“大”の字を付けたんじゃないか、って。」
井門「天下太平を願ったとすれば、“天下分け目”なんて言われたくなかったでしょうね…。」
田附「えぇ、そうかもしれません。
でも平和な世の中を願ったのは家康もそうでしょうし、
信長や秀吉もそうだったと思います。
結果的に家康の世になっただけで、その想いは皆が一緒だったと思うんです。」
佐和山からの景色を眺める田附さんの表情は、とても優しい。
ひょっとしたら、三成が描いた“武士の夢”に想いを馳せているのかもしれないなぁ。
そんな事を思っていたら、田附さんが不意に…
田附「でもここからの眺めがこんなに良いのは、
皆さんが三成に歓迎されてる証拠だと思いますよ。」
そうだと良いなぁ。
本当にそうだと良い。
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◆◆◆◆◆◆◆◆◆
天候は田附さんの仰る通り、ほんとうに快晴だった。
遠く琵琶湖も綺麗に臨め、手前には彦根城を見下ろすことが出来る。
後ろには天下分け目の合戦の舞台・関ヶ原が広がり、
目を閉じれば三成の想いに手が届きそうな、そんな錯覚すら覚える。
「彦根八景 武士の夢 佐和山」
そんな看板が掲げられていた佐和山の頂き。
戦国の世に石田三成が描いた夢は何だったのだろう。
今はもう想像する事しか出来ないが、
ここに立つと彼が天下を取った世の中も見てみたかったな…という気になってくる。
乱世に生きた数々の武将達。
敗戦の将の物語はいつの時代も不平等に描かれてしまうものだ。
そして石田三成も、そんな武将の一人だった。
ただ少なくとも今回の旅を終えて、自分の三成へのイメージは大きく変わった。
三成も愛したであろうこの佐和山からの風景が素晴らし過ぎて、ちょっと泣きそうになった。
この場所を愛した三成が、悪い人であろうはずが無い(笑)
どうでしょう、皆さんも三成の足跡を辿りながら、彼の物語に耳を傾けてみては?
きっと今までとは違う石田三成像に出会える筈です!
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